苦しくない日なんて一日もなかった 目を瞑ればば数多の痛い記憶が胸を痛める もう、安楽の日など来ない 誰も信じてはいけない オレは憎い、何もかもが この同じ丸い監獄(ボール)の中で 【B】 私は目を疑うしか術がない。殴られて倒れたのはエリックでもなく、モラロでもない、ホーリィだ。 周りに居た他の受験者たちはどよめいている。みんな揃って目を丸くし、得体の知れない何かから遠ざけるように その三人の居る空間をぐるっと丸く囲んでいる。その中ホーリィは芋虫ビードルの真似か、床を這った。 苦しそうに腹を抑えるホーリィの右頬が赤く腫れている。それを見て少なくとも二回は殴られたのが分かる。 水色のタイルを染める真っ赤な鮮血とすぐ傍に生々しい永久歯が転がる。 モラロは最初何度も彼の背中を摩りながらホーリィの名を何度も叫ぶ。そしてすぐに頭に血が上りエリックを睨む。 「貴様…っ、一体どういうつもり…」 「どういうつもりだよ?おい」 無視するように同じ言葉をエリックは吐き捨てる。ホーリィへの言葉だ。 私はすぐに眼の焦点が合わない眼をしているホーリィに歩み寄り、立てるように肩を貸した。だがエリックは容赦しない。 ほぼ無抵抗で身体の自由が効かないのをいい事に、もう一度手を上げた。 「このっ、卑怯者がっ!」 「ホーリィ!」 顔面を喰らった。周りから女性の叫び声が上がる。3発目の暴挙と同時に私の目には彼が、 もはやさっきまでの軟派男でもない極悪な荒くれにしか見えなくなった。モラロがもう一度怒った。 「いい加減にしろ!ホーリィが何したってんだよ!」 そこでエリックはヘッと哂う。乱れた髪を直し、辺りに居る観衆にわざと耳が入るような大声で言った。 「こいつはな、一年前のこの筆記試験で不正行為したんだよ」 モラロと私はポカンとした表情でその場に固まった。ハンカチでホーリィの血反吐を拭う私の手がピタリと止まる。 エリックの言葉と同時に周囲の目線が彼に集中したのは言うまでもない。その中でホーリィがか細い声でやめろ、と連呼していた。 周りからひそひそと小さな声が次第に聞こえてくる。それら全てがカンニングに対する非難の言葉だった。 「それでよくもまぁ、おめおめとまた受けに来たもんだ。そこまでして受かりたいのか?」 どう口を割ればいい…?仲裁の言葉が見つからず、私は悪戦苦闘した。 第一、ホーリィがどうしてカンニングを…? 確かにまだ彼と会ってさほど経ってはいない、 互いの腹の内は何も知らないから無理もないけど、でも少なくとも私がみた彼の姿はそんな大嵐た事をする人とは想像し難い。 少なくとも揚げ足を取るこいつよりは遥かにマシだ。 これ見よがしにエリックは近くの自分の仲間に(彼と同じ髪を染めていた柄の悪そうな連中だったからすぐに分かった) もう一年も前のことをべらべらと言いふらしている。 ―― こいつは…図体の癖に餓鬼か 「こら!何を騒いでいる!」 丁度いい所に書類を持って教官が来てくれた。エリックは―― ちっ、と舌打ちをして踵を返した。 モラロはその後ろ姿に蹴りを入れようと今にも跳びだしそうだ。彼の足が構えているようにしか私には見えない。 「え〜では、合格者諸君に二次試験の説明をする」 でっぷりと頬の肉が垂れ落ちていて加齢臭がいくらか漂っていそうなイメージの男が書類を手に取る。 今さっきのいざこざにこの教官は知らん振りをしているように感じるのは、私の人間不信が祟っているのかもしれない。 私の目つきがなぜかしら半眼になっていた。 それはそうと、私の周りに居るのは全員さっきの筆記試験に受かった人たちだけだという事に程なく気付く。 ―― 教官を睨んでいる場合じゃないや。早くここを出なきゃ。 「二次試験はこの上の層にあるドームで行う。内容は今から一人ずつ…」 と説明している最中に若い係員が木製モンスターボール詰めダンボールを数箱カートで運んでくる。 受験生たちは教官の説明そっちのけで運ばれてきた物を訝しげな表情でじっと見据えている。 「…各々渡されたボールに入っているポケモンと1時間以内でパートナーとなる事、これが二次試験の内容だ」 その言葉を聞いた受験生たちは一度ポカンとして、そしてすぐ安堵の顔を見せた。沸き起こったざわめきの言葉は 大抵が―― 楽じゃん。 ―― なんだ、そんなもんか。 といったのが多い。 教官の説明はそれからドームに移動する事だけを言って終わった。ぞろぞろと足並みが床を鳴らす中、教官は思い出したように もう一度マイクを取り、付け足すように言う。 「言い忘れていたが、この試験で受験生が万が一負傷した時の事を言う。 いかなる場合でも私達ホウエン警察は負傷、障害の責任は負いかねる。全て自己責任でお願いしたい。…以上だ」 受験生たちはその最後の言葉の意味を把握できなかった。 私は人込みに抗いながらとりあえず廊下の外に出る。窓は相変わらずごうごうと風と雨の音が鳴り響く。 ぼんやりとドームに向かう人たちを見ながら顔見知りを捜したが、リムしか見つからなかった。目が合った時に軽く手を振り合ったが、 まぁそれだけ私が学校で知り合いが殆ど居ないのが本当の理由といってもよかった。…ところが、私は 薄手のパーカーに気の弱そうな眉をしたあの少年が見えた。私はハッとしてイスケだと思って、 ―― え…?あれってイスケ君じゃ…? と小さく声をあげたが、向こうはこっちに気付かずにさっさと行ってしまった。今のは彼だったのか、他人の空似か。 でも昨日の彼の様子からして果たして「警察」という名義の柄に合うのだろうか。そう思ったら小さく吹いた。 ―― だったら、もっと大きな声で呼べばよかった 私は後悔した。 次に目に留まったのはホーリィだった。最初に会った時から変らないのほほんとしたイメージから一変していた。 悔いる様に、そして一目を避けるように腰が曲がっている。少し暗い表情の彼が私に手渡したのはさっき貸したハンカチだ。 「すまねぇ…シィラさん。…俺の厄介事に巻き込んじまって……」 彼は絞るような声で言う。私は少しだけ間を置く。気を遣いすぎないように且つ、冷たい態度とみなされない様に できる限り気を配るように努力して問うた。 「あ、あのホーリィさん。さっきの事…本当なんですか?」 「…軽蔑した?」 「い、いいえ」 私の「いいえ」は明らかに中途半端だった。言った後で、ぶしつけな答え方をしたと後悔した。 「エリックの言った事は…全部事実だぜ。俺は、受かりたいあまりに左手に文字を書いてカンペを作った。 それが隣に居合わせたエリックにばれて…落ちて…」 「どうして…?」 「どうしても…どうしても受かりたかった。闇金に手を染めてでも俺を育てて、俺なんかのために命張って 死んじゃった母さんの魂に報いようと思ったんだ。俺はその理由で警察補佐隊に入隊する為にここまで旅をしてきた」 「あなたのお母さん…亡くなられたのね…」 ホーリィが顔を隠すように頷く。泣いているように見えたけど私はあえて目を逸らした。 私も包帯で巻かれた両親を思い出し、涙と鼻水が出てきたが、何とか抑えた。ホーリィは続けた。 「不正してまで入った所で母さんが喜ぶ訳ない。毎日が苦しかった、自分のやった罪で、な。 今でもその夢でうなされるんだ。 …だらしないよな、俺って」 私は今の自分の心を何とか言葉に表そうと、必死に自分の頭の中にある辞書を探った。 「でも…でもホーリィさんは自分のやった事、胸にしまってもう一度ここで再起をはかったんでしょ。 普通の人なら…そこでもう辞めちゃうんだけど、ホーリィさんはその分まだずっと強いと思う」 「そうか…?」 「うん」 そこでやっとホーリィが寝ぼけたようないつものへらへら笑顔に戻る。 いつの間にか廊下には私とホーリィだけになっていた。もうとっくに会場に向かっているのだろう。―― まずい 会場へ急ぐホーリィを見て、もう一言かける言葉を 「エリックのちくり屋とは違うからね!」 背中でホーリィは笑っているのが見えた。彼が階段に消え去った後で、フロアを静寂が支配する。 急に気が抜けたのか眠気に襲われたのか私は大あくびをした。―― 今日は色んな事があった。 休息日はのんびり過ごすのが私の主義なのに、やっぱり来ない方がよかったな。もう一発あくびをした。 私は早く雨止んでくれ、とぶらぶらと歩く。でもどうせ止まないなら2次試験が終わるまでここで待ってみよう。 ふとフロアの天井の方から叩くような大音が雨音に混じって聞こえてきた。人の掛け声、足音、ポケモンの技の音… 試験中だからしょうがない、と私は気にも留めなかったが…如実に様子がおかしい事に気付いた。 キャァア… ドガァアア… うわぁぁぁぁああ… 「…っ」 悲痛な叫び声に私は寒くもないのにビクッと震えた。 試験にこんな声がするのは明らかに不自然である。この施設はこの試験を受けた団体以外に誰も居ないはずだし…。 それにどう考えても上の階から不吉な音は聞こえてくる。上で何をやっているんだろう?好奇心と恐怖心が半々、私の中に疼く。 そんな時だった。 ―― 助けて… 私は驚きたじろいた。 声のような、テレパシーの様な、直接心に語りかける言葉を私は「感じた」。最初は何かの錯覚なのかと頭を抱えるが、 耳も頭もいたって正常。幻聴とは思えないはっきりとした声のようだった。 「え?誰?」 虚空に話しかける。しかし返るものはない。 ―― 助けて、苦しい…助けて 「だっ誰!?」 裏返った声を出した直後、私の後頭部が鈍い音を立てた。視界が揺れ、上下が分からなくなる。 …簡単に言うならこれを殴られて気絶した、というのか。私は糸を切られたマリオネットのように床に倒れ伏す。 * どのぐらい眠っていたのか分からない。少なくとも痛む頭を持ち上げた時、窓から紅い光が差し込んでいた。 立とうとするも、まだふらつく。ぼんやりした頭で漸く悟ったのは場所がさっきと同じ試験会場の施設だという事だ。 「いったー……」 いったい誰が?何のために私を襲ったの?そもそも気配なんて何も感じなかったのにまるでお化けのように… 私は右手で自分の腰を探る。取り合えずヒンバスとキノココの無事だけでも確認しようとするが… 「あれ?」 腰元を探った手は無残にも何も掴めなかった。あたふたして自分の身体の回りを調べても探し物が…ない。 頭痛が消えた。その代わり物凄い喪失感に襲われ、絶叫する。 「…盗られたぁああああ!!」 * 「はい、17番失格。速やかに退場せよ」 常に中立の立場にある監督の斬る様な言葉は受験生達の心をえぐった。17番のゼッケンをつけた者は その言葉に力なく崩れ落ち、とぼとぼと重い足取りで眼前に居る猛獣ポケモンに背を向けて去っていく。 今し方失格を告げた銀髪の老人は鼻の脂で滑った老眼鏡をかけ直し、木製モンスターボールを猛獣に向け…収めた。 さて、このドームの状況をざっと説明するとこうなる。 ここにポケモン達は普段のトレーナーの目からして、近寄り難いイメージを明らか様に持っている『猛獣系』が 駐屯している。バンギラス、サメハダー、クチートなど言ったところだろう。とはいっても明らかに野生に生息しているのとは違う、 凶暴なものを感じさせるのが殆どだった。何しろ、ここにいる大半はトレーナーに捕獲されるも『面倒見切れない』と 勝手に見捨てられたのが多い。 まさしく可愛さ余って憎さが百倍、といったところだろう。彼等の戦いぶりはどこか恨みと悲しみをぶつけているようだ。 試験総監督のロルは銀の顎鬚(あごひげ)を撫でながらどこか悲しそうにパイプから吸ったニコチンを吹き出す。 ―― 最近の若いのは、ポケモンと心を通わすことすら満足にできないのじゃな… ぼんやりと老人は眺め、早く終わらないものかと思い始めるようになった。と、そんな時遠くから走る足音が聞こえてくる。 息を切らせながら老人の前に少女が現れる。無論、私だ。こういう時はリーダー格の人間に相談するのが当然だと私は思っていた。 「どうした?君も受験生かね?だったら」 「い、いえ…違うんです…」 焦りと息切れで言葉にできない。一呼吸おいて私はもう一度言った。 「盗まれました…」 「え?」 「私のヒンバスとキノココ…盗まれました」 私の言葉に監督のロル・オルフィンは顔を顰めた。 |