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冬の訪れを予期させる冷たい空気が風に乗って運ばれてくる。この頃になるとさすがに湖の畔で佇むようなこともやりにくくなる。
ブラッキーのルインはいつも彼の友であるエアがやっていたように、森の奥にある広大な湖の畔でただ何をするでもなく佇んでいた。そして彼の目の前には一体 のピジョンの、今となってはもはや動くことさえない生命の抜け殻がある。亡骸はよく見ないとピジョンのそれを気づかないほどの無惨な姿へと変わり果ててい た。右翼はちぎれる一歩手前になるまで付け根のあたりがズタズタに引き裂かれ、胸のあたりはポッカリと穴が空いていてはらわたがズルリと引っ張り出されて いた。唯一の救いと言えば、顔だけが無傷で今ではまるで眠っているように目を閉じているのが分かるくらいのことである。
このピジョンもまたいつ かのエアームドのようにこの森に住んでいた者ではなく、南の方角より飛来した者だった。やって来たのはこのピジョンともう一体オニドリルであった。最初は お互い攻撃することもなく並行して飛行していた。しかし突如オニドリルがピジョンへと襲いかかり、攻撃が出遅れたのと体の大きさの差によって、ピジョンは 瞬く間にオニドリルの餌食となったのだ。やがてピジョンはこの湖の畔へと落下し、オニドリルはどこかへと消えてしまった。
森に住む者たちに危害 が及ばなかったのも幸運であった。しかしピジョンの亡骸を前にルインは痛恨の念に押されていた。今世界では何が起きているのか、何がラコンたちを狂わせて いるのか知る術もないというのに、こうして不幸になったラコンたちがただ死んでいく様を見ることしかできないことにただ悔しさを感じるしかなかった。いつ かとらえたエアームドもあの後、とうとう正気に戻ることなく、草の種族たちによって作られた縄で縛られたまま憤死してしまっていた。
ルインはピジョンの亡骸をくわえて持ち上げると、森の奥にある比較的土の軟らかい場所へと連れて行き、そこに丁寧に埋めてやった。
日は傾き始めている。
背中に当たり続けている黄色みを帯びた陽光。彼は振り返り、輝く太陽を見上げると走り出した。
木と木の間を抜け、傾斜を上り下りし、彼が行き着いた場所はこの森の長であるフシギバナ、グレゴールが残り少ない生命をともし続けている洞穴であった。
エアが森を去ってからというもの、彼はまだ一度もグレゴールの元を訪れていなかった。グレゴールが自分の生きる最期の時である次の冬が訪れるまでそう短く ない。ルインは彼に訊きたいことがいくらでもあるのだが、しかし内心恐ろしかったのだ。グレゴール自体に恐怖の念を抱いているのではない、彼にとっての恐 怖がグレゴールが日に日に弱りつつあることだった。以前会った時は既に自身の蔓を地中に伸ばして、常に地中から養分を吸い取らなければ生きられないほどに までなっていた。そして既にそのような状態にあるグレゴールはルインに森の長の座を譲ろうとしている。
この森の長の座は代々グレゴールの血筋に置かれることとなっている。しかしその血筋も二年前のアイリスの死によって途絶えてしまっていた。
ルインには分かっていた。自分には断る理由なんてないことを。それを頑なに拒否すること。彼は認めたくなかったのだ。目の前に迫りつつあるグレゴールの死を。
やがて彼はグレゴールのいる洞穴の前へ到着した。ルインは始めは入ることを一瞬ためらったが、やがて意を決するように洞穴の奥へと進んでいった。

「待っていたぞ」

グレゴールはまるでルインがここへ来るのをあらかじめ予期していたようにそう言った。地面や壁面には以前と同じように蔓が張り巡らされている。この蔓一本一本が今や彼の生命線そのものであるのだ。

「まるで俺が来るのを知っていたような言い方だな」
「いつか来ることになることくらい分かっていたさ。決めたのか?」

――決めたのか?

ルインにはこの一言がまるで背に大岩を乗せられたかのように重くのしかかった。
そしてルインは初めてグレゴールの目を見据えた。グレゴールの目はこれから死にゆく者とは思えないほどしっかりとした輝きを放っていた。
そのときルインは直感的に悟った。ああ、ただ自分は逃げていただけなんだと。グレゴールに間もなく死がせまっているという現実を受け入れることが出来なくて、それで自分自身に頑なになってしまっていたのだ。
彼の中にある彼自身が作っていた壁が今崩れ落ちていくようだった。いや、そもそも壁なんかなくて彼があると思いこんでいただけなのかも知れない。

「引き受ける」

彼はしっかりとグレゴールの目を見据えて毅然とした調子で伝えた。ルインの声は洞穴の壁に反響しあって言い終わった後も、数秒間は聞こえ続けた。
そして彼はグレゴールが何かを言う前に、一言こう付け加える。

「その代わり、グレ爺……知ってることを全部教えてくれ」

グレゴールは何も言わずにただルインを見据えている。

「訊きたいこと、いっぱいあるんだよ。なんで俺なんかじゃなきゃいけなかったのかとか」
「その理由はもう話しただろう」
「いや、グレ爺は絶対まだ他に隠しているよ。エアのことも……」

ルインにとって今一番気がかりなことはなんといってもエアのことだった。エアは二年前のアイリスの死以来、誰かと関わることを極力避けていた。そんなエアだから、どうしても他人と関わり合いになることとなる「旅」の先が思いやられてならないと彼はずっと思っていた。
しばらく両者の間に沈黙が流れた。まるで音という存在がこの世から消えてしまったかのように、二人はお互いの目を見つめ合ったままだった。ルインの眼差しが、グレゴールの眼の奥にあるものを探り入れるように向けられている。
そしてルインは感じた。グレゴールは死に近づきつつある今でさえ、その眼光には昔と変わらない重厚な貫禄が宿っていることを。そして直感的に悟った。自分 はグレゴールを越えることは出来ないと。グレゴールの眼の輝きに気圧されながらも、それでも彼は目をそらしはしなかった。今目をそらせばまた逃げ出すこと になる。そんなことを思っていた。
やがてグレゴールがおもむろに口を開いた。

「いいだろう。私の知っている全てを教えよう。ただし、今全てを教えるわけにはいかぬ」

それはグレゴールが知っていることは、今語ることは出来ないほど重大なことが含まれていると言うことを暗示していた。ルインはとにかく何も分かっていない 今の状態から抜け出したかったのだ。知ったところで何も出来ないかもしれないことは彼自身が一番分かっている。しかしこのままエアの帰還をただひたすら待 ち続けることは出来なかった。
ずっと遠くから何かが唸るような低い轟音が洞穴の中にまで響き渡ってきた。
遠雷。
季節はずれの嵐かもしれない。


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