−1− 人里離れたとある森の奥の奥の、そのまた奥、人間は本当にめったなことがない限り来ることはないその場所に、蒼く澄んだ水を湛え た広い湖がある。近くの山から湧いて出来た川の水は、一旦この湖で身を清めるといったらおかしな表現だろうが、ともかくまるでこれから始まる海への長い道 のりを前にして小休止を入れた後、下流へと旅立つのだ。周りは木に囲まれ、春になれば野花の花びらが水面を飾り、秋になれば枯葉がその生を終えて埋葬され るように、ある葉は下流へと流され、またあるものはそのまま腐って地へと還る。この森、特にこの湖の周りで暮らしている者は、嫌でもここの恩恵を受けるこ ととなる。 そしてその湖の畔で、ある一人のカイリューが座り込んで日に当たって宝石のように輝いている水面に視線を落としていた。彼はそこで何をするわけでもなく、ただ水面を見つめているのだ。 少しオレンジがかかった黄色い大きな体を持ち、背中からは自分の体を包み込むことが出来るほどの翼を持っている。 「あれからもう二年もたったんだ」 彼はポツリとそう呟いた。誰に発しているわけでもなく。 「アイリス……」 瞑想に耽るように、彼は目を閉じた。目を閉じると、開いているときには聞こえない様々な音が耳に入ってくる。静かに水を湛えているように見える湖も、わず かに水の流れる音をたてながら次から次へと水が流れ込み、そして下流へと向かう。周りの木々草々も風になびけば、まるで誰かがささやくような声をたててく れる。彼はそういった音を聞くのを昔から好んでいた。 「エア。やっぱりここに来てたんだな」 不意に後ろから声がして、 エアと呼ばれた彼はその声がした方向へ状態を向けた。そこには黒い体に、真ん中のあたりが幾ばくかふくらみの持った耳と、それと同じような尻尾、に黄色い ラインが入り、各足の付け根部分に同じく黄色の丸いマークの入った「ラコン」ブラッキーがいて、口元に笑みを浮かべて彼を見据えていた。そしてそのブラッ キーはエアの隣に近づき、そこで腰を下ろした。 「話しかけようかどうか迷ってたが、余計だったか?」 エアはそれに首を振って答えた。 「いや、そんなことないよ。ルイン」 ブラッキーはそのような名前で呼ばれた。 そして二人はしばらくの間、黙って一緒に水面を眺めた。こういう場合は、どんな態度をとればいいのかもう二人には分かっていて、これはもはや一種の礼儀の ようにすらなっていたのだ。「こういう場合」に会ったときは、必ずしばらくの間お互いの口を閉じ、心を整理する時間をとる。別にそうやって後の会話が円滑 になるかといえばそうでもないのだが、二人はこの二年の間「こういう場合」には必ずこうするようにしていた。 どこからかカッコウや小夜鳴鳥が歌っている。それに応じるように対岸の森から何羽かの鳥が姿を見せる。ここからでは遠くて何の鳥なのかよく分からないが。 「あのさ、ルイン」 鳥たちがまた森の奥に消えたのを合図であるかのように、エアは話しかけた。 「お、珍しいな。今日みたいな日にお前のほうから話しかけるなんて真夏に雪が降るぞ」 「茶化さないでよ」 それを受けてルインは軽く笑った。エアもまたそんなルインを見て思わず笑顔が零れた。そして気を取り直したようにもう一度エアが話しかける。 「あのさ、僕って変わったかな?」 エアは空を見上げながらルインにその問いを投げかけた。ルインはすぐにその問いが真剣なものだと察する。空にはまるで薄い絹布が風に吹かれて舞っているかのように半透明な雲が漂っている。そしてそんな雲を貫くように太陽の光が地上へと降り注いでいた。 ルインも同じように空を見上げた。エアの古い友である彼は、そうやって無意識のうちにエアと同じような行動をすることで、エアの気持ちを読み取ろうとするのだ。 「そうだな。俺は変わったと思うよ」 ルインはエアよりも先に視線を水面へと戻した。 「『あの時』からすぐのお前なんて、今にも死にそうな顔していたもんな。見ているこっちが悲愴感に駆られるようなな。でも今は前よりもよく話すようになったし、端的に言えば明るくなったんじゃねえか?」 「そうかもしれないね」 それだけ言うと、エアは立ち上がった。 「今日はもう帰るよ」 エアはルインに目をむけ、ニコリと笑った。そして折りたたんでいた翼をいっぱいに広げた。両翼を合わせたら自分の身長をゆうに超える大きさである。翼を羽ばたかせる際の邪魔にならないようにルインは少し下がった。 「じゃあまたね」 「ああ」 そして彼は、翼を大きく羽ばたかせた。そのときに巻き起こる風で、周りにある草や木は枝を揺らし、水面には波紋が浮かぶ。そして三度目の羽ばたきで、彼の巨体は宙に浮いた。そして彼は体を、北のほうにある山へと向けると、五度目の羽ばたきで大空へと舞い上がった。 ルインはその一部始終を眺めていた。大空に舞うエアの姿は、彼にとって一種の憧れにも似た感情を抱かせるものとなっていた。空を自在に舞うということはどんなことなのだろうか。エアのその姿を見るたびに、いつも思っていたのだ。 空に浮かぶと、ずっと北方にアルト大陸を斜めに貫くノエル山脈の一部、ゲルフ山がその腰を重々しく据えているのが見える。ゲルフ山はノエル山脈の中でもま だ小さいほうの山で、標高は九○○メートル程度である。山脈の最高峰キベロスは五○○○メートルを超える大山で『アルトの屋根』とも呼ばれている。 エアは川を登るように進んでいった。後方に振り返ると、森が端が見えぬほどずっと先まで続いている。ノエル山脈からの水源のおかげで、このあたりには人間を寄せ付けぬ広い森が形成されたのだ。 「ルイン分かってるよ。僕は何も変わっていないんだ……。それを知ってて反対のことを言ったことぐらい、分かってるよ……」 そう呟きながら、エアはさらに上流を目指した。 すると、前方に聳え立つ崖から滝が流れ落ちていくのが見えた。それを確認すると、エアは羽ばたくのをやめ、降下の体勢に入った。 |