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「乗客のみなさまは今すぐ窓を閉めてカーテンを降ろしてください」
「今すぐ客室に戻って、鍵をかけてください」

前方からと後方からとそれぞれ別々の乗務員が、口々そう叫び、全車両を走り回っている。
声はなんとか感情を抑えようとしている節が受けられたが、やはり動揺を隠しきれずに震えが混じっていた。
ヘルガーは依然として列車と併走して、いつ割れた窓へ飛びかかってくるか分からない状況であった。
コンパートメントに残った三人は固唾を飲んでヘルガーの様子を見守っている。

「どうする?」

エアはそう言いながらアリアの方へと向いた。ところが彼女は併走しているヘルガーをじっと見つめながら、怯えるように震えていた。シェイドが気遣って後ろからその細い方を支えている。表情はさながら恐怖というものに初めて直面した子供のようであった。

「しっかり!」

シェイドがこの場にいる二人だけに分かる――エアは分からないふりをしているのだが――ラコンの言葉でそう言った。アリアはその言葉でハッと我に返り、グッと奥歯をかみしめて「大丈夫」と応える。

「この化け物が!」

唐突に前側の隣室から男の低い叫ぶような声が聞こえ、直後にけたたましく窓が開かれる音がこちら側まで響いた。エアは悪い予感がして割れてポッカリと口を開けたままの窓から身を取りだして、声のした方へと目を向けた。
壊れゆく秩序。そのなかではこんなことが起きてもしょうがない。もはやラコンは人々の恐怖の対象にすらなりかけている。エアはそのことを今思い知らされることとなる。
そのときの様子はエアの脳裏に否が応でも、強烈な印象を残して焼き付けられることとなった。
隣の部屋のものと思われる窓から突如、黒く細い筒状の棒が突き出され、その先端が併走するヘルガーへと向けられた。車掌の声が聞こえる。「お客様、おやめ ください!」。そしてヘルガーがその黒い筒の存在に気づいたその瞬間、闇夜をうち破るようなまるで悪魔の叫び声とも言うべき轟音が彼の耳を、頭を、そして 心を貫いた。黒い筒の先からほんの一瞬にも満たない刹那に小さな炎がパッと現れたかと思うと次の瞬間、ヘルガーの首に豆粒より一回り大きいほどの風穴が ポッカリと開いた。
そのとき起こった出来事がエアの心の奥に深く刻まれることとなった。
ヘルガーが倒れ、見えなくなるまで時間はかか らなかった。それなのに、彼にはそのわずかな間が十却にも及ぶ長い長いあまりにも長い時間に感じられた。開いた首の風穴よりどす黒い血がどっとあふれ出 し、一瞬獣は何が起きたか分かりかねているようにキョトンとした表情を見せた。そして己も知らぬ内に足ががくりと折れ曲がり、スピードがついたままであっ たので無様に前のめりとなり、やがて転がるように倒れた。やがてヘルガーの姿が見えなくなるまさにその瞬間、獣の目とエアの目の視線同士がまるでガラスで 出来た卵どうしがぶつかり合うかのように合わさったのだ。もっともそれはエアの主観からのもので、実際にヘルガーがエアに視線を合わせようとしたのかは知 れない。しかし確かなことがあった。そのときエアはヘルガーの最期の声を聞いたのだ。

――なぜ?

そのときの眼には狂気の色は無かった。迷子の子供のように純粋な色を放っていた。己がこれから死に向かうことをまったく自覚していない眼であった。
そして獣はやがて見えなくなった。エアは始終割れた窓に手をかけてその様子を目に焼き付けていた。あのヘルガーは最期の最期で我に返ったのではないか。「なぜ?」。あの言葉は致命傷を負った獣が自らに、そして外に向けて放った疑問。

なぜ自分はこんなことをしているのか
なぜ自分は死にゆくのか
なぜ……なぜ……?

そうは言っていないものの、エアには確かに獣がそう言ったように思えた。いったい何がラコンをおかしくさせているのか。何が狂いだしているのか。

「ざまあみやがれ」

胸に焼き印を押される。その隣室からの声を聞き、エアはそのような衝撃を受けた。まるで古傷をこじ開けられるように胸の熱さじわじわと全身に広がってい く。知らず知らずのうちに腕がまるで氷河に取り残されたようにガタガタと震えている。しかし全身を巡る血液はその温度をグングン上げ、胸の奥底でマグマが 沸々と湧くかのようだった。
隣の部屋の男は何も聞かなければ、見もしなかった。あの死にゆくヘルガーの声と眼差しを。
エアの中で怒り が炎のように広がっていく。しかし一方でその怒りをなんとか抑えようと理性が必死に抵抗していたのだ。もしヘルガーが殺されていなければ、あの後何をしで かそうとしたか分かったものではない。もし何かの拍子に車両の中にでも乗り込まれでもされれば、下手をすれば惨事は必至だっただろう。
だが自制する声は次第に小さくなっていく。それは隣からあの男の下品な笑い声が響いてきたことによっていっそう促された。
もしそのときに事が起きていなければ、エアは間違いなく自制を無くし、どうかすればカイリューの姿に戻り、男を彼の手で殺すこととなっただろう。しかしその前に事が起きたのはエアにとって幸運だったと言えるだろう。
通路から突如ガラスが金切り声を挙げて粉々に割れる音が響いた。扉のそばに立っていたアリアは小さく「キャ!」と叫んで耳をふさいでかがみ込んだ。シェイ ドは音をした方を振り向いて、ほとんど同時に割れたガラスの破片がアリアに降りかからないように庇ったのだ。ガラスの破片が床に落ちる。そしておそらく男 に止めるように促していただろう乗務員の驚愕の声、そしてすぐあとに本人のどちらが野獣なのか分からないような叫び声がとどろいたのだ。
エアは 隣の部屋へと駈けだした。廊下へと出るとやはり窓の一つが破られていた。この列車は片側に個室が集まっているような構造になっているので、回廊側に面する 窓からの侵入は盲点だったのだろう。青の制服を着た乗務員が腰を抜かしたように倒れて、事が起きた隣の部屋の入り口を前に後ずさり、顔は何かの力で引っ張 られているかのようにひきつっていた。
部屋へはいるとそこには凄惨な光景が広がっていた。そこにはヘルガーがいた。さきほどの者とは違うまた別のヘルガーのようで、首には撃たれた傷など全くない。それにさきほどのヘルガーに比べて体型も一回り大きく見えた。
そしてエアは初めてこの部屋にいる男の顔を拝むこととなった。ぼさぼさの髪をして無精な髭を蓄えている。服を着ていたがそれはもはや元の色が全く分からな いまでになっていた。なぜならこの男は突如侵入してきたこのヘルガーに首筋を噛まれ、頸動脈を見事に切断され、全身真っ赤に染まっていたからだ。天井まで 届いている返り血。頸動脈切断の特有の現象。
そしてヘルガーは次の標的をエアに定めたらしい。真っ赤に充血した眼をまっすぐ彼へと注いでいた。 何かに攻撃することしか目的とせず、自分以外の者に容赦なく牙をむける。対象はなんでもいいのだ。ただ傷つけることが出来れば。そしてそれはやはりあのと き森を襲ったエアームドと同じ眼であった。
エアームドと同じ眼。
エアはそのとき自分でも図らずに、こんないつ己に牙をむかれてもおか しくない状況だというのに、再び今森がどうなっているのかを気にした。あのとき一人だけ生け捕りという形で捕らえたエアームドはどうなったのだろうか。危 険だということで殺してしまったのだろうか。そんなことばかり気にしていた。
そのとき彼は突然後ろ襟を誰かから掴まれてグイと引っ張られた。

「何をやってる。死にたいのか?!」

シェイドだった。このときおそらくシェイドは相手がラコンだということに気づかなくて、ほとんど反射的に言ったのだろう。
エアはそのまま壁に背を打って小さく痛みを感じた。同時に相手へ攻撃を仕掛けることを示すうなり声が響き、ヘルガーは衣服を厚く着込んでいるシェイドへと 飛びかかった。「危ない!」とエアが叫ぼうとした瞬間、シェイドは扉の取っ手に手をかけて、思いっきり引いて扉をぴしゃりと閉めた。ドゴンと思いものがぶ つかる鈍い音が響くとともに「ギャン!」というヘルガーの叫び声が聞こえた。

「車掌さん後ろの車両へ続く扉を全部開けておいて!」

アリアがエアとシェイドの二人越しに、乗務員へそう叫んだ。

「え? 何を……?」
「最後尾の食堂車におびき寄せるのよ! 扉を破られない内に早く。もちろん完全に人払いをしておいてね!」

乗務員は今し方遭遇した凄惨な光景で神経を参らせてしまったせいか、アリアの言ったことを素直に飲んで、後方の車両へと走った。
しばらくヘルガーを閉じこめるために閉めた扉は間隔をあけてドンドンと破られようとしていた。

「ところで、アリア。大丈夫なの?」

エアがさきほど怯えて崩れ込んでいた彼女の様子を思い出した。

「うん、さっきはちょっとびっくりしただけ」


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