【2】

初めは闇しか見えなかった。浮いているのか、落ちているのか…何もわからない。
私は…死んだのかな?じゃ、今私がいるのはあの世の入り口…? そうだ…河だ…河で溺れ死んだ…。

ふと気付くとそこには…何か長いものが私の周囲を取り巻いている。何だろう…『それ』は生きた心地が
していて…見たことすらないのに何だか懐かしい…。 蛇?それとも竜? 綺麗な桃色をしているわ…。

そして『それ』は私の目の前に顔を見せる。整った凛としたラインにガーネットの紅い瞳が覗き込んできた

あ……



「シィラ!目が覚めたか!」

天井の白いタイルがゆっくりと眼界に姿を見せた。私の身柄は何処かの建物にあるベッドの中だった。
私の傍らに居てくれたのはずぶ濡れのジャージ姿をしたモラロだった。まだぼんやりとしか見えなかったが、
視界がはっきりしてくると彼の目元が幾らか赤くなっているのに気付いた。

「ここは…?」
「天気研究所だ。お前は大雨で決壊した濁流に呑まれたんだよ、覚えてるか?」

言われて――あ、とようやく記憶が蘇ってきた。モラロは今頃気付いたかのようなシィラの態度にハァとため息をつく。

「ったく、心配かけやがって…もう少し遅れてたらお前、今頃死んでたんだぞ?」
「お兄ちゃん、ごめん…なさい」
「おっと、謝るのなら俺だけじゃなくて、その魚にもだぜ?」

とモラロが別の方に指差す。そこを見ようと身体を動かそうとする。
刹那、全身に電気椅子にかけられた直後のような痺れが迸り失敗した。シィラは何とか横目でそれを見た。

あの鰭に光沢のない黄色の体表と水色の背鰭…シィラはすぐにヒンバスと判った。

「え?この子も…私を助けたの?」
「ああ、そうだ。その、何て説明したらいいのか。 ほら、お前河に流されてたろ?
そしたらその時お前の身体に、桟橋に繋がったロープに引っかかったんだよ。そしたらそのヒンバスがさ
ロープの切れ端を加えて…あれだ、流れに逆らって泳ぎまくって…流されるのを留めたってか…」
「え?え?お兄ちゃん、全然言ってる事がわかんない」 

聞けば聞くほどイメージが付きにくくなっていた。モラロの国語の成績が低い理由も分るような気がする。
ベッドのシィラが訝しげに言ったその言葉が、モラロを余計に混乱させたのか、頭を掻き毟り始めた。

「つまり、その…あれだよ。お前が救ったヒンバスの恩返しだよ。」

一言でまとめられた。不意にシィラの全身の痺れが全快したのか、反動的に身体が動いた。

「えー、それじゃ私わかんないよー。ねえもう一回ちゃんと…」

だがシィラは起き上がってすぐに気付いた。モラロが小声で――まずい、ととっさに目を逸らす。
シィラはポカンとした表情で布団の下にある自分の身体をよく観察する。身に纏っているのは自分の服ではなかった。
自分が着ているのは『天気研究所』とエンブレムが刻まれた白衣一着…その下は小さ目のブラウス等の下着だけ。
全身の血が一気に頭に上っていった。

「あ、…悪い。そのままじゃ風邪引くと思うから…上着だけ乾燥させてもらって…」
「このバカッ!」

と、真っ赤な顔でシィラが枕を投げつけた所で部屋の外からノックの音が聞こえてくる。モラロは枕を返しながら
―― はーい と軽く返事する。すかさずシィラは着せられた白衣のボタンを急いでかけ、隠れるように布団に潜り込んだ。

扉を開ける。背丈はモラロよりは高いが…体つきは痩せ型でこの時勢によくみるロイド眼鏡を着用している白衣姿の青年だった。
…多分、喧嘩にはめっぽう弱そうね… 布団から片目だけで覗いたシィラはそう目測する。

「あ、レオンさん。頼んだ物…ありましたか?」
「あったよ。倉庫の奥で埃を被っていたのだが…性能は衰えてはいないはずだね」

そう言いながらポケットから木で造られた着色のない丸い球をモラロに手渡した。―― おっ、これこれ とモラロは笑った。
懐から出された小さな球はシィラの位置からは見えずに、好奇心のままに布団から身を乗り出した。  

「それって…モンスターボール?」
「あれ?シィラちゃん、目が覚めてたのか」  
「あっ…はい…」
レオンが気づき声かけるが、シィラは寝たふりを咄嗟にしてしまったのを悔んだのかぎこちない会釈になってしまった。
だが彼はそのまま気さくに――無事でよかったよ。と流してくれた事にほっと息をついた。

「さて、シィラ。このボールはお前にやるけど…どうする?そのヒンバスに使うか?」
「…!」
モラロの表情は今までに見た事のないほど穏やかだった。きっと私が寝ている間にレオンっていう人に
ヒンバスとパートナーになれるようにボールをお願いしたんだ、とシィラはその台詞で確信した。無意識で笑顔になっていた。
しかし、一瞬昨日の父と母の姿が写った。明か様にヒンバスを飼う事に反対しているかのような表情が私の笑顔を奪った。

「でも……」
「ふん、ばかだな。家族に遠慮する奴があるか?そのぐらい俺が言ってやるよ  
だからお前は、この魚と『ちゃんと組めるかどうかだけを』心配しろってんだ」
「え?どういう事?」  
「そうか…シィラちゃんはまだトレーナーじゃないから知らないんだね」

彼女の疑問でレオンの説明は始まった。

この時代のモンスターボールはシィラに手渡された様な、木製で何の着色もされていない質素なものだが…
まだ実は大陸全土をくまなく探してもたったこれ一種類しか存在しないのである。しかも性能はまだかなり劣る面もある。
この木製ボールが持っているのはあくまで『ポケモンを出し入れする』程度の性能しかもっていない。

それ故にトレーナーはポケモンを捕獲したとしても、パートナーとなった訳ではない。慣れない他人でしかない存在なのだ。
例えジムバッジを持っていても愛想を尽かしてボールから出たまま逃亡するケースもこの時代には日常茶飯事だった。

「うそ…そんなに厳しいの…?」
「ああ、何せ俺でさえこのワンリキーとちゃんとした相棒になるまで…そうだな…1年はかかったな。
しかもその途中で仲間割れして殴れれるわ蹴られるわ、結構怪我したぜ」

そう言いながらモラロは顔の右耳の裏をシィラに見せる。生々しい傷跡にシィラは思わず生唾を飲んだ。

「……っ」
「ははっ、まぁお前の場合、相手は魚だからせいぜいヒレでひっぱたくのが精一杯だけどな」
「ちょっとお兄ちゃん…冗談やめてよ」

人を不安にさせといて今度は笑わせるのか、と思いつつも結局兄の思惑通りシィラは苦笑してしまった。
そこでレオンが最後に口を挟む。

「トレーナーになるならヒマワキの中心にあるセンターに仮登録を提出するといいよ。
まぁどのポケモンをパートナーにするかで差は出てくると思うけど…魚系なら一週間一緒に過ごせただけで
正式なパートナーとして認定されるからね」
「はぁ、わかりました」

と、そこで窓を打つ風雨の音が少し引き始めた。モラロが窓を開け、手をかざすと雨は小降りになっていた。
――雨も上がったことだし、帰るか とモラロはシィラに目をやる。 刹那シィラは鋭い眼光でモラロをにらみつけた。
布団の下に隠れている彼女の身体を思い出し、しまったと顔を伏せた。

「はは、大丈夫だよ。君の服ならすでに乾燥機で乾いたからね」
「ありがとうございますレオンさん。レオンさんはうちの変態兄貴と違っていい人ですね」
「な、何だよそりゃねーだろ」

二人の漫才にレオンは腹を抱えて笑った。
ヒマワキへの帰り道、ヒンバスを入れた木製ボールを持つシィラの表情は少し誇らしそうに見えた。


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