【4】

私が教室に入ると騒がしい教室は一瞬にして静まる。クラスメートが全員白い目で私を見てきた。
机に掛けようと歩くと、ひそひそ声がまた教室中を埋め尽くす。私の歩く先に足をかけて転ばせようとする者もいた。
――いつもの事か と私はひょいと飛び越え無視するように自分の机に座ろうとする。刹那、私は愕然とした。
無数の落書きで埋め尽くされている…。その文字すべてが私とヒンバスに対する侮蔑の言葉だけだった。
よりによって油性のマジックではない、消しゴムで消せる鉛筆書きだった。消せない物では証拠の品となるためだろうか?
いずれにせよ、卑劣なやり方である事には変わりはない。

――そっちがその気なら、私だってやり返してやる

私は文字を消さなかった。後数分で先生が来る。消さなけりゃ向こうがこの状態に気づいてくれるはず…。
内通しなくてもこれならきっと…、と私は期待に胸をふくらませて担任の先生が来るのを待っていた。


「はーい、みんな。席について」

この席は先生の視界からよく見える。ましてこんなに黒く染まった机なら目立って目につくはずだ。
私は敢えてその単元の教科書とノートを机に載せなかった。少しでも見えるように…ふと、先生の目線がこっちを向いた。
反射的に「これを見て!」と主張するように私は机を少し揺らした。予想通り先生の目線はシィラの顔から少し下を向いた。
――助かった と安堵の息をついた事を後悔する。先生は目を逸らすかのように教科書に目を戻してしまった。

「…では皆さん、昨日の課題を提出してください」

その言葉に、絶望的な圧壁が私を隔絶してしまった。呆然とする私の耳に周囲からの蔑むような小さな笑い声しか聞こえなかった。
見渡すとクラスメート全員が悪魔のようにさえ見える。隣に居合わせたリムという娘は気まずそうにノートにだけ目を向けていた。

「どうしたの雪原さん?課題は?」

ハッとして見上げるとそこには間近にいる担任だった。こんなに近くにいながらこの人は課題の事しか話題を振ろうとしない。
怒りや憎悪というより、哀しみと悲観といった感情が沸き起こってきた。私は観念したように荷物の中のレポートを手渡す。
そのまま担任はきびすを返してさっさと教卓に戻っていった。干渉を避けるようにそのまま黒板に白墨をこすりつけていた。
思惑は外れ、授業は結局何の支障もきたさずにただ進んでいく。

私は孤独の谷底に身をおとしていた。




次に我に帰った時、私は校舎の屋上に立っている。放課後呆然としながら夕暮れになるまで私はずっとそこに居た。
クラスメートからも蔑まれて、先生ですら見放されて…誰もがこの子のよさを分ろうとしない。
頬を幾筋もつたう涙を拭いながら夕日を見つめる。時折、屋上から真下をじっと目をやり、やってはならぬ禁忌を思った。
――その時だった。

「………、…辛い?」
「っ!?」

背後の突然の声に私はギョッとして振り返った。そこには一人の女性が立っている。パッと見、まず担任ではないと思った。
夕日に紅く照らされて腰にまで届く長い髪が風になびく。その髪が赤く光を跳ね返しているところをみると金髪だろうか?
目元は凛とした鳶色のようだが、どことなく私と同じ寂しさを持っているかのように見えたのは気のせいか。
とかく私は挙動不審ながらも問いかけてみる事にする。

「あ、あなた…誰?」
「ああ、ごめんなさい突然…私はメリー・グレーヌ。…スカイ団の一員」
「…スカイ、だん…?」

最初、私は何かの冗談かと思っていた。けど相手の真剣そうな表情を見る限り…ようやく違うと分った。
不意に二人を纏う風が一層強くなってきたように感じる。太陽の最後の一欠片が暗く深い赤みを帯び始めた。

「それで…私に何の用ですか?」
「悪いけど…今日の君を影からずっと見張っていたわよ。そのヒンバスの事も…」
「…!」

突風が吹きつけた。空の星が疎らに瞬き始めた。白い砂地の校庭が闇に包まれ、それを取り囲む木々が風に煽られ
ザーザーと騒音を奏でる。私は知らず知らずその音に聞き入っていた。何て答えるべきなのか考える余裕がなくなった。

「あなたは、昔の私によく似てるわね…」

金髪の女の言葉にやっと現実に引き戻された。

「え?」
「ええ、よく似てる。あなたと同い年だった時、あなたと同じ事で結構悩んでたわ」
「そうですか…やっぱり、私がいけないのかな?
私だけ周りと違う事をするから、普通の人じゃないって思われるのがオチなのかなっ…」

私は初対面の人に対してたった数分でこんなに打ち解けるようになれるなんて思ってもみなかった。
二人でセメント仕立ての手すりに手をかけた時、身長の差があるのに肩の高さが同じような気がした。
メリーは続けた。

「私は、そうね…確かに最初のパートナー選びで皆から馬鹿にされたし、毎日朝が来るのが怖かった。
いっその事、このコイキングなんて元いた河に捨ててしまおうって何度も思いつめてた。

…でもそんな時、私を救ってくれた恩人がいたわ」

――恩人 という言葉を言い放った時だけ、メリーの顔は真上の星空を向いていた。
横から見てみるとさっきとは別人のように火照った笑顔になっている。その目先にその恩人の姿を思い描いているように私には見えた。

―― そんな顔ができるんだ

メリーは顔を戻して言った。

「人ってね、生きているだけで幾つもの出会いがあるわ。そして幾つもの道がある。
あなたがその道を突き進むならその先にきっと私を救ったような恩人に出会えるし、諦めたって誰も責めたりしない。
それはそれであなたにはその先にまた違った道があるのよ」

「つまり、私次第…って事ですか?」
「ふふ、物分かりがいいわね」

笑って答えるとメリーはコンクリートの床を歩きだし、屋上から立ち去ろうとする。
私は思わず ――待って と言おうとするがメリーは先に、

「ごめんなさいね、突然やってきて身勝手な事言って。
でもあなたの選んだその道…結構面白そうだし、それに何よりあなた芯が強そうだから。

それじゃあね。天気研究所のセインによろしく伝えておいて」

と言って金に輝く長い髪をなびかせ、メリーは華奢な指を二本口にくわえ、割れたような甲高い指笛を鳴らす。
私はその時に舞い上がった突風で目を奪われた。次に瞼を開いた時には影も形も残っていない。
どこかはるか遠くで鳥が羽ばたく音だけが響いていた。

私一人屋上に取り残される。辺りを見渡すともうすっかり夜になっていた。
――いい加減帰らないと… 急いで荷物をまとめ、暗い階段を駆け降りる。学舎を出た途端に私は思わず足を止めた。
街灯が一本もないこの地域では夜の道は月と星しか頼りにならない。私は不安な心で岐路を歩いた。
この不安定な中で探るような歩き様は、自分のこれからを暗示しているようにも思えた。

結局帰り着くまで20分とかからなかったが、結構長く歩いたような気がした。ヒンバスの事で頭がいっぱいだったせいか、
家の扉をくぐったと同時にモラロの――遅い、何やってたんだ? という問いかけに言い訳が浮かばなかった。

――そういや、あの人…セインっていう人と知り合いなのかしら?

毛布に包まれながら、私は丸枠の窓から沈みかける三日月を眺めながら眠りについた。
分かっていると思うけど、私は夜の8時に寝る主義である。


ついに七日目、この日を過ぎれば規定通り私とヒンバスは正式なパートナーとなる事ができる。
しかし、私は昨夜のメリーの言葉とクラス中の虐めの事で未だにヒンバスと組むか迷い続けている。
学校への道が前より長くなったような気がする…とそこで私は前方がやけに騒がしい事に気がついた。

男の子が一人、大柄な連中に取り囲まれている。それも5人…随分と卑怯な連中だと思った。
その連中に囲まれているのを隙間から覗くと、私のクラスメートの一人だとすぐにわかった、名前は確か、真田伊助…。

「うらぁっ!」

私は思わず息を呑んだ。生まれてこのかた、人が人を殴るのを間近で見たのは初めてだった。
よくお兄ちゃんが趣味でポケモン同士での戦いの他に、人間同士で戦う『プロレス』を見ていたのを覚えている。
―― 私は無論、いつもその番組になると無意識に席をはずしていた。

そんな過去と今目の当たりにしている光景が重なり合わさっている。一発、二発…十発、肉を打つ鈍い音が響き渡った。
とうとうイスケという少年は霜が降りて濡れた畦道に伏せた。ここから見て、彼が泣いているのも分った。

「へっ、だらしのねえ野郎だ」

と男共は下衆な笑いをしぐったりとしている彼のポケットを探っている。…金を盗る気だ。
私は辺りを見渡した、不幸な事に誰も通ってこない。助けを呼べない。
今、誰かを呼びに動いた所で連中はもう姿を消しているに決まっている。 ――どうしようもない…

それでも私は連中の近くにずっと居たから(なぜか私がいる事に気づかないけど)顔はよく覚えている。
後で、私が見た事を証言すればそれでいいかもしれない…。

連中は止めをさすように寝転がっているイスケの腹をサッカー選手の様な勢いで蹴り飛ばす。
絞るような声と同時に彼は全身泥だらけになって転げた。吐血もしている。 

連中はふん、と蔑むように踵を返した。

―― 私、このまま何もしなくていいの…?

もう一度イスケを見やった。小さな嗚咽を漏らしながらも、連中を追おうと必死で這いつくばっている。
もう一度辺りを見る。畔道に他には誰もいない。

腰にはヒンバスを入れた一つの木製モンスターボールがある。 

―― 今止められるのは、私達だけだ 

私は不良ならではの歩き方をしている連中の大きな背中を見据え、一呼吸する。 そして……

「…待ちなさい!」

―― こんな大声だしたの、初めてだわ…


…その日、この畦道は水で濡れていた。それもその場所だけ津波が起こったかのようになっていた。
そこにはこの辺りを縄張りにしている5人の不良共が仲良く目を回して倒れていたそうだ。


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