−17− エアたちが、シェイドの傷が癒えるのを待つがてらに、街で必要な道具を買い揃えているそのころ、ゴルドバからいくつも丘、山、河を越えた先にあるエアの故郷の森では時間が静かに流れていた。 ブラッキーのルインは生い茂る木々の間に体を横たえ、葉と葉の間からこぼれてくる太陽の光を仰いでいた。しかしこのところ冬に近づくにつれて葉の数は少しずつ減っていき、それにともなって差し込んでくる光の量も多くなっていた。 「ルイン」 呼び声がして、彼はそちらの方をむいた。 ルインの座っている場所から十フィートほど離れた楓の木の根元にサーナイトが一人立っている。 「リムルか」 その名前で呼ばれた彼女は、ほとんど音もなく近づき二人の距離を縮めた。サーナイトの表情には相手のブラッキーを案ずるような険しい色を表していた。 地面には楓の葉が散らばり、日の当たっている部分ではぱりぱりに乾燥し、常に陰になっているような部分はじっとりと湿って腐りかけている。 リムルはルインのことを呼んだものの、何から話そうかを迷っているようだった。いくばくかの沈黙が流れた後、彼女はおもむろに口を開いた。 「最近、大丈夫かなと思って」 「大丈夫って?」 「だって、ここのところ……」 そこでリムルは言葉を詰まらせた。ルインには彼女が言いたいことがわかっていた。正気を失ってただ自分以外のものに容赦なく牙を、爪を、鋭く尖った嘴を向けるだけの存在となってしまったラコンの出現。 リムルが言葉を詰まらせたのは、自分も同じラコンとしてそのことを無意識のうちにその事実を拒んでいるからなのかもしれない。 先日のオニドリルの件以来、まだそういった類のラコンはここには来ていない。そのことが何よりも有り難いことだった。 「分かっているさ。心配するな。とはいっても、難しいだろうけどな」 ルインは苦笑した。「心配するな」と口で言ってみたものの、実際彼の中には不安が色濃く渦を巻いていた。彼は相手のサーナイトがそんな自分の胸の内を見抜いただろうと感じ取っていた。それでもルインはたとえ相手が誰であろうと弱みを決して見せないと決め込んでいた。 それはグレゴールからあのような話を聞かされたせいかもしれない。 「まず何から話すべきか……」 ルインが決意の意志を示したその日、グレゴールはそのような言葉で切り出した。 かねてより鳴り響き始めていた遠雷は明らかに近づいている。まもなく雨が降り出すだろうと思われた。 ルインはこれよりグレゴールの口からどのような言葉が漏れ出そうとも、決して動揺の色は見せまいと身構えていた。 「ではエアのことから話そうか。そこからの方がやりやすい」 エアの話が持ち出されるのはかねてよりルインが予想していたことだった。 「ルイン。お前はエアが生まれたときの話は聞いているな」 「ああ。湖に繋がっている河の上流の方から卵が流れてきたんだってな。仲間内の話じゃ、その何日か前にカイリューが山の方へと飛んだのを見たって聞いてるし、おそらくそいつが産み落としたんじゃないかって言われてるな」 「そう……。そういうことになっているな」 「『なっている』だって?」 ルインは怪訝そうな顔で聞き返す。だが、このような言葉がグレゴールの口から出てくるのもまだ予想していた範囲内だった。実際エアには素性が怪しいところ があまりにも多くあった。たった今グレゴールの問いに対しての答えも、ルイン自身半信半疑に感じていた。なによりエアがなぜ人間に変身することが出来るの かというのが、ルインだけでなくエアのことを知る全ての者にとっての最大の疑問であった。そして誰よりもエア自身がそのことを己の最大の疑問だと思ってい るに違いなかった。 エアが自分は人間に変身することが出来ると知ったのは三年前。ほんの彼自身の好奇心からであった。エアがカイリュー へと進化したばかりのころ、彼は空を自由に飛べることによって必然的に行動範囲が広くなり、あるときちょっとした好奇心で人間の多く住む「街」というもの に近づいたのだ。もちろん人間に自分の姿を見られないよう細心の注意を払ってである。 そしてエアがその「街」より帰ってきたとき、ルインは明らかに彼の様子が変であることを見て取った。 エアの表情はまるで死者のように生気が薄れ、その目はまるで盲目であるかのようにぼんやりと空(くう)を見つめているようだった。 そのときのエアの様子は明らかに人間という未知の存在に触れたことによる驚きなどではとても説明できないほどであった。一体何があったのかルインはもちろ んのこと、そのときはまだ生きていたフシギソウのアイリスも気になりはしたが、そのエアの様子からはとても聞き出そうという思いにはなれなかった。 しかしその数日後、エアは自分からこのことをグレゴールに話した。自分が人間の姿に変身してしまったことを。その場にはルインもいた。 彼はあの日に見たヒトの営みを見て、確かに「人間になってみるのも面白いかもしれない」と考えたのである。 そのときだった。エアが人間へと変わってしまったのは。 「ぼくはいったい、何なのかな?」 これはそのときエアがほとんど泣きそうな顔になりながらグレゴールに発した言葉だった。グレゴールとルインはこのことは絶対に誰にも言わないことを誓い、三人だけの秘密となった。アイリスにさえ、最期までエアがヒトへと変身できることは伝えられなかったのだった。 洞穴の外の方で、風の音に混じって水の粒が地面へと落ちていく音が聞こえ始めた。雨が降り出したのだろう。 「回りくどい言い方はやめよう。お前の方にはそっちの方がいいだろう」 グレゴールはこう前おいた。 「エアが生まれた卵は、湖の底から浮かび上がってきたんだよ」 「なんだって?」 「二 十年近く前……まだお前やアイリスが生まれていたかいないかのころだな。冬の終わりのある日の夜。湖の中央あたりの底から突如光が溢れ始めたんだ。私を始 めとする仲間らも湖にすぐさま向かったよ。すると、こんなことを言って果たしてどこまで信じてもらえるかはわからないが、湖の底から溢れていた光はまるで 生き物であるかのように、空中のある高さのところで、湖をすっぽり覆ってしまうほどの円を描いた。そしてその円には私には分からないが、おそらくヒトの使 う文字と図形が描かれていた。その光の円はしばらくするとうっすらと消えていった。するとおそらく光の元となっていた場所から一個の卵が浮かび上がってき た。その卵からはミニリュウが生まれ、そして私が『エア』と名づけた」 ルインは黙って、というよりもほとんど何も言えずにグレゴールが淡々と話すのを聴いていた。沈黙が流れる。外より聞こえてくる雨の音が二人の間の沈黙をいっそう引き立てている。 「私を始めとして、そのとき居合わせた者たちにはこの出来事は他言しないように頼んだ。幸いにもそのときの約束は無事に守られている。あ、ということは私が最初に破ったことになるな」 グレゴールは愉快そうに笑みを浮かべた。 「何のために?」 「わかっているだろうに……。まあいい。他の者が無駄に怖がらないようにだよ。少なくとも、生まれたときは何の変哲も無いただのミニリュウでしかなかったからね」 「あいつは……カイリューだよ。本当に。ただちょっと人間に変身することが出来るってだけで……それが無かったら本当に普通のカイリューだよ」 ルインはまるでエアを庇うかのようにまくし立てた。グレゴールに対してというよりも自分に言い聞かせているようである。ルインは突如突きつけられた事実に心の整理が全く出来ていなかったのだ。 少しおかしな部分もありはするが、ルインはエアのことを心の底から親友だと断言できる。だがこの事実を前にして自分の中でエアとの距離が開いてしまうのではないかということを何よりも恐れていたのだ。 「エアは……」 グレゴールはルインの様子を察しながらもさらに続ける。 「何らかの方法でこの地にずっと封印されていた」 「いったい誰が?! 何のために?!」 ルインのその叫びが洞窟に木霊する。 「雨脚が強くなる前に今日はもう帰るがいい。これ以上話すには少し心を整理した方がいい。なに、慌てるな。ここのところは調子もいいからな」 それは同時にグレゴールの先がもう長くは無いということを逆説的に言い表していた。グレゴールは自分自身があとどれくらい生きられるのか、日にち単位で知っているかのようだった。 グレゴールはなぜエアの出生の話から始めたのかルインは考えながら、パラパラと降り注ぐ雨の中を走る。 ルインは経った今あの老いたフシギバナから聞かされた言葉の一つ一つを反芻していた。 『エアは何らかの方法でこの地にずっと封印されていた』 あのときグレゴールは「封印されていたのだろう」という推量的な表現は使わず、「封印されていた」とはっきりと断言した。ルインには分かった。グレゴールはこの地にずっと昔からエアが封印されていたことを知っていたのだろう。エアが生まれるずっと前から。 そしてグレゴールがエアの出生から話し始めた理由。それはこの地には何か誰も知らないような、大きな秘密が眠っている。なぜエアがこの地に封印されていたのか。 ルインはおそらく自分とグレゴールとしか共有していないだろうこの秘密を、他の誰かにはもちろん、すぐそばに居るリムルにも話すつもりは無かった。ただ、 エアにはいつか話すことになるだろうと感じていた。もっともエアが自分からこの事実に、いやもっと奥深いところまでいずれ行き着くであろうという考えの方 が強かったのだが。 ふとルインが振り向くと、さきほどまでそこにいたサーナイトの姿は消えていた。 冷たい風が通り抜けていく。 ルインはおもむろに起き上がり、ゆっくりとその場を立ち去るのであった。 |