〈4.5〉

下を見下ろす生活はどちらかと言うと嫌いだ。洗練された端麗な顔立ちの女性はいつも思っていた。
海の音と窓から漏れる潮風の匂い、今日はその中へ思いっきり飛び込むんだ。その女性は華奢な身体に似合わないリュックを背負う。
いつもは白のワンピースと麦藁帽子で外出していたが、その日は動きやすいミニスカートと薄手のローブを着こむ。
彼女はまだ端くれだがローブを着る事の出来る人間、いわば聖職者だ。

けど彼女は毎日祈りを欠かしたことはないものの、自分は神に仕える者と思った事はない。生活があまりにも恵まれすぎているから、というのが理由だ。
彼女の名はセレナ・クイナス。その身なりや手弱女ぶりなたち振る舞いは誰しもがお嬢様などといった身分と思うだろう。現に重い手荷物を持って、豪邸に仕える執事達の
目を盗んで窓から抜け出すだけでも相当苦労した。2階の窓からベッドのシーツを結わえ、その辺の柱にくくりつけてロープのようにして降りる。

部屋の鍵はかけておいたものの、放っておけばいずれ彼女の家出に気づく。窓から降りただけで息が切れている。もっと運動しておけば良かったと思った。
綺麗に手入れされた芝生の庭を横切り、豪邸の領域を示す壁に辿り着いた。後はここを超えて、あと数時間でやってくるトクサネ経由のカクタス号に乗ればこの土地とはおさらばだ。
登れそうな木を探し、彼女は枝に体重をかける。メキメキと軋む音は生まれて初めてだった。白く細長い手はすぐに赤くなった。木の葉ははらはらと落ちていく。

―― 早くしないと

必死な苦労の末、ようやく彼女は塀の上に立つ。後は持ってきたもう一本のロープで下に降りれば大丈夫。縄は豪邸の倉庫からくすねてきたものだ。
運悪く一本しかなかったので塀から降りるためにさっきは使わなかったのだ。太そうな幹に古く、汚れた縄を括り付けてセレナは砂地に足を少しずつ降ろしていった。
もう少しで外の世界に行ける。そういった初めての体験にワクワクするような躍動感とちょっぴりな罪悪感がセレナを覆う。…とその時、空が回った。

縄がぶつりと切れた。古かったのかセレナの体重がよほど重かったのか…華奢で弱弱しい体つきからして見ると縄が古かったのだろう。
一瞬にして天地が逆さまになり、セレナの真下には青空と白い積乱雲。落ちていく時間がやけに長く感じた。叫ぶ間も無く地面に吸い込まれていく。

「…っ!?」
「キャッ!」

2人の声が同時に出た。下を歩いていた運の悪い男はセレナの下敷きになって目を回している。セレナは砂地で汚れたローブを払いながら起き上がる。

「ごっ、ごめんなさい…私…」
「……」

セレナはおろおろと謝ろうとするが、無意味だった。不意をつかれた上に重い荷物を背負っていたから、結構なダメージになったのは言うまでもない。

「だ、大丈夫ですか?」
「…うう……ん」

迷彩服を着た亜麻色の髪のボサボサ頭の青年は震えながら消え入りそうなか細い声を出したと思ったら、コテンと眠るように気を失った。
その瞬間にセレナの中に流れる時がぴたりと止まった。砂地の道の遥か向こうで正午を知らせる鐘の音が鳴り響いてきたが、セレナには聞こえなかった。

「え…う、うそ…そんな、ちょっと…」

オロオロとたじろき、セレナは華奢な手で男の上半身を抱き起こしながら周囲を見渡す。この人工の砂を入れた程度の道には潮風しか通るものは無かった。
人通りはなく、助けを呼ぼうにも誰もいない。豪邸の執事達を呼ぶという手もあったが、セレナは使いたくなかった。
ふと、豪邸の塀の反対側に生い茂る林が目に入る。そこには潮風に靡いて揺らめく木々と、鳥達のさえずり。その向こうに幼い頃遊びに行った記憶が蘇った。

―― 確かこの先に小川があったわ。

セレナは迷彩服の男を必死に抱き上げ、雑草の上を滑るように運び出した。

* * *

「……ん」

ホーリィはうっすらと目を開ける。目に飛び込んできたのは青々とした木の葉を透かす眩しい太陽の光。何か後頭部に柔らかい弾力を感じた。
目を擦りながらもう一度目を開けてみると、視界の中に女性の顔が入ってきた。綺麗に整ったその女性はにこりと笑顔を見せる。

「気がつきましたね」

太陽光がバックで少し暗かったが、その女性の顔はとても白くて明るい青の瞳をしている。額には高価そうなサークレット。髪は何にでも染まるようなとても薄い茶色。
ホーリィは仰向けで眠っていて、真上にその女性の姿をみた。後頭部の柔らかい弾力は膝枕をしてもらっているからだと俄かに悟った。

「う、うわぁっ」

顔を赤らめながらホーリィは慌てて起き上がる。その女性はきょとんとした表情でホーリィをじっと見つめていた。何をそんなに驚いているの、と言わんばかりだ。
濡れた白いハンカチが落ちた。ホーリィは赤い顔をなるべく見せずに女性に手渡す。

「あ、ありがと…」
「いえ、当然の事です。いきなり落ちてきて…本当にごめんなさい」
「大した事じゃねえよ。あのぐらい、ははは…」
「ふふ、面白い方。お水をどうぞ」

女性は水をホーリィに一杯差し出した。軽く会釈して、飲みながらホーリィはその女性の背後にあるリュックに目が入り、目を細める。
ローブとミニスカート、それに手荷物。これはどう見ても旅支度だろう。けれど見てくれからしてどう見てもお金持ちのお嬢様なのは確かだ。
だが幼い頃に両親を亡くし、旅とトレーナー勝負で金銭を稼いで生きてきたホーリィの視点でいうなら、彼女はあまりに無防備すぎる。

「どこかに行くのかい?」
「えっ?」
「あんた、ひょっとして…クイナス家の人かい?」
「……はい、良くご存知ですね。セレナ・クイナスと申します。でもどうして?」

ホーリィの知識幅では造作も無いことだ。このトクサネという島にある資産家といえば、今ホーリィとセレナと名乗った女性の近くにあるあの豪邸しかない。
それもその娘が塀を飛び越えて、こんな所に出てくるとは…。 ―― 何か、におう。とホーリィは半眼になった。

「とにかく、だな…」
「はい?」
「旅をするなら、そんな目立つ身なりをしていると目を付けられるぜ?」
「え?…分かるのですか」
「ああ、まぁな。今ホウエン警察補佐隊で戦ってるけど…それ以前は結構長い間一人旅だったな…」
「……」

ホーリィは尻についた雑草を払いながら背伸びして立ち上がった。セレナは呆然と座り込んだままだった。また一つ強い潮風が木の葉を揺らす。
上からホーリィはにこやかに、でも眠そうな表情は変えないまま言った。

「ま、何があったかは知らないけど、喋りたくない事情があるんなら無理には聞かないぜ」
「……」
「旅、がんばれよ。じゃあな、セレナお嬢様。あんたに介護してもらえて、とても嬉しかったぜ」 

そのまま背中を向けてさっきの砂の道に歩こうとする。セレナは急に一人にされる事に何故か怖い感覚が襲った。風が冷たくなったような気さえする。 
白く細長い手を伸ばし、ホーリィの手を取った。

「ん?」
「待って…お願い」

右手に触れた冷たい感覚。ホーリィはぞくりとした。人の手にしてはずいぶん血が通っていない。また小刻みに震えているのが分かった。
振り返るとセレナの白い顔に涙が伝っている。透き通った青の瞳は何か真剣なものを訴えていている。
何しろ今まで、まともに女性と関わったのはシィラぐらいだから。それもいきなり泣かせてしまった事にホーリィは戸惑った。

「なっ…ど、どうしたんだよ。一体」
「教えて…ください」
「は?」

セレナは一旦涙を拭い取り、間をおいて語った。ホーリィの脈と呼吸は今まで生きていた中で一番なぐらい速くなっていた。

「お願いです、私に教えてください。どうすれば、旅ができるのですか?」
「へ?あんた…」
「突然やってきて本当にすみません。けれど、お願いします」
「と、とりあえずそんなに深く頭下げないでくれ…。分かったよ、今日一日は暇だから…仕方ない。話だけでも聞いてやるから」

その言葉にセレナはぱっと明るい表情になり、今度は両手でホーリィの手を掴んできた。彼は今度こそ赤面した。

「ありがとうございます!あなたとの出会いに、感謝します…!」

―― この人、シスターなのか…? 

* * *

昼下がりから数時間、ついさっき聞いた時計塔は正午に続いて午後2時の鐘の音を鳴らした。ホーリィとセレナはしばらく砂地を歩き、丘を降りて街へと入っていった。
セレナの生まれ育った豪邸は街を離れた丘の頂にぽつんと浮かび、毎日目まぐるしく働いている街の人にとってはその豪邸が羨望の対象だった。
それでなのか、セレナは街に入ると急に背を丸くしてホーリィの後ろに隠れるように歩くのだ。何を恥ずかしがるのか、ホーリィには分からなかった。

「おいおい、どうしたんだよ」
「ご、ごめんなさい…」
「そんなんで旅に出られると思ってるのか?」
「うっ…」

取りあえず町の外で休んでろよ。何か飲み物買ってきてやるから。というホーリィの言葉にセレナは従った。

* * *

「旨いな、このサイコソーダ」
「はい…おいしいです」

ホーリィはちらちらとセレナの方を見る。見るからに温室育ち…とイメージしては失礼だろうが…確かに一目見た限りではお嬢様の気風を持っている。
そこいらの男が彼女を見たら間違いなく一目惚れしてしまいそうだ。彼は少し気まずそうに本題に入ろうと話しかけてみた。

「でさ、セレナ…と言ったっけ。どうして旅に?」
「各地で、奉仕活動してみたいからです」

その質問にホーリィは、成る程と返した。彼女の容姿や話しぶりがシスターという印象なのはさっき分かった。

「解せんなぁ、この島にだって教会も見かけたし奉仕したいと思うんならこの島でいくらでも出来るぜ?何だってまた…」
「ホーリィさん、私って聖職者に見えますか?」

祈祷の手を組みながらホーリィに問う。

「私…私は確かにクイナス家の跡取り娘です。でも神様は貧富の差や身分の違いなどに分け隔てなく見てくださってます」
「……」
「でもこのトクサネに通う教会の人達はここの領主に税金を巻き上げられ、一日一日を生きるのも厳しい人達ばかり…」
「それが見たくないから、家出?」
「…馬鹿な理由ですよね」

太陽は少し西に傾く。隣の木の陰がこっちに伸びてきた。

「俺は、そうだな…そんなちっぽけな事で自分を卑下する理由がわかんねぇな。だってそうだろ?
普通の人ならいきなり落ちてきた人を看護しないで、そのまま放っておかれる。そういうのが世間の人間の大概だ」
「まぁ、理不尽な…」
「でもあんたは優しいし、気配りする人だし、ついでに言っとくと綺麗だし」
「嬉しいです。そんなに褒めてくださって」
「けど、仮にだよ?」

ホーリィはそこで念押しするようにセレナに詰め寄る。さっきまでの寝ぼけたような表情は一欠けらも無かった。セレナはびっくりした。

「もしあんたが、人を助けたいっていう理由で島を出ていったとしても。この島の人達はどうなるんだ?」

ハッとした。それは彼女の想定外だった。潮風が冷たく吹き付けた。

「残される人の事、あんたは考えてみたかい?」
「……」

その言葉は彼女にも、そして自分自身にも言っていた。少し口調が寂しさというものを含んでいた。

「ホーリィさん…私、馬鹿でした」
「え?」
「私、人を助けたいと適当な理由を付けて…本当は自分をかまってほしいってわがままをしていただけ…。
それをあなたに教えてもらいました」
「いや、俺は別に…で、もう少ししたらカクタス号が来るけど、あんた来るのかい?」

その言葉と同時にトクサネを取り巻く絶海の彼方に、一艘の船が汽笛を鳴らしながら現れた。セレナはしばらく細目で眺めていた。
そしてやがて静かにベンチを立ち、船を背中に回しながら彼女はにこりと笑顔になる。

「やっぱり止めます。私はこの島で私の出来ることをします」
「へっ、そうか…」

それにホーリィも笑顔になった。

「ホーリィさん、本当にありがとうございました」
「いいって。じゃ、俺…あの船に乗るんだ。仲間達とキナギに行くんで」

ホーリィは両手にポケットを入れながら自分が泊まっていた宿屋に足を向ける。そこで思い出したようにもう一度セレナに言った。

「ところで、仮に旅に出るとしたら…あんたどうやって生計立てていくつもりだったんだ?」
「一応ですが、私もトレーナーです。腕には自身ありますよ」
「へぇ、じゃあいつかお手合わせ願おうかな?」

その言葉を最後に2人は別れた。
再び1人になった。教会の人とも話はするけど、今の彼のような身のうちを話し合った事はなかった。辺りを舞う潮風はまた冷たくなる。

セレナは華奢な身体に似合わない重いリュックを再び肩にかけ、丘を登りはじめる。リュックの中は着替えが大半。それにホウエンの地図や食料が詰まっていた。
そんな荷物を持って豪邸に使える執事達と顔を合わせたら…どう言い訳しようかセレナは迷った。


だが、その必要はもうないのだ。


丘陵の中腹に辿り着いたところでセレナは足を止めた。身体ががたがたに震え、どういう訳か動こうとしない。目の前に全身黒マントのフード男が2人、セレナの前に立つ。
何か不気味なオーラが漂っていて、空気を汚している。そんな感じだ。セレナは思わず身構えた。

「な、何者…?」
「セレナ・クイナス…だな?悪いが来てもらおう」
「嫌…と言ったら?」
「力でじか」

その言葉から、ほんの一瞬だった。刺客の男がセレナに歩み寄り、彼女の鳩尾に拳が入った。

「ぐぅ…」

小さく呻く。景色が揺らぐ。あまりの痛さに嗚咽と一滴の涙が漏れる。力なくセレナは地面に崩れ落ちた。
遠くで海に浮かぶカクタス号の汽笛がまた一つ轟いた。

 


戻る                                                       >>5Aへ

 

inserted by FC2 system