Page 7 : 日常


休日の溢れんばかりの人混みの中をぶつかりながらもくぐり抜け、レンガ造りの住宅が連なる道をラーナーは歩いていた。
時はあれから随分と過ぎ去って、太陽は赤く燃えるような光で町を照らしながら、西の向こう側に沈んでいこうとしていた。
朝は東の海から顔をのぞかせ、夕方は西の山に隠れていくウォルタの太陽の風景は、国内では美しいと有名らしい。
ただ小さい頃からここに住んでいるラーナーにとっては、これが綺麗なのかどうかは分からない。この景色が普通で日常で、慣れてしまったのだ。

ラーナーの右腕の中には大きな茶色い紙袋があった。中には食料品がどっさりと入っている。
左手には大きく光り輝いているようなひまわりが二輪、白い紙に包まれていた。
花はともかく紙袋は持っているというよりは抱え込んでおり、一見女の子が持つにはかなりの重量がありそうだ。
が、ラーナーにとってはもうそれさえも慣れたものだ。


しかしその表情は沈んでいた。足の運び具合もどことなく重い。
石の敷き詰められた道を歩くたびにコツコツと硬い音。右の方に長く黒い影が平らかに伸びて、建物にぶつかると沿うように屈折した。


彼女の頭の中はやはり朝のことでいっぱいになっていた。
気を紛らわせていっそさっぱり忘れてしまおうと思い、無駄にウォルタ市内を歩き回り最終的にいつもの買い物をした。
けれど結局は忘れることもできず、植物が地面に根を張るようにしっかりと記憶に残っていた。


目を閉じても閉じなくても、鮮明に思い出せる。優しい炎の揺れも冷たい緑の色も、流れた風も木の動きも。





彼女の横をサッカーボールを持った小さな男の子が走って行った。
近づいてきた音はすぐにまた遠くへと消え去っていく。


やがて道の右側のある背の高いアパートの中にラーナーは足を踏み入れる。
上へと続く階段には目もくれず、少し長い廊下を歩く。そして一階の一番奥にある黒いドアの前に立った。
チャイムのボタンを押す。途端中からリン、という小さな鈴の音が一回だけ聞こえた。
続けざまに鳴り響くはバタバタと忙しそうな足音。外まで聞こえてくるということはよほど急いでいるのか。

鍵の開く音のすぐ後に、ドアが滑らかに開く。中から顔を出したのは、十二歳くらいのまだ顔が幼い男の子だった。
黒い半ズボン。鮮やかな青い半そでのTシャツには、黒で何やらアルファベットが敷き詰められたようなプリントが大きく前にある。
髪の毛はラーナーよりも少し暗めな栗色で、瞳の色は彼女と同じだった。
ラーナーの弟、セルド・クレアライトだ。



「なんだ、姉ちゃんか」彼は少し何か落胆したような声を出した。
「なんだ、て何よ。ただいま」
「おかえり」



ラーナーがドアノブを取り更に扉を開いた瞬間に、待ちかねたようにセルドは扉から離れ部屋に駆けこむ。
とりあえず中に入り、ラーナーは扉を閉めて鍵をかけた。そして重い荷物を持ってセルドの言ったリビングへと向かう。
この国には部屋で靴を脱ぐという習慣がないため、靴を脱ぎ捨てる場所はない。そのため靴を履いたままだ。


リビングに入ると、テレビがついていた。テレビの中ではアニメがやっている。それをセルドは椅子に座り真剣に観ていた。
そういえばこの曜日のこの時間はいつもセルドはテレビを見てたな、とラーナーは思い出せられる。
何やら人気の少年漫画の映像化バージョンらしく、彼も数えきれないファンの一人だ。42巻にわたる現在も連載中らしいその漫画を、全部揃えていたはずだ。
以前熱くその漫画の内容をラーナーにも話してくれたのだが、よくストーリーが理解できず、すねられたことがある。結局ラーナーに実物は見せてくれていない。


そんなアニメの音が響く中、ラーナーは少々呆れた顔でセルドを見やり、持っていた荷物をようやくテーブルに置いた。鞄はセルドの正面の椅子の上に置く。
ぎしりという怪しい音こそしなかったが、叩きつけたような大きな音が一瞬だけ響いた。
花束だけは別にする。台所に持っていき流し台の前に立つと、置いてあった小さな花瓶に蛇口から水を入れる。透明な冷たい液体が流れ出てくる。

ひまわりは少しはさみで茎を切って、短くする。花瓶の中が水でいっぱいになり、今度は湧き出すように水が花瓶から零れていく。
慌てて蛇口をひねり水を止める。一瞬にして水は止まり、ラーナーはひまわりを花瓶の中に二輪とも入れた。


少し笑顔を零すと、布巾で花瓶をそっと優しく撫でるように拭いて、台所から出る。
明るい色の木でできたテーブルの上に、花瓶を乗せる。こと、という固い音がした。




テレビの中から何やら明るい歌が流れてきた。ふと何気なく見やると、スタッフロールが流れ始めている。白い文字の羅列。
どうやら物語は終わったようだ。気に入っている曲なのか、セルドは笑顔でそっと自分の鼻歌を重ねていた。


時間は七時を回ろうとしている。身体の重さをラーナーは確かに感じていた。
けれどそろそろいい加減に夕食を作らないと、またねちねちとセルドに文句を言われるのが目に見えていた。
仕方がない。そう思って紙袋をもう一度の中を覗き込み、次々と買ったものを出してテーブルの上に並べていった。トマト、茄子、肉…………。


「あ」


米をまずは炊かなくては。そう思い出して、少し急ぎ足で台所に戻り、下の戸棚を開ける。
その中の一番下の段にあるのは透明の少し大きめのケース。クレアライト家の米の保存場所だ。
しゃがみ込むとそれに手をかけて、一気に床に引きずりおろす。その時ラーナーは違和感を感じ、思わず眉をひそめる。米が入っているにしては、いくらなんでも軽い。

嫌な予感がして蓋を開けた。途端深い溜息をついた。案の定ドンピシャ、だった。


中には透明の米を量る計量カップと、数粒の米粒しか無かった。


これでは主食がない。それはまずい。



「…………セルドー」
堪えられなくなって弟の名をそっと呼んだ。

「何」
「あのさ、米買ってくる気とか……ない?」
「ない」
視線はテレビのまま、間髪入れずに即答した。


「…………」
「姉ちゃん、まさか買うの忘れたの? あんなに昨日の夜米買わなきゃって連呼してたのに」
「…………買って、きます…………」


セルドは幼い見た目以上に冷静で、生意気でもある。
人の嫌なところをピンポイントについてくるのが得意なのだ。本人に悪気があるわけではないが。

テレビの中では文字の羅列が消えて、歌も終わったようだ。すぐに次回予告が映し出される。
ラーナーは椅子の上にあった茶色の小さめの鞄を手に取る。


「じゃ、ちょっと行って来る。鍵よろしく」
「ん」 



バタバタと忙しそうにリビングを出ていくラーナーの姿を、セルドは横眼でそっと見送った。
窓の外は夕日が沈みかけて、薄らと暗くなり始めていた。


鍵を開けて扉を開く。いってきます、と声をもう一度リビングの中に向かって言ってからラーナーは出ていった。
米を売っている店は近くの商店街にある。走れば五分と経たずに着くだろう。
走る必要はないかもしれない。けれど彼女はダッシュをかけて、アパートから出た。まるで、何かから逃げるように。


東の果ての空には明るい星が見え始めている。










「そろそろ夜だ」

帽子を深く被りなおすと、少年は呟いた。その声にポニータは軽く頷いた。

彼等は今ウォルタ市街の住宅街が立ち並ぶ道を歩いていた。住宅街、といっても古いものが多く、夕方にしては人通りは極めて少ない。
一度立ち止まると、持っててとポニータに声をかけてから、背負っていた黒い片方の肩にだけかけるタイプのリュックサックをポニータの背に乗せる。
そして来ていた白めの上着をそっと脱ぐ。現れたのは灰色のTシャツ。やはり長袖だが。

ありがとう、と言って鞄を取りチャックを開け、乱暴に上着を入れ、被るように再び背負う。いよいよ彼の見た目はほぼまっ黒だった。


「感覚ちょっと尖らせる。ちょっとでも異変がきたら……いく」
目は少しも笑っていない。ポニータは目を細めて、暗くなり始めた空を見上げた。


七時を示すチャイムが街中に響き渡る。町の時計台は、毎時間このチャイムを高らかに鳴らすのだ。




彼の周りの空気が少しずつ冷えていく。瞼を閉じていた。涼しい風が彼を揺らした。激しく踊るポニータの淡い炎。
瞼の裏で広がる世界。暗闇の中で耳を立て、匂いをそっと探る。






蠢く闇を、捉えるために。

 


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