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アリアは大丈夫であるように見せるよう装ってはいたが、微妙に手が震えているのをエアは見逃さなかった。どんなものにせよ、生き物が死ぬ場を眼にするというのはあまりいい気分になるものではない。ましてやそれが同族である人間であるならば。
扉の内側でヘルガーが何度も体当たりを仕掛ける音がドンドンと車両中に響く。シェイドが引き戸が開かないように取っ手をしっかりと押さえていたが、金具が 何かが取れ掛かっているようなガチャンという音が次第に大きくなり、扉があと長くない時間で破られることを物語っていた。

「さあ中に入って」

アリアがエアの腕を掴み、グイと元々彼らが入っていた部屋へと入り、扉をしっかりと閉じた。中はさきほどのギャロップからの攻撃で木製の部分はあちこち焦げて黒ずんでいる。アリアは閉じた扉に両掌をあて、時が来るのを待っている。

「初めてよ……こんなのは」

彼女はポツリと呟く。

「さっき驚いたのはね。ラコンの“声”が聞こえないなんて初めてだったから」

最初の襲撃の際に見せた彼女のあの怯えた様子のことを言っているようだった。さきほどエアが「大丈夫なの?」と問いかけたことに対する具体的な返答であった。

「シェイドなら大丈夫。廊下はせまいし、上手く食堂車に誘導してくれる」

彼女はエアの案じていることを先取りするかのようにそうも言った。
アリアとシェイドは本当にお互いを信頼し合っているのだとエアはつくづく思った。いったいこの二人はどのように出会い、どのようにこれまで生きてきたのだろうか。
さきほど一人目のヘルガーが殺されたことで、エアは思い知らされた。もはや人間界の間ではラコンは『危険な存在で、殺されてもしょうがない』という考えが 定着しつつ、あるいはすでに定着してしまっているのかも知れないということを。さきほどあの男のそばにいた乗務員は、あくまで業務上として男を止めようと しただけで、本当はヘルガーが殺されることに全く悲観していなかったのだろう。いまやどれだけの人間がラコンを敵視することに抵抗を感じなくなっているの だろうか。どれだけラコンが人間の害となる存在という常識が広がりつつあるのだろうか。そして何がラコンを狂気に駆り立てているのか。
だが、こ んな時世のなか、アリアとシェイドはお互いを信頼し合っている。それは決してアリアがラコンの言葉を理解できるからということだけが要因ではないようだっ た。そしてアリアとシェイドは互いに信頼し合っているこそ、シェイドだけでヘルガーをおびき寄せるという策を思いつき、こうして実行しているのだろう。エ アは彼女に色々聞いてみたこともあったが、今はそんなことを考えている場合ではない。今考えるべき事は、シェイドが無事ヘルガーを食堂車へ誘導してくれる ことを祈ることだけであった。
そのとき、ヘルガーが扉に体当たりする音がすると同時に、今まで聞こえてこなかった何かが外れる音がして、直後引き戸が倒れたらしい、けたたましい悲鳴にも似た音が聞こえた。
扉がついに外れたのだということは、幼子にも分かることだった。だがその音を前にしてもアリアは表情を変えず、シェイドが上手く誘導してこの車内から去っ ていく時を待っている。そしてヘルガーのうなり声が響いたと思ったら、床を駈ける音へと変わり、すぐにそれは車内から遠ざかっていった。それとともに、ア リアは扉を開け、同時に二人のラコンが走り去った方向へと駆け出す。エアもアリアの後を追った。
そしてさきほどヘルガーを一時的に閉じこめてい た、一人目のヘルガーを殺した男の部屋の前を通り過ぎる。やはり引き戸はレールから外れ、廊下側へと倒れていた。それを部屋側へ押し戻し、さらにシェイド を追いかける。そのとき二人は意識して、部屋に残っている死体に目を向けないようにした。
そのとき、エアはふとルアの方がどうなっているだろうかと気になった。
二人は一両、二両と客車を通り抜けていく。その間にヘルガーが走った爪の跡は残っていたが、目立って大きく暴れた跡は残っていない。どうやら本当に上手く シェイドは誘導してくれているようだった。例えいくら狂気にかられていようと、ラコン相手にはラコンで対当するのが一番いいのかもしれない。
そしてたどり着いた最後尾の食堂車入り口。そこにはさきほど人払いに行かせた乗務員が立っていた。どうやら彼も無事のようであった。
そして

「なんなんですかあの人は? ヘルガー相手に」

乗務員はまだ気が動転しているようだったが、明らかに先ほどよりは落ち着いていた。そしてその落ち着きから来たのか、乗務員の関心はヘルガーにはもちろんだがその相手をしているシェイドにも向けられているようだった。
エアはこのままこの乗務員がここにいるままであるのはまずいと感じた。
もし何かの拍子でシェイドのかぶっているローブが剥がれでもしたら、彼がバシャーモだとばれてしまう。それに今シェイドはヘルガーの攻撃をひたすら避ける事に専念しているが、ローブが邪魔で攻撃態勢に移る事が出来ないのかもしれなかった。
幸いにも外の乗客は全く部屋から出てくる気配すら見せない。しかしそのことはラコンが人間にとって恐怖の対象となっていることを如実に物語る事でもあった。
エアは周りを見回すと、個室の扉がひとつ開いている事に気づいた。何の拍子で開いているのか分からなかったが、その部屋には誰もおらず空き部屋となっている。
そして今この場にはエア、シェイド、アリア以外にはこの乗務員一人しかいない。
ルインから受けたある一撃のことが思い出される。
あの一撃を受けた後、グレゴールはあの攻撃を受けた部分はほとんどの生き物にとって急所であると教えてくれた。
もっとも相手がよっぽど油断していないとほとんど成功しないとも言っていたのだが。
エアは乗務員の男へと近寄った。多少手荒いまねを施す事になると、罪悪感が募りはするがこのままではシェイドの正体がいつばれないとも限らない。

「なんです……」

言い終わらないうちに乗務員の顔には苦悶の色に引きつり、そのままだらりとエアに寄りかかる形となった。
乗務員の肋骨の下、鳩尾(みぞおち)にはエアの固く握りしめた拳がぶつけられている。
彼にはいったい何が起きたか分からない内の出来事であったろう。手荒なまねであったがこれでシェイドを咎めるものはいなくなった。
エアはひとつため息をついて、気を失った乗務員をさきほど見つけた空き部屋へと引きずり込んで、床に丁寧に寝かせる。「ごめんなさい」と一言投げかけておいた。
部屋を出たときアリアがこちらの方を向いて親指を立ててグーのサインを出していた。エアは思わず苦笑いを浮かべた。

「すまないですね。あとは俺に任せておいてください」
「頼んだわよ」

シェイドとアリアの二人がそのようなやりとりを交わし、旅客車両から最後尾の食堂車へと続く連結部分の扉を閉めた。

「やっぱり声が聞こえない……。どうなってるんだよ」

シェイドが呼びかけるように言ったが、ヘルガーは何も答えず、ただ目の前にいる敵に向かって牙をむいて唸っている。そして口元からは唾液が流れ出ていた。
食堂車はこの鉄道車両の中でももっとも広い車両とはいえ、所詮たかがしれている。この狭い空間ではあまり大きく暴れる事は出来ない。
シェイドとしてはなるべく早く戦いを終わらせたかった。既にさきほどから続いていたヘルガーの攻撃を避ける動作によってテーブルがひっくりかえったり、椅子がおれたり白いテーブルクロスが無惨にしわくちゃになっていたりしている。
燃えやすいものばかりが周りにある以上、炎関連の技は自粛する必要があるが、相手のヘルガーがどこまでそれに答えてくれるかが問題である。

考えている内にヘルガーは先に行動を起こした。獣はほとんど一瞬のうちに身を縮める動作をしたのち、身体のバネでシェイドへととびかかる。
バリっと布の引き裂かれる音とともに、ヘルガーの牙が食い込む。しかしそのときにはローブはただの抜け殻と化していた。
ヘルガーは後ろに気配を感じ、向き直る。そこには燃えるような紅色の体毛を持つ人型のラコンの一種であるバシャーモが猛然と仁王立ちしていた。
シェイドはまっすぐにヘルガーを見据える。ギロリと鋭い目がむく。
だが、凶器の色に染まってしまっているヘルガーにはそのような威嚇は無意味。シェイドも予想していたことであった。
ヘルガーは持ち前のしなやかな肢体をもって再びシェイドへと飛びかかろうとする。
しかし行動はシェイドの方が早い。シェイドは手近のテーブルにかけてあった白いテーブルクロスを素早く引き抜いた。そのせいで上に乗っていたグラスや花瓶が床に落ちるがこの際気にしない。そして彼はそれをさながらマタドールのように迫りくるヘルガーに被せる。
視界を白に染められたヘルガーは思わず足を止め、ぶるぶると体を震わせて布を振り払おうとする。
その隙にシェイドは獣を取り押さえようとしてとびかかった。炎が使うわけにはいかないので、攻撃法はかなり限られる。
シェイドはうまく白い布にくるまったヘルガーの上に飛び乗ったが、獣の抵抗は思いの外すさまじいものであった。

「うわっ!」

列車の揺れとともに、ヘルガーがテーブルクロスごとシェイドを突き飛ばし、そのまま彼は床へと転げる。
彼は舌打ちして立ち上がろうとした。するとヘルガーの口よりなにやらどす黒い緑色の煙が吐き出されていた。煙は見る見るうちに車両中に充満して、そのうち視界もままならなくなる。
シェイドはこの状況をに対して非常にまずいと感じていた。アリアが以前教えてくれた事がある。
このような喚起状態のあまりよくない狭い空間で、スモッグ、砂塵、小麦粉などの粉塵が舞い散り、そこに火花などが生じる事によって起こる「粉塵爆発」。
遺跡で地下に続くトンネルなどへ入るときには十分注意しなければならない、特に炎の属性を持つシェイドはと。
今ここでヘルガーが何も分からず火炎放射などを使えば、車内が炎上するだけではすまされない。一刻も早くヘルガーを止めなければならない状況へと追い込まれていた。
しかし当のヘルガーはこのスモッグの中にうまく隠れてしまっている。そのうえシェイドは胸の苦しさを感じ始めていた。スモッグの粉塵が肺へと入り込んでいく。
刹那、背後から気配を感じたが、数瞬シェイドは遅れる。
振り向こうとした瞬間、ヘルガーの血に飢えたような赤い目が目の前に迫り、そのままシェイドを激しく押し倒す。倒れ際にテーブルにぶつかりテーブルもろとも倒れてしまう。

「くっ!」

シェイドは目を開けようとしたが、スモッグのせいでうまく開く事が出来ない。
そのとき何かがぶつかる衝撃とともに、シェイドの右腕に激痛が走った。痛む目をうっすらと開くと、右の上腕にヘルガーの牙が深く食い込んでいた。
ギリギリと次第に牙は奥へと入り込んでいく。思わずシェイドは振り払おうとしたが、寸前でやめる。
今無理に振り払おうとしたら、右腕は間違いなく引きちぎられる。本能的にそう悟ったからだ。
そのときシェイドの目に倒れたテーブルの傍らに転がっている一つの小瓶が目に入った。
とっさに噛まれていない左手を伸ばし、その小瓶を手に取る。同時に蓋を床にぶつけて砕くと、中に入っていた砂のような粉を思いっきりヘルガーの鼻頭へとぶちまけた。
その粉をかぶった瞬間、ヘルガーは肺の底から苦悶の叫びを上げ、思わずシェイドの右上腕に食い込ませていた牙を抜き、その場で悶絶した。
中に入っていたのは、レストランやこのような食堂車のテーブルには欠かさず置かれている香辛料、胡椒だった。
スモッグを出せるヘルガーは、そのスモッグに対しては耐性はあるだろうが、やはり胡椒には耐性はないようである。
おまけに、ヘルガーのような犬型のラコンとなると鼻の良さは随一。それを逆に利用する事となった。

「まさかこんなところで役に立つなんてなあ……」

シェイドは血がにじみ出ている右手を押さえながら苦笑いした。アリアから仕込まれた料理の知識がこんな形で発揮されるとなると、妙な気持ちになった。
ヘルガーが苦しみもだえている間、シェイドはからになった小瓶や暴れた事によって砕けた椅子の破片などを左右の窓にぶつけた。
ガラスは悲鳴をあげて粉々に砕け散る。同時に部屋中に充満していたスモッグが、列車の走行とともに外へと逃げていく。ようやく目を開けるようになり、また粉塵爆発が起こる可能性も去った。
そしてあとはヘルガーをいかにくい止めるかの問題のみとなった。出来れば殺さずに気絶させるにとどめるだけにしたいところ。それにあまり手荒なまねもしようとは思っていなかった。
だがシェイドはすでにその二つの条件を満たす方法を考えついていた。

「一ヶ月は鼻が利かなくなるだろうね」

そうつぶやいて、ヘルガーが苦しみもだえている間に集めた胡椒の瓶五つの一つ目の蓋を開ける。シェイドはヘルガーが暴れても抑えられるように上に乗りかかり、そして中身を倒れているヘルガーの鼻の頭へと……
二瓶目。更なる刺激を受けたことによって、よりいっそう悶えもがきまわった。
三瓶目。苦痛にうなる声は、いつしか哀れみを帯びた甲高い声に変わっていた。
四瓶目。すでにピクピクと足の先が痙攣を始めている。この時点で完全に戦意は喪失しているようだったが念のため……
五瓶目。……白目をむいたまま動かなくなってしまった。息はしているようだが。

「終わりましたよ」

シェイドは再びローブを全身にまとい、左手で車両と車両をつなぐ扉を開け、勝利を宣言した。
怪我をした右腕を押さえている。まとっているローブに血が滲んでいた。

「右腕、怪我したのね。他は大丈夫?」
「ええ、ちょっと体を打ったりしましたけどそっちは大丈夫です」
「ヘルガーは?」
「気絶してるだけです。まあ、ちょっとかっこ悪い勝ち方でしたけど」

シェイドはそういって笑顔をアリアに見せる。
この二人は本当に強固な絆で結ばれている。やり取りを見てエアはそう思った。
 


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