【9】 すらりとした細身の少年は周囲の目に怯えながら目の前のパンに手を伸ばす。生まれて初めて、少年の手は罪に汚れた。 テント仕立ての粗末な店で、少年はパン2,3手に取りを手提げ荷物に忍ばせ足早にそこを去る。 これで何とかなる、と彼の顔は少し魔が差した様に歪んだ笑みが自然と浮かんでいた。 その瞬間だった。 不意に腕を鷲掴みされて走る自由を奪われる。そして同時に身体の中心から氷が凍てつくような感覚にとらわれた。 少し大げさに云うと自分の人生に終焉のピリオドが打たれた。男の腕から少年が小刻みに震えている。 「おい」 背中越しに聞こえてくる少し荒れた太い声。生唾を飲み、ゆっくりと少年はこちらを向いた。 おどおどと周りを見渡すと、そこには訝しげな表情で集まってくる通行人たちの槍で突くような痛い視線があった。 少年は羞恥心と罪悪感に顔を隠すように伏せた。できれば膝を地面に着きたい心境だが、細い腕を強い力で掴まれている以上、 そんな事はできやしない。恐る恐る顔を上げると赤バンダナをした男がもう一方の手で少年の手提げ荷物を漁っている。 「あ…」 すぐに少年がそこの店でパンを3斤盗った事がばれてしまった。まだシィラと同い年と見受けられる14才の少年には 罪を犯した人間がどのような罰を受けるのか、まだ想像だにできない。しゃっくりあげる声が口から洩れる。 「万引きだな?」 「……」 少年は冷や汗が流れている頭を下に振るしかなかった。男は無言で少年の腕を引き、店に引っ張った。 ところが男は目の前にいる老いた店員の目を盗み、少年が盗ったパンを元の位置に戻した。少年はぽかんとあいた口を塞げず、 「さ、出ようか」 「え…ちょっ…」 言う間もなく男の腕に引かれて店の外に、そしてそのまま川沿いにヒマワキへの道を歩いていた。 そこで男はピタリと歩くのをやめる。そのガタイはくるりと少年の方を向きなおし、ふっと笑みを浮かべた。 「パシリ、だろ?」 「!」 「図星か」 少年は真田伊助(サナダイスケ)という。彼は不良共に目をつけられ、店のパンを盗んでくるように脅されたそうだ。 言うまでもないが彼を止めた赤バンダナの男はモラロだ。偶然店の前を通りかかったこのイスケの表情を見て、 すぐに物盗りだと判ったのだ。罪を犯した直後の人間の大概は表情は怯え一色にそまり、人目を避けるように逃げる。 いわゆる犯罪者の心理である。その事情を全部聞き終えると、イスケは下を向いて泣きじゃくった。 「んで、盗みをやらかせようとしたその卑怯者はどこにいるんだ?」 イスケの涙目はそのモラロの問いとほぼ同時に何かを捕らえ、そして急に泳ぎ始めた。その様子にモラロの表情も流石に 険しくなり、そしてイスケが見た先を見てみる。そしてすぐに今の質問の必要性がもはやない事を悟る。 数人の男たち、その容姿は自堕落を露にしているように乱れきっていて手元には物騒な棍棒や銀色に光るナイフが。 横一列に並び二人を塞いでいる。 ふと連中の足もとにモラロは注目した。毛を逆立て、牙を剥き出しにしてこちらを威嚇する炎のヘルガー。 傍から見れば、ほぼ敵である彼らへの敵意と警戒、そしてパートナーである不良の防衛というサインとみるしかない。 だがモラロには違って見えた。 「おいお前、頼んだもんは獲ってきたか?」 一人がモラロの体躯の後ろに隠れて震えているイスケに言い放つ。その台詞には明らかに語弊がある。 ――「獲る」ではなく、「盗る」だろ? こいつら… 「見ろよ、こいつ年端もねーくせに用心棒つれてきてやがるぜ」 「パンと木偶の坊の見分けもつかねーのか、節穴の目ん玉だなぁ」 その言葉に不良共の高笑いが木霊した。モラロの目つきが弓のように細く、ボールを構える大勢をとった。 「へっ、そこのにーちゃん。哀れな市民にお恵みくだせぇ」 「パン取ってきてくれよぅ、腹と背中がくっつきそうだぁ」 また高笑いの渦が舞い上がった。モラロはその渦の中でぼそりと小さく、でもはっきりと聞こえる声で 「下衆が」 という。その言葉で渦は消え去った。代わりに不良の怒りがかげろうのようにあがり、温帯低気圧となっていた。 そこでモラロはイスケを護れる範囲を保つ意識はとりつつも、連中の前に立ちふさがり、2つのボールから ワンリキーとユキワラシが出ている。 モラロは低く、口を動かした。 「哀れな市民…だと?反吐が出るぜ」 「ちっ、おいヘルガー。あいつの喉笛を刻んでこい」 一人がヘルガーに指示をする。 とはいっても生身の人間への攻撃を促す指示に、ヘルガーの火遁(かとん)は躊躇ったかのように一瞬弱くなる。 パートナーを庇うようにヘルガーが立ち塞がるも、牙が迷っているのがモラロには分った。 痺れを切らした不良が唾を地面に吐き捨て、炎のシールドが薄くあまり熱くない箇所を狙い、 「行けっつってんだろうが!!」 蹴り飛ばした。そしてヘルガーは間合いを詰め、土を踏切り、モラロの腹中を目指して飛び込む。 だがひょいと体をかわし、体勢を崩したところすかさず狙い、ユキワラシの冷気風を浴びせるように仕向けた。 それでヘルガーは眠りこけたようにばたりと倒れこむ。 あっという間の出来事にイスケも不良も言葉を失う。 「さぁ、それで終わりか」 「ちっ」 その言葉と同時に不良の腰元から一斉にボールからどやどやと数打ちで出てくる。7,8体。どれが有利だか不利だが もはやそんなものは関係ない。卑劣なこの連中は勝機に薄く笑っていた。モラロは踵を返すように唾を吐く。 エビワラーの酔拳が頬を貫いた。一瞬よろめき、血が少しだけ飛沫となって後ろに飛んだだろうが、 それでも余裕な所を見せてあげよう、とモラロは笑顔を作って後ろを振り向く。 「…!」 もう彼はいなかった。空しくつむじ風がその場を舞い上げていただけで、悪魔の笑いを聞いたような気がした。 いつの間に逃げたのか…、まぁこの多勢を相手に最初から勝機などない。そろそろ後ろを振り返って「逃げるぞ」と いうはずだったが…先に、しかも何も言わずに行ってしまうとどうもあれである。 モラロはポカンと立ち尽くし、それが相手に攻撃を許す隙を与えてしまった。格好の的となった背中は無残に 敵のポケモンが繰り出す鉄拳と炎で打ちのめされ、倒れた。 顔に泥がつき、意識は夢現をさまよう。けどすぐに鉛のように重いスパイクと脚が顔を蹴り、ハッと目覚めた。 そしてすぐに胸元に憎しみのようなモヤモヤが疼くのを覚える。自分を痛めつける連中と、僅かながらにイスケに。 また再び顔と腹を蹴られた。 焦点の合わない目の先に戸惑うように目を逸らしている連中のポケモン達がひどく悲しそうに歪んでいる。 その様子をこいつらは目もくれない。憎しみというより遣る瀬無さが湧きおこる。 意識がとんだ。その向こうで連中の罵倒の声がガンガンと頭の中に響いてくる。 調子こくなだの、殺すぞだの、もはやそんな言葉は今更どうでもいい。 * 私は彼を見た瞬間にどんな状況下なのか予想がついた。お兄ちゃんがホーリィさんと眺めていたこのチラシに 私も目を配っていたその最中、いつぞやのイスケ君が息を切らしながら私のところに駆けてきた。 全身汗だく、肩でする荒い息。 走った距離は体力からしてそんなに遠くはないだろうと予想できる。 とりあえず私はどぎまぎと口を開く。 「イスケ君…? どうしたの?」 「じっ、実は…」 そこで間を作り、彼は生唾を呑み込む音をたてる。生意気にも喉仏が動いたのが見えた。 ひどく動揺していて、説明がいまいち分からないがとりあえず不良に絡まれて逃げて来たのだけは把握できた。 どうやら彼の意図は私に助けてほしい、という事だろう。もう心を読み取ったようにボールを二つ腰に取り付けた。 イスケ君に絡んだ不良なら前に助けた事を覚えている。芯のある自信に満ちた顔で床から立ち上がる。 ――背丈は私の方が明らかに低いのに、何故かこのときだけ私が高い位置にいるような錯覚にとらわれた。 「わかったわ、とりあえず行ってみる」 「う、うん! ありがとう…」 イスケはやっと安堵に顔をほころばせた。とそこで真後ろから声がかかった。 「ダメよ」 少し張りのある少女の声。私には聴き覚えがある。イスケの細い体躯にあまり隠れていないその子は 青のワンピースをつけた眼鏡の子。そして学校の時はいつも隣に座っていた。 リム・ルディスだ ――虐めを受けていたときは私の視線を合わそうとしなかったが。 今日は眉をしかめて私達二人の前に腕を組んで仁王立ちしている。 イスケは一瞬オロオロと身体が震えた。 「私、見た。全部」 「え?」 「あなた、弱虫。自分に掛かった火の粉も払えずに自分だけ逃げて、さ、おめおめと女の子に頼る気?」 「……っ」 「知らないだろうけどさ、あなた別の人に護られて、勝手に逃げた事も言わないよね。 正直言ってあなた、卑怯よね。自分だけ被害者らしくしてさ」 「ち、違う…」 「違いないでしょ、シィラちゃんやめたほうがいいよ」 「え…でも…」 私が迷った顔でリムを見る。その直後に足音が響いた。イスケが戸口目掛けて走っていた。 「ほっときなよ」 * 夕暮れ時、モラロはぼんやりと紅い空を眺めている。木陰に腰掛けたいが背中の傷でもたれる事ができない。 戦闘の結果がどうなったのかはもはや言うまでもなかった。ついさっきまでホーリィと語り合った 「ホウエン警察補佐隊人員募集試験」のチラシが夢の話のような気さえしてきた。はやく帰らねば… そう思うと身体が鉛のように重くなる。今この時間だけ、何に対してもやる気の欠片も湧かない自分だった。 背後で誰かが来た。荒い息でモラロの後ろに立っている。振り返るとイスケだった。モラロは目を細めた。 今更何の用だ、と軽蔑の色が夕日の紅い光に混じってイスケには見える。周囲を見渡す。不良はもういない。 イスケの目はもう潤んでいた。フラフラの脚が今にも土下座しようと小刻みに笑ってやがる。 「ご、ごめんなさいっ…僕…助けを…呼ぼうと…」 モラロは脱力感が急に爆ぜた気がした。皆まで聞かずにモラロはイスケとすれ違うように並木道についた。 その瞬間、ぼそりと口走る。 「…幻滅だぜ」 そのままモラロは去っていく。イスケはしばらく呆然と立ち尽くし、廻る世界から切り離されたような孤独感に 襲われ、やっと我に返ったときにはもうモラロの姿はなかった。イスケの心の内を表すように辺りはどんどん 暗い赤から紫に、そして夜に。 その夜道の中で、イスケが後悔と懺悔にすすり泣く声だけが無残に響いていた。 |