−16− 夜。宿の受付にあった振り子時計が午後十時を告げる音が部屋にまで響いてきた。 エアたちはゴルドバに到着した後、比較的安価で宿泊できる宿へと泊まることにした。この宿はこの街でもうかれこれ五十年以上経営しており、老舗と呼ぶにはまだ早いかもしれないが、ともかくずっとこの街に腰を据え続けているのだ。 この部屋にはエアとルアの二人が泊まっており、アリアとシェイドは別室に居る。 窓際には二人がけのテーブルが置いてあり、エアはそこに座って窓の外に見える山をにらむように眺めていた。 その山こそ、この街の名前の元となり、列車での騒動を起こしたラコンたちが住んでいるというゴルドバ山である。 とりたてて高い山というわけではないが、この山の最大の特徴は今も活動を続けている火山であるということだ。 ルアの情報では、一月ほど前に起きた大きな噴火以降になってラコンの襲撃が顕著化したとのことだった。 夜の暗闇の中でもその輪郭ははっきりと描かれており、まるで洗濯板のようにギザギザと凹凸を描いていた。 火口があると思われる煙が出ているのはここから見える山頂よりもさらに奥の方にあるらしく、山の向こう側から細く白い煙が見える。 「あそこに何があるんだろうね」 「行ってみないと分かりませんね。もっともあそこで何かを発見したとしても、一連の騒動をとめることは出来ないでしょうね」 ルアの言うとおりだった。ラコンたちの秩序が崩れ、心を失い、人界に頻繁に姿を現すようになったのは、ルアによるともうずっと以前から少しずつ起こり始めていたことだったからだ。 だがこのゴルドバに限って言えば、ラコンの姿が特に見られるようになったのは一月前の噴火以降。さらにアリアの話によるとその噴火で今まで未発見だった遺跡が見つかったとのことだった。 エアにはこれらのことが無関係とはとても思えなかったのである。一連の動向をとめることは出来なくとも、手がかりだけでも発見できれば何かが分かるかもしれないと考えた。 ゴルドバの街はエアたちの乗った列車が駅に到着するほんの数時間前にも、十数体のラコンによる襲撃を受けたばかりであった。おそらく列車を襲ったのはその一団から抜けた者たちだったのだろう。 街の主だった通りには何本もの篝火が掲げられ、街の警察や自警団の人々が主に山の方を警戒していた。特に一部の者たちは散弾銃を背負っていて、いつでも撃つ体勢を取っていた。 そして今も窓の外に見える通りには篝火が赤々と燃え上がっている。夜の闇によって覆い尽くされるのを恐れるかのように。 「君にとってはすぐにでもあの山を調べたいでしょうけど、少なくとも明日、明後日まではまずいでしょうね」 ルアがゴルドバ山へと目を向けているエアに忠告するように言った。 「どうして?」 「あ の山はこのあたりでは大きなラコンの住処のようです。そんな中私たちだけであそこに行くのは自殺行為に等しいでしょう。シェイドくんの回復を待つのが賢明 ですね。それに、山に登るならどんな登山道があるのかもよく調べておく必要がありますし、出来れば地図も手に入れておきたい。その他にもいろいろ準備は あった方がいい。要は供えあれば憂いなしってことですよ」 「なるほど」 本当なら今すぐにでもカイリューの姿に戻ってひとっ飛びで山へ入ることも出来る。そうすれば鳥形の者を除いてラコンに出くわす可能性もずっと減るし、たとえ出くわしたとしてもカイリューの力を以ってすれば軽く蹴散らすことだって出来る。 だが、今のエアがもう一つ知りたいことは「人間の目線」であった。エアには人間の目線でラコンを見ること、ラコンの目線で人間を見ること。その両方が可能となっていた。 エアは自分が人間の姿になれると初めて知ったときから、ずっと人間に興味を抱いていた。ルゼックの街でひたすら行き交う人々を観察したのもそのためだった。そしてエアはなによりも自分という存在のことも知りたいと思っていた。自分はなぜ人間になることが出来るのだろう。 フシギバナのグレゴールの話によると、エアは卵の状態で湖の畔に流れ着いていたとのことだった。卵の状態の記憶など当然残っているはずもない。だから親も分からない。強いていうなればグレゴールを始めとする森のラコンたち皆が親代わりとも言うべきであったろう。 生まれたとき自分がミニリュウという種族で、やがてハクリューとなり、カイリューと成長していくと教えたのもグレゴールで、そして進化するときに一番喜んでくれたのもグレゴールだった。 だからかもしれないが、なおさらエアは自分のことを知りたがっていた。自分は普通のラコンとして生きているはずなのに、どうして他のどのラコンにも出来な いことを自分は出来るのか。人間になる力があるのなら、人間の立場として物事を見聞きするのも、また手がかりを探す近道になると彼は根拠はないがそう確信 していた。 エアはふと空に浮かんでいる真っ白な輝きを放つ月を見上げた。 月の光はまるで絹で出来た柔らかなカーテンを投げかけるの如く、窓からそっと入ってくる。 エアは今グレゴールがどうなっているだろうかと考えた。もうずっと病気で、あまり先が長くないことをルインを通して知っていた。今度の冬はもう越せないだろうということも。 ここからいくつもの山、川、野原を越えた先にある森。グレゴールの顔が浮かぶ。もう生きて会うことはないだろうと分かっていた。フシギソウのアイリスを死 なせてしまったときから会うことすら憚られるようになってしまった彼。それなのに「あの出来事」を一番庇ってくれていたのもまたグレゴールだということも エアは知っていた。 「グレゴールさん……」 意識したわけではないが、ルアに聞こえないように小さな声で彼はぼそりと口走った。 月がゴルドバ山を照らす。乾燥に強い雑草くらいしか生えていない裸の斜面が、雪が積もっているように白くなった。 そのとき、唐突に扉の閉まるバタンという音が響いた。 音のするほうをエアは振り向いた。どうやらルアが部屋を出たらしい。 彼は一瞬なんとなく追いかけた気持ちになったが、特に用もないのに付いていくのも野暮だと思いなおし、そのまま毛布にくるまることにした。 ルアは宿の玄関を出て、すぐにある四段ほどの石階段に腰を下ろした。 クレフを右手に乗せて、左手で愛撫する。クレフはその愛撫される手に対して何も感じていないかのように、じっとルアの目を見据えている。むしろ「かえって迷惑だからやめろ!」とでも言いたげでもあった。 ルアはそんなクレフの心情を察したのか、くすりと笑いその手を止める。バルコニーの柱にもたれかかって、月を見上げた。 「アイシェ……、約束は必ず果たすよ」 そのときのルアの目に映る月は、まるでこちらに微笑みかけているかのようにすら見えた。 |