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「すみません。少ししんみりしてしまいましたね」

ルアはそれまでの、暗い雲がかかった空を思わせるような曇った表情から、光が差し込むように優しく柔らかな笑みを浮かべた。しかし一転して完全に変わったわけではなく、やはりまだ何か自分自身に対する戒めが表れているような、幾分苦渋の念の見られる笑みであった。
エアはこの旅人もまた身に降りかかる危険から己を守るためにラコンを殺めてしまったことがあると聞いて、辛い気持ちになった。だがエアはルアがラコンを殺 してしまったという事実よりも、彼がラコンを殺めてしまったことに後悔し、嫌な思いをしているであろうと言うことに対しての辛いという方が強かった。

「いえ、僕の方こそ……嫌なこと思い出させてしまって……すみません」
「君が謝る必要はありませんよ」

それに対してはエアは、ゆっくりとうなずくだけであった。
エアは思った。今巻き起こりつつある異変の波は果たしてどこまで広がっているのだろうかと。そしてまだ異変の影響を受けていないラコンたちはどれほど残っ ているのだろうかと。そしてこのまま世界中のラコンたちが理性と正気を失い、ただ本能に赴くままにしか行動が出来なくなってしまうとしたら、世界はどう なってしまうのだろうかと。その様子はエアにはとても想像できなかった。
さらにエアは別の疑問が生じた。このように人間と接している自分もまた既に秩序を崩しているのに一役買ってしまっているのではないだろうかと。それは考えれば身の毛のよだつような考えだった。
しかしその疑問が煮えたぎる前にルアが話しかけてきた。

「どうして、ラコンのことを聞こうと思ったんですか?」
「え?」
「君 は私がラコンを殺してしまったと話したとき、とても悲しい……とまではいかなくても、少なくともいい気分ではないような表情をしていましたね。今の時世で はラコンを殺したと言ったら、むしろ喜ぶべきような世になりつつあるというのにね。でもそうじゃないということは、君がラコンととても深い関係にある立場 にある。もしくは……」

そこでルアは一旦言葉を止める。そして彼は顔をエアの目に向けた。エアはごくりと固唾を飲む。

「君自身がラコンだから……ではないでしょうかね」

海の底を思わせるような深い沈黙が訪れる。雨粒が聖堂の屋根をたたく吼え声のような音も聞こえない。いや、本当に雨足が途絶え始めたのかも知れない。
エアの心臓は早鐘のように鳴り、胸に手を当てていないにもかかわらず、その鼓動をはっきりと感じることが出来るようになっていた。エアは何かを言おうとしたが、声が口まで届く前に再び喉の奥へと引っ込んでしまう。
ルアはしばらくじっとエアの目にその視線を送っていた。しかし不意にプッと鼻で笑うと、クスクスと自分自身をあざけるように笑い始めた。そんなルアの様子にエアはポカンとした調子で眺めていた。緊張の糸が一気に緩む。

「なんていうのは冗談ですよ」

エアは呆気にとられた様子でルアに目を向けてた。

「まあ、今のはともかく、君がラコンと何らかの関わりを持っていることだけは確か。そうですよね」
「……はい」

エアは敢えて否定しようとは思わなかった。エアはルアの今の言葉がどうにも気になった。ルアは自分をラコンだと見抜いて言ったのか、それとも本当に冗談のつもりだったのか。
緊張は緩んだものの、まだ彼の胸は落ち着きを取り戻さずに、強い振動が感ぜられた。
いつの間にか堂内には、深い静寂の空気が充ち満ちていた。雨は本当に止んだらしい。うるさいほど響いていた雨粒が教会の屋根をたたく音は今は消え失せ、壁に沿って添えつけられたアーチ型の窓の片側から光が差し込んでいた。

「雨、上がったみたいですね。出ましょう」

そう言ったのはエアだった。
エアは胸が締め付けられるような思いだった。例えルアが本当に冗談のつもりだったにせよ、このまま自分の正体がラコンであることをこれからずっと隠し続け ることになると思うと、彼は自分自身を傷つけたくなるような思いに至った。エアはもしルアに自分の正体は実はラコンなんですと、うち明けるたならどんな反 応を示すだろうかと想像した。意外にさほど驚かないかも知れない。いつも彼が見せているようなあの様子からしてその可能性が大きい気もした。しかし人間と ラコンはもともと交わること自体が異常とされている。例えルアがエアがラコンだと気づいていたとしても、自分からそのことをうち明けるわけにはいかないの だ。
エアは席を立ち、続いてルアも立ち上がる。
外に出ると、やはり雨は上がっていた。雲の隙間よりこぼれる日光はエアのいるあたりを も照らしている。後ろを振り向くと雨によってぬれた教会の屋根やステンドグラスが、日の光に照らされてきらきらと輝いていた。雨が降っていたときは不気味 な巨体のようだった教会の姿も、今は神々しい雰囲気を放っていた。
エアより少し遅れて出てきたルアも、一度空を見上げる。肩に乗っていた隼のクレフがこの時を待っていたかのように不意に飛び立ち、大きく舞い上がった。

「ルアさん。もう一つだけ訊いても良いですか」
「かまいませんよ」
「ルアさんはまだ旅を続けるつもりですか?」

エアはこの問いにある一つの期待を込めていた。声も知らずのうちに針のあるものとなり、ある種の決意のようなものが感ぜられる。視線はまっすぐにルアの目へと注がれている。
ルアは少し考えるように黙ったあと、答えた。

「ええ、元々巡礼のような目的で旅をしているんですけど、まだ寄るべき場所がありますからね」
「だったら、その旅に僕を付いていかせてください」

半ば叫びに近いようなその声をエアは言い放った。あんまり大きい声を出したためか、街ゆく人々の数人がエアの方に不思議そうな視線を送った。しかし五秒と立たないうちに、彼らの興味はルアから離れ、何事もなかったかのように目的地目指して歩いていく。
ルアは黙っていた。口はしっかりとはにかんでいる。

「僕は、どうしてラコンがおかしくなり始めているのか知りたいんです。あそこにいても、何も知ることは出来ないから……。でも僕には旅の経験がありません。だからお願いします」

エアは一息でその言葉を言いきった。言い終わって初めて息苦しいことに気づき、大きく息を吸い込んだ。
カイリューである彼は、本来ならわざわざ人間の姿にならなくとも、その翼で歩くよりも何十倍、何百倍も早く旅をすることは出来た。しかし彼は心の中で、し ばらくの間はラコンの姿には戻らないことを決めていた。その理由も元はといえば死んだフシギソウのアイリスが関わっているのだが。
ルアはしばらくエアをにらむように見つめていた。さっきほどルアがラコンを殺してしまったとうち明けたとき以上に厳しい表情を見せつけている。

「本気ですか?」

彼は試すようにそう振る。
そしてエアは強い口調で返した。

「はい」

ルアの問いはさらに続いた。

「旅というのは危険をはらんでいるんですよ。場合によっては命さえも落とすかも知れない。特にさきほども言ったように、ラコンが凶暴化を始めているんです。それでも……ですか?」
「はい」

エアは即答した。
ルアは一息はくと、空を見上げて指笛を鳴らした。ピーッと澄んだ高音が響く。空のずっと高いところで、雲のシミのように見紛うほどのところで弧を描いて飛 んでいたクレフが、まっすぐ急降下を始め、地面と激突するすれすれのところで角度を修正し、美しい放物線を描いた後にルアの肩の上へと戻った。

「分かりました。いいでしょう。君はいろいろと訳ありのようだし……これも何かの縁でしょう。これからよろしくお願いしますね」

ルアは元のあのにこやかな表情に戻ってそう答えた。エアはなんと返せばいいのか分からず、しばらく狼狽えるように立ちすくみ、ようやくこう声を出した。

「あ……ありがとうございます」
「さて、じゃあ同行してくれるに当たって、こちらからも一つお願いしても良いですか?」
「はい」
「その話し方……少なくとも、いつも使っているような話し方ではないでしょう? 君がいつも友人に使っているような口調じゃいけませんか?」

もっともな話であった。これから旅の同行者として振る舞う以上、いつまでも他人行儀な話し方を使うわけにはいかない。

「分かり……分かった」

エアのその言葉は逆に不自然さのあるものだった。やはり今まで敬語を使っていた相手に対して、いきなり普段の口調を使うというのは始めは逆に不自然な結果になってしまう。

「まあそのうち慣れるでしょうよ。あ、ちなみに私はこの話し方が一番やりやすいので、そう思ってくださいね」


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