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「異状なしです」
口元の空気を白く染めながら、アルドは詰め所の扉を開く。少し開いた隙間から、我先にと言わんばかりにディンがするりと中へ入り込む。
アルドも中に入ると、リトとフィズに報告をする。異状なし、とここに告げるのはこれで何度目になるだろう。
リトやフィズの報告も合わせると二桁はいくのではないだろうか。今日もいつもと同じようにこの街は平和だった。
時計は午後九時を回ったところ。辺りはすっかり夜の闇が立ち込めていた。
「ただ、やたらと霧が濃くなってきたようなので気をつけた方がいいかもしれません」
アルドが外の街灯で確認した限りでは、一つ先の明かりが灯っている様子は分かった。
しかし、街灯の形をはっきりと見ることが出来ない。淡い球状の光がぼんやりと空中に佇んでいる感じだ。
朝、昼、夕とうっすらとした霧は漂ってはいたが、取るに足らない程度だった。
夜が訪れ、辺りが暗くなるにつれて急激に濃くなってきたのだ。これは、この冬に観測された霧でもかなり深い部類に入るだろう。
「こんな天候の変化は珍しいな」
机の上の書類を整頓しながら、リトが呟く。こまめに整理をしているので彼女の机はいつも整っている。
対照的なのがフィズの机、アルドのはその中間と言ったところか。リトが整頓するようにフィズに注意した直後は一応綺麗にはなるのだが、三日と持たないのだ。
「俺も驚きましたよ。どっかの家の加湿器でも壊れたんじゃないですかね?」
「……まあ、この街の住民ならば霧には慣れているだろうし、こんな時間帯に外出する人もあまりいないだろう。とは言え、視界が悪いのは確かだからそこには気を配るようにな、フィズ」
「了解です。それじゃ、行ってきますね……」
フィズは立ち上がりコートを羽織ると、ストーブの前の椅子でうとうとしていたクーロの首筋を指先でトントンと叩く。
クーロははっと目を覚ますと、どこかおぼつかない様子で彼の肩にとまった。外の冷気できっと眠気は吹き飛ぶだろう。
せっかくのぼけもリトに反応してもらえなかったため、外に出ていくフィズの背中はどこか寂しげだ。
生真面目な彼女が冗談を嫌うのを知っておきながら、何度も振ってみせる彼はなかなかのチャレンジャーと言えるだろう。

「おいで、ディン」
アルドはポケットからハンカチを取り出すと、ディンの体を軽く拭いてやる。
さっき彼が詰め所の中に入りたがっていたのは寒かったからではなく、湿度の多い外にいるのが嫌だったからなのだ。
ディンの全身はふさふさした毛で覆われている。柔らかくて手触りは良いのだが、その分水気も吸い取りやすいというわけだった。
アルドが一通り体を拭き終えると、ディンは彼の元を離れて部屋の隅まで行くと腰を下ろした。いつものポジション、ディンのお気に入りの場所だ。
「寒さに強い彼も、濃い霧にはお手上げというわけか」
「そのようです」
微笑しながらアルドは答える。やはり炎タイプ。冷気は大丈夫でも水気は苦手なのだ。
ストーブの前に座り、冷えた手を暖めながらちらりと外を見やる。室内との温度差でうっすらと曇った扉のガラスを通しても、外に漂っている霧が見て取れた。
まるで空の雲が地面まで降りてきて、ゆっくりと道を這っているかのようだった。それほどまでに、今夜の霧は濃い。
「所長。今夜くらい霧が濃い日、前にもありました?」
「あまり記憶にないな。だが、朝や昼間ではないから、そこまで街の人々には影響はないと思うが」
リトは扉の前まで行き、ガラスを軽く指でこすった。曇ったガラスに彼女の指の後が残る。その隙間から見える外の景色はただただ白かった。
確かにこれが朝や昼ならば、少なからず人々の生活に支障を与えていただろう。霧が原因で起こる事故の可能性も否定できない。今が夜であるのは幸いと言えよう。
「……ディン、どうした?」
蹲っていたディンがふと立ち上がり、リトの隣まで行き一声鳴いた。どことなく寂しげで、不安を煽るような声。
一度部屋の隅に落ち着いたら滅多に自分からは動こうとしない彼が動き、しかも声を上げたのだ。何かを伝えたいのかもしれない。
「何か言いたそうな感じだが……分かるか?」
「いくらトレーナーの僕でも、さすがに言葉までは……」
アルドがディンの顔をよく見ようと椅子から立ち上がったのと、外から悲鳴と思われる声が聞こえてきたのがほぼ同時だった。
あれは広場の方角だ。広場は街の中心部に位置する開けた場所で、夜間とはいえ多少の人通りはある。
何かが起こったのだ。悲鳴を誘発させる何かが。アルドとリトの間に緊張が走る。
「た、大変だ!」
外の様子を見ようとリトが扉に手を掛けようとしたところ、先に開いてフィズが駆け込んできた。
全速力で走ってきたのかはあはあと肩で息をしている。着ているコートにも所々乱れが見えた。
「どうした、何があった」
「やべえよ所長! ……じゃなかった、緊急事態です所長!」
取り乱しているせいか地の言葉遣いに戻っている。クーロも肩に止まっておらず、フィズの頭上をせわしなく飛び回っていた。
トレーナーの狼狽はポケモンにも伝染してしまうようだ。普段は落ち着いて勤務をこなすなフィズがここまで慌てるのも珍しい。それほどの出来事だったのか。
「この際言葉遣いはいい、何があったのかを手短に頼む」
「広場にどう見ても尋常じゃない雰囲気のやばい奴が降りてきたんです! 俺一人の手に負えません、とにかく一緒に来てください!」
まだ気が動転しているらしく、具体性に欠ける話だ。これでは何が起こったのかよく分からない。
とはいえ、広場で何かが起こったのは事実だろうし、フィズが落ち着くのを待って現場に到着するのが遅れるのもあまり良い事態とはいえない。
彼の言うように緊急事態ならば、とりあえずはこの目で広場で何があったのかを見ておく方が賢明だろう。
「すぐに向かおう。怪我人はいるのか?」
「いえ、そいつが来たときにみんな逃げたから大丈夫です!」
冷静さを失ってはいても、住民の無事を確認している辺りはさすがと言えよう。
「分かった。アルドは待機していてくれ。緊急事態とは言え、ここを無人にするのは好ましくないからな。もし何かあれば、無線で連絡する」
「……了解です。お気をつけて、所長、フィズ先輩」
リトとフィズは頷くと、さっと踵を返し広場へ向かって走っていった。相変わらずの深い霧で、二人の背中が見えなくなるのはあっという間だ。
フィズの言っていたやばい奴が何なのか少し興味があったアルドだが、ここは無理に同行を申し出る場面ではない。
もし誰かが訪れたときに、詰め所に人がいないのは困る。夜とはいえ誰かが来る可能性はあるのだから。
まだどことなく落ち着かず、そわそわしているディンを宥めながら、アルドは中に戻り扉を閉めたのであった。


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