NO.6

 

 やがて、毛の先までその感覚が行き渡る。今なら冷静に思考し、行動できるという確信が生まれた。
毛の一本一本でさえもが鋭敏な神経となり、冴え渡る。

――私は今、醜い魔物の腹中にいるのだ。ならばどうする?

答えは、考える間もなく閃光のように彼女の脳裏に映し出された。
その胃を食い破り、ハラワタをぶちまけてやれば良いのだ。
何故、これほど簡単なことに気がつかなかったのか。

気付いた途端に、完全冷却された全身が一気に熱を帯びた。
理屈ではない。種の本能として、彼女は既にそれを知っていた。
これこそが、自らの生き延びる最善の方法であり、最短の道程だったのだ。
束縛は、断ち切れば良い。障害は、打ち砕けば良い。

――偽善に駆られた薄汚い人間め。
その汚らわしい腕で私を束縛するな。
*ね。

その、あまりに冷酷な二文字が横切ると同時に、彼女は放った。
脆い人間にとって、その煌きは死の芳香。
襲い来る虫けらにとっても同様。この輝きは終焉を呼ぶ神の裁きなのだ。

轟音。夜の闇を切り裂いて、天から現れるそれは、さながら裁きの聖槍。
脈々と受け継がれてきた血が呼び起こす、究極の天災。

光が収まり、焦げ臭い匂いが広がる。
束縛は一瞬で剥がれた。障害も同時に打ち砕かれた。
人間は言うまでもないが、神の裁きたる雷撃を受けて、単なる昆虫程度が生きていられようはずがない。
彼女はついに、「執行」したのだ。
自らを貶め、嘲笑う虫けらのような世界を消し去るために。

彼女の呼吸が整っても、それらが動くことは無かった。
全身に染み渡る、不思議な高揚感があった。
成し遂げた。生き延びるという目的を達した。ついでに虫けらどもを排除した。
神々しい一筋の閃光のみを以って、醜い魔物を屠ったのだ。
それだけで、放った熱が戻ってくるかのように、体の内側が熱くなった。

「うっ……」

何度経験しても慣れないこの感覚。全身が跳ねるようにして硬直する。
背筋に、冷たい感覚が駆け抜ける。

それはありえない、否、あってはいけない物音。
湧き上がっていた高揚は再び急激に冷却され、全身の神経を逆立てた。
先ほどの一撃で、確かに彼は息絶えたはずなのだ。それなのに……

「ば……か。こんだけ……できんなら、最初から、やっとけ」

生きている。間違いない。
彼女は我が目を、否、自らの全感覚を疑った。

生きている。喋っている。動いている。
全身ボロボロになっても、腕をついて立ち上がろうとしている。
まだ痺れが残っているのか、決して満足な動きではなかったが、彼はまだ立ち上がるというのだ。

人間の彼がそうであるように、昆虫である蜂もまた力を取り戻している。
昆虫と言っても、一般的なてのひらサイズではない。人間の大人ほどはありそうなほど、大きな体躯。
両腕にはその鋭利さだけで凶器になりうる銀色の、黄と黒の独特の縞模様の入った腹の下には黄金の毒針。

あの裁きに耐えることが出来た蜂は、ただ一匹のみ。
所々が破けてしまった羽を必死に動かしながら、それでも着実に近くの標的に迫る。
連中は、その命を失うまで狩人なのだ。

一刀一足の間合い。睨み合うのはその一刹那のみ。

少年が踏み込み、手にした長い枝で横薙ぎに一閃。
巨大な蜂も、負けじと自らの腕を突き出した。

わずかなリーチの差で、初太刀の軍配は少年に上がる。
振りぬいた枝が黄色と黒の胴を打ち、再び両者は遠間の状態に戻る。
だが、戦いは終わらない。どちらかが傷つき倒れ、再起不能になるまでは。
後方へ弾き飛ばされた蜂が再び襲い来るまでに、彼が行動を起こす時間は無かった。

互いによろめきながら敵の得物を避け、わずかな隙を狙って腕を突き出す。
時に打ち合い、間合いを開けたり詰めたりしながら。
少年の手が腰につけた赤と白の玉に伸びる隙は無かった。
枝を手放せば命は無い。時に中段、時に上段に構えながらの他流試合。
羽の破れた蜂と、ポケモンを繰り出せないトレーナー。

力強さは無い。しかし、そこに意思の弱さや、平穏を求める甘えも無かった。
ただ互いの存在をかけて戦う。紛れも無い命のやり取り。

彼らの剣は折れた。だが彼らは折れた剣の端を握ってあくまで戦うというのだ。
月明かりの下、痺れる全身を引き摺って。悲鳴を上げる腕に鞭を打って。

その姿は、傍から見れば醜い生存争いである。
しかし、彼女の瞳にはそうは映らない。彼女も、生き延びるために「戦った」者として、感ずるところがあった。

彼らは、崇高な戦士なのだ。
他の何者よりも尊い自らの命を賭して、自らを脅かす者に必死で立ち向かう。

先ほどまでの彼女なら、自らが見下していた汚らわしい存在がこれほどまでに崇高な姿を見せるとは思わなかっただろう。
今の彼女は、そうやって自分が見下していたことをも忘れ、その美しいとさえ言える戦いに魅入られていた。

――果たして、同じだっただろうか。

脳裏に焼きついた、彼女自身の戦い。
何が何でも生き延びようとした、数多の瞬間。

『そのままくたびれて、蜂どもに*されてしまえ!』
『逃げなきゃ。逃げなきゃ……っ!!』

高速で駆け巡る映像が、同時に心の音を運んでくる。
最後に重い響きを持って残ったのは、どこまでも冷酷なその二文字。

『*ね』

――果たして、同じだっただろうか。

答えは火を見るよりも明らか。

――否、これほど崇高な光景が、あの醜い逃走劇と同じなどと言えるはずがないのだ。
彼らは立ち向かった。だが、私は?

体の内側に、再び熱が戻ってきた。
それは決して、先ほどの虚しい達成感の元で起こる低温火傷のようなものではなかった。
心を覆い尽くしていた冷たい氷が、激しい熱で融かされているような気分。
少し痛くて、少し気持ち良い。後悔にも似た苦味と、心の奥底から湧き上がる興奮が混ざり合う。

――逃げただけじゃないか。全てを何かに押し付けて。

再び、あの映像が流れる。
今度は、逃げたりはしない。


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