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ルインは湖から北東へ幾ばかり進んだところにある、断崖となっている岩場の麓へとやってきた。高さ三○メートルはあろう岩壁の表面はギザギザしていて、時代ごとの地層がその姿を顕わにしていた。
そしてルインは、岩壁に沿ってさらに進んでいくと、やがてその岩の壁にぽっかりと穴があいているのが見えた。そしてその穴の奥から、出入り口にかけて何 十、何百ともなる草の蔓が這い出して、岩や地面に深く絡みついていた。それらの蔓に足を取られないように気をつけながら、彼は洞窟の奥へと入っていった。
中はジメジメしていて外に比べて肌寒い。どこからか水のしずくが地面に落ちる、あの瑞々しい澄んだ音が木霊していた。一定のリズムを刻んでいるその音は、 既にこの洞窟の一部となっているのかもしれない。暗いところでもよく見える彼の目は、既に洞窟の一番奥に居るその者の姿を確認していた。

「俺に用があるんだってな。グレ爺」

その者は種で言うと「フシギバナ」と呼ばれていた。巨大な両生類に似た体に、背中から体全体を覆うかのような花が咲いている。このフシギバナを森のものは 敬意を込めて「グレゴール」と呼ぶのだ。そしてこの足元や壁、天井を無数に走っている蔓はすべてこのフシギバナの体から伸ばされているものだった。何のた めにこのようなことがされているのか、ルインはもちろん、この森に住むあらゆる「ラコン」が知っている。

「ああ。昨日は“あの日”だっただろう? エアはどうしていたかを聞きたくてな」

彼の声には一言一言に威厳とそれに生ずる重みがあった。慣れない者にとってはある種の重圧を与えるかのような声だ。

「エアなら、……あのときから、あまり変わってないな。まだ引きずっているよ」

ルインのその声には何か自虐的なものがあった。彼は昨日、自分は変わっただろうかとエアに訊かれ、変わったと答えたことに後悔していたのだ。おそらくエアにはお見通しだろう、自分が言ったことは、そう考えながらも彼は思っていたこととは逆のことを敢えて言ったのだ。
グレゴールは目を薄く閉じ、予想していたことが的中したように応えた。

「だろうな。いや、むしろそれが大切なのかもしれない。自己嫌悪と後悔に満ちてこそ進むことの出来る道だからな。エアの居る場所は。それでもエアはいつか乗り越えてくれるだろう。娘も……それを願って逝ったのだからな」
「アイリス……」

ルインは思わずその名前を呟いた。グレゴールの一番末の娘、それがアイリスだった。彼は視線を上げて、グレゴールの目を見た。その目は昔のことを思い出しているのだろうか、一種の陶酔のようなものが伺われたのだ。

「グレ爺ってほんとに寛大だよな」
「お人よしだといってくれ」

グレゴールは苦笑しながら言った。

「用ってこれだけか?」
「いや、まだある」

それからグレゴールは、深く息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出した。その動作を二度ほど行うと、彼は再び口を開いた。

「ルイン、お前はエアの“あの力”のことを知っているだろう?」
「ああ、何であんなことがあいつに出来るんだろうな」

グレゴールはそれには敢えて何も答えず、別のことを話し始めた。

「それと、最近東の方より不吉な風が吹いてきた」
「東の風が? なんだよそれ」

しかしグレゴールはすぐにはその問いに答えなかった。代わりに深く目を瞑って、首を横に振った。そして再び彼が目を開けたとき、ルインはその奥に、何か恐 怖や怯え、あるいは焦りのようなもの、もしくはそれらが複雑に絡み合っているようなものを感じ取った。グレゴールがこのような表情をするのを見るのは初め てだった。いつも一世紀以上も生きてきたことによって生ずる落ち着きと優しさに満ちた眼差しが、今は焦りや恐怖に囚われているのだ。

「最近、何かがおかしいのだ。単に私が老いたことによる勘違いだといいのだが」

ルインは何を言えばいいのか分からなかった。第一にグレゴールの表情が彼にとっては衝撃的だったし、グレゴールの言うことも抽象的でどう応えればいいのか分かりかねたからだ。そしてしばらくしてルインはようやく言葉を放った。

「で、その東風がなんとかというのと、エアの力がどう関係があるんだよ」
「それも分からない。ただ、何かが起ころうとしている」
「じれったいな。要するに俺にどうしてほしいんだよ?」

それからまたグレゴールは押し黙った。今ルインに向けようとしている言葉を伝えるのを躊躇っているように見えた。しかし少したった後、伝えることを決断し たらしく、まっすぐ視線をルインに向けた。その目はルインの知っている威厳と優しさに満ちたグレゴールの眼差しであった。

「私が死んだ後、お前が私の後に立ち、この森をまとめてほしい」

少しの迷いの調子もなく、その言葉は発せられた。ルインは頭に大きな硬い岩が落下してきたような衝撃に襲われた。そしてしばらくの間、自分に対してグレゴールがなんと言ったのか理解できずにいた。

「今、なんて?」

ルインはたまらずにそう返した。そしてその声は驚くほどに震えていた。

「私の死後、お前が私の後を継いでもらいたいのだ」
「冗談はよせ!」

思わずルインの声は荒々しくなった。彼は明らかに動揺していた。そして自分でもそれに気がついていたから、無意識のうちに荒くなっている呼吸をなんとか整 えようとした。どこからか聞こえてくる雫の落ちる音がまるで増幅されるように洞窟内に響き渡り、その間隔はだんだん短くなるようにルインの耳に入ってく る。

「残念ながら本気だ」

ルインとは対照的にグレゴールのほうは落ち着きを取り戻していた。

「私はもう長くない。見ての通り、こうやって体中の蔓を地面に伸ばして、そこから常に養分を摂取しなければ生きられないような身だ。次の冬を越えることはあるまい」

ルインはショックだった。彼には分かっていたのだ。彼だけではないエアも含めて、この森に住む者皆が知っていることだった。グレゴールがもう長くないこと は。既に彼の葉は光合成する能力を半分以上も失い、常に土からの養分を必要としていた。彼がショックだったのは、グレゴール自らがそれを自分に告白したこ とであった。ルインの耳の中で雫の落ちる音は、増幅するばかりか、音がだんだん大きくなり、間隔はさらに短くなっていく。ついには耳鳴りまで始まった。

「本来なら森の長は、その子供が後を継ぐことになっている。しかし私の種から生まれた十人の子供たちのうち、育ったのはアイリスだけだった。そしてそのアイリスも、二年前のあのときに『願い』を残して逝った」
「だからって、俺がなることないじゃないか!」
「お前は強い。おそらくこの森で一番の実力を持っているはずだ。確かに強さだけでは人々をまとめることは出来ない。だが、実際強くなければ誰も付いていこうとしないだろう」 
「だけど、俺がなったところで年上の奴等が納得しないぞ」

今ルインの頭にあることは、なんとかグレゴールの決断を思いとどめさせることだった。

「そのときが来るまで、なんとか私が根回ししておく」
「……く……。勝手にしろ! 俺は嫌だからな」

はき捨てるようにそう言い放つと、ルインは洞窟を飛び出していった。

「エアの守人たる私たちがいなくなってしまう今、お前でないと駄目なのだ……。これから起こることのために……」

一人残ったグレゴールは、出入り口から差し込んでくる光の向こうを見つめながら呟いた。


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