夏の太陽が容赦なくぎらぎらと頭を照りつける。切り傷に滝のように流れる汗が滲んでとても痛い。

「…さすがに…強いな……」

酒を飲んだわけでもないのに再び立とうとする脚は千鳥足だった。目の前には憮然として身構えるワンリキーが居る。
彼の全身の傷はコイツの鉄拳と鋭利な爪が原因だ。もうこれまでコイツには10戦0勝10敗だった。

ワンリキーはまだ自分の体力敵に余裕だとこれ見よがしに、軽やかに飛び跳ねている。
汗が滴り落ちる間もなく奴は止めを刺さんと、間合いを詰めて彼に酔拳を叩きつけた。彼の悪夢はいつもその11敗目の出来事だった。

【8】

「モラロ」

まどろみの様な夢心地と蛇が這うような嫌な感触の中で、その一声でやっと目覚めた。
目ヤニがモラロの視界を遮っているせいか、軽く揺さぶりながら彼を起こしたのがホーリィである事に随分時間がかかった。
重い瞼でぼんやりと周りを見渡す。昨日の大地震の被災者たちが朝飯のおにぎりを頬張りながら他愛もない雑談をしていた。

「ふぅん…ずいぶん汗だくだなぁ。少しうなされてたぞ?」

「ああ…いや、まぁ…ちょっと夢、な見てたんだよ」

「夢?」

モラロはワンリキーを開け放つ。小さな光と共に出てきたそのワンリキーはまだ無防備に仰向けで眠っている。
軽く頭を撫でるモラロの右腕に生々しく腕をつたう古傷が覗いていた。ホーリィの顔が一瞬訝しげに歪んだ。

「小さい頃、コイツをパートナーにした夢だよ。俺が12歳の時だったから、もう5年も昔だな。
格闘系を手にするには…強靭な肉体を持つコイツ等の鉄拳に耐え忍ばねばならない…。
これはお前も知ってるよな?」

ホーリィは黙って頷く。彼の言うように格闘系のポケモンは扱う人間も同様に強い肉体と精神を要する。
それを知らずに不用意に手にしようとしたトレーナー達は何人も彼等に倒され、運悪く命すら落とした者もしばしば。

「…何度も負けたよ。てめーに成り下がる気はさらさらねぇ!って言われているようで悔しかったな。
俺は11戦目でやっとパートナーになった時、何ていおうか…大切なモンを教わったみてーでな」

「ふぅん」

言いながらホーリィは適当に愛想笑いをしてみせた。何となく温度差がある。黙って聞き流すしか術が思いつかない。
モラロはもう少し寝かせてやろうと再びワンリキーを収め、ホーリィに顔を向きなおす。

「お前は何か自分の美談とか持ってないか?」

その問に一瞬ホーリィの喉が詰まる。眠そうに緩んだ目と寝癖のついた黒い髪から何ら語れる話を持ち出せるようではない。
モラロはそれを汲んでいるのかどうかはしらんが、少しの沈黙の後、もう一言付け加えた。

「ま、悪い夢とか見なさそーなタイプだもんな」

「それは違う」

即答した。

「俺だって、悪い夢一つぐらい見るさ…」

ホーリィは悪夢一つと言った。 嘘だ。

「へぇ?何だ?」


「…左の手の平に黒い小さな文字が出てな、いくら石鹸で丹念に洗っても落ちないんだ。
それどころかその黒い文字はアメーバが増殖するようにどんどん増えていって、
手の平から指先、手の甲、左腕、そして全身を埋め尽くす………という内容のの悪夢だ」


「…何だそりゃ?」

だがモラロが更に聞こうとしたその時、白衣を着た研究員の慌しく駆ける足音がここに響く。ダンボールの仕切りから
顔を覗かせてみると、レオンの蒼白した顔が間近に現れて豆鉄砲を食らったように彼は仰け反り、尻餅をつく。
二人が何かあったのかと、様子を見ているその一瞬、周りの高齢者たちの雑談が消えうせた。

「このヒマワキに、盗難届けの出ていたサイドン3体が変死体で見つかったそうです…っ」

「何っ?場所は」

「南東の川原付近に…死因は今の所分かりませんが…」

「案内してくれ」



さて時は少し前に遡る。河を流れる水に太陽の光が乱反射し、風音が周りを包んでいた。しかし、今日に限って
いつになく騒がしい。3人が1人を取り囲み罵倒の言葉を連ねている。その中心に私が居た。
未だ空になっているポリタンクがやけに重い。耳にタコがつくぐらい人を見下して、無駄なエネルギーを
何でこうも使い続けられるのだろう、とむしろ私は感心した。

「つーかさ、アンタよくそんな汚いのと手を組めるよね、ってか抱けるよね」
「……」
「シカト?ホント純粋なまでに汚らわしいわ」
「さっさと見捨てちゃいなさいよ。いつまでも意固地になってんだか」

「……ない……」
「は?」
「私…それでもこの子と、一緒にいたい…」

一瞬沈黙が流れた。繰り出したヒンバスが今自分の主人の身に何が起きているのか分からず、
ただ口をパクパクしているだけで主人を庇う意志が全く見受けられない。そんな様子を3人は唖然と見やり、
やがて顔を見合わせて刹那、腹を抱えて高笑いをした。

「救いようのないバカねコイツ」
「『ソレデモコノ子ト一緒ニイタイ』だって、ダサいにも程があるわ」
「ふん…河にでも突き落としてやるわ。頭を冷やしてやるから」

そう言ってじりじりと私との間合いを詰めていく、私は河を背にして立っている事に今更気付いた。
繰り出したヒンバスとキノココを前に立ちふさがるのはエネコロロだの、スバメだの合わせて4〜5体が居た。
集団で攻める気か。
誰がどのパートナーなのか、そしてこの3人の名前が何というのかすら私には今更どうでもいいことだった。
こんな卑劣な戦い、適当に受け流し、打っ棄りして逃げようという私の魂胆がもう既に根付いている。

戦闘は始まった。スバメはまず木々の枝を小さな身体ですり抜け、高い空目指して飛び立つ。
地上に残る二体は一気に間合いを詰める。私は指で軽く迎撃の指示を示唆した。キノココはマッスグマを、
そしてヒンバスはエネコロロを。瞬間的に襲い掛かった二体は力のベクトルを曲げられ、勢い余った力で地面に投げ出される。
私が当てた指の向きは丁度攻撃を角度45度に受け、且つ負傷のないように受け流した。
瞬殺できる―― と確信、いや油断していた連中は驚嘆に歪んだ。 私はその顔に笑いも軽蔑もせず、ヒンバスが居る
右手を躍らせ、指先を立ち上がろうとしているその猫に向けていた。

「あ…まず……」

1人が呻く間もなく、ヒンバスの大水が猫の鼻先を捕らえ川原の淵ギリギリまで吹き飛ぶ。だがその後背を狙われた。
私の死角の範囲内にて、キノココに受け流されたマッスグマが全身の毛を逆立て、針のように細い体毛が放たれた。
私はそれを目の端で見切り、右手の人差し指を地面に向けた。右手の動きにすぐにヒンバスが動く。
ヒンバスが地表に口をあてがい、水を出したように身体を震わせた瞬間、キノココのいる位置から大水が吹き出る。
その大水に乗ったキノココは体毛針から免れる。まぁ最もこの攻撃を敵のパートナーが『声』で指示していたから
私もすぐに反応できたからこの迎撃はどちらかというと運が良かったといって良い。

―― コイツ…

この間、たったの30秒弱。私は一声もあげずに2体を片付けた。―― 後は空からくる雀に気をつければ勝ったも同然…
と油断していたのか、真正面を飛ぶ泥に気付かなかった。河の水を含んだ泥は飛沫を飛ばしながら放物線を描いて、
私にはそこまで見えていたけど、体が即座に言う事をきかなかった。

「きゃっ」

視界が泥で塞がれる。しかも痛くて目を堅く閉ざし、足元が覚束なくなった。真昼なのに真っ暗な闇の向こうで
虐めっ子の女子の一人がたしなめる様ででもどこか動揺を隠し切れない口調で話してきた。

「この女忍者…馬鹿じゃないの?誰が正々堂々と戦えっていったのさ。
悪いけど、あんたごときに遅れを取られるのはあたしのプライドが許さないからさ」

「んっ…」

「スバメー!この女に攻撃しな!」

「!?」

極めて危険だ。いかに小さな小鳥といえども、ポケモンが生身の人間への攻撃はやはり侮れない。
私のすぐ近くでキノココの胞子を振るう乾いた音と、ヒンバスの鰭をふる水気交じりの音が私を護っていると認識させた。
攻めて河の方で泥を拭わないと…私はあの時の大地震にあった時のように地面を這った。
後ろの方で連中がまた高笑いをしているのが聞こえる。スバメももう間近かもしれない。尖った嘴を想像して震えた。

―― 万事休す…

と思った次の瞬間、この川原から遠く離れた場所から何か悲痛な叫び声が鼓膜につんざいた。私も一瞬ビクッと震えた。
その叫び声に後ろに居た3人も急に恐れをなしたように―― え、何…? 何か叫び声が… と不安そうな会話が聞こえてきた。
そして足早に駆ける音が聞こえ、それ以来急に静かになってしまった。私は何とか川原まで手探りで辿り着き、急いで顔を洗う。
濡れた顔で後ろを振り返ってみるともう虐めっ子3人は居なかった。 それにしても今のは何だったんだろう?

ポリタンクに水を入れ、重そうな足取りだが急いで私はお兄ちゃんたちの居る体育館へ戻ろうと走り出した。
だが壊れた街に入ってすぐ、私は地割れの起きた一角で一つの人だかりに気付く。その中にモラロとホーリィが居た。
重い物を持って痺れた左手を一旦右手に持ち替え、私はそこへ駆けつける。その場所でもただならぬ異臭に鼻が曲がったが。


「お兄ちゃん!」

「シィラか、水汲みしてきたんだな」

「うん…それより一体どうしたの?」

「昨日の大地震の…犯人だよ」

「え…?」

私は群集を掻き分け、取り囲んでいる中心を見ようとした。そしてすぐに後悔した。貧血に倒れそうになった。
顔は蒼ざめて、息が荒くなる、鼻を塞ぐ。

「ひどい…何てこと」

そこにあったのはサイドンが三体の変死体だった。身体はもう腐敗臭のガスが溜まっている。
人だかりもやってきてはその死体を見る度に気分が悪くなったようにそそくさと去る。
私はまだ朝御飯も食べていないのに胃の中からこみ上げる異物を感じ取り、一目散にトイレに逃げた。
鼻をつまむモラロが細い目で言った。

「そりゃ、無理もないよな。なぁ、ホーリィ…ホウエン警察が来るまで幕かなんかで包んでおこうぜ」

「だな、そういえばモラロ…さっきの話…」

「何だ?」

ホーリィは一瞬自分の悪夢の話を蒸し返そうとした事に戸惑いを覚え、言いかけたことを悔いた。
左手に刻まれる文字の示唆する意味を自らばらしても何の特にもならない。
言いかけた所でホーリィは別の話題をふろうと必死にボケている脳の中を探り出した。

「何だよ?」

モラロの少しだけだけいらついた言葉でホーリィはやっとキーワードを思いついた。

「あ、ほら。ホウエン警察と言えばさ、最近の犯罪率急増を少しでも緩和する為に
俺たち一般市民から補佐員を急募しているって話が出ていたろ?」

モラロは口を丸くあけて頷いた。雑誌はおろか、ラジオでも少数派の成金にしか見れないテレビですら
黄金時間のトップニュースに連日報道され、知らないのがおかしいといってもいいぐらいトレーナーの間でいきわたっている。

「ああ、それで大陸の数か所で選抜の筆記試験と実技試験がこのヒマワキで行われるって…」

そこでやっとホーリィの旅路の目的を悟ったのか、パッと明るい顔でホーリィを見た。

「そっか、お前それが目的でここまで…」

「2か月前も同じのがフエンでもあったけど、もう一度リベンジを兼ねてな」

しかし、今更気づくにもモラロは相当鈍い男だ、とホーリィは内心そう思っていた。


戻る                                                       >>9へ

 

inserted by FC2 system