Page 9 : 恐怖


どれだけ走ったのだろうか。もう体力は限界に達している。口でする呼吸の音は掠れている。
足が重い。けれど走るしかない。ラーナーは涙を零しながら必死に暗い夜道を走る。

左に入る横道がぼやけた視界の中に入り、ラーナーは唇を噛みその曲がり角を覗いた。
「……っ」
目に入ったのは、細い道の真ん中にいる赤い目を光らせた何か。恐らくは生き物である。大きさ的には人間ではない。
ラーナーはもう一度走り始めた。曲がらずだ。心臓が切り裂かれたような痛みが呼吸を苦しめる。


先程からずっとこうだった。
ウォルタの中心地に向かうにはそれなりに道を曲がらなくてはならない。が、彼女が曲がろうとする道の行く先々にいつも何かが待ち伏せている。
彼女の瞳には敵と映っている。眼の光が尋常ではないからだ。餌を狩ろうとする獣の眼の他ならないからだ。

しかし曲がらなければ一方的に暗い道へと入っていく。すでに彼女にとって見覚えのない地域へと入っていた。
電灯は光っていないものばかり。明かりは夜空の月と星の灯ししかなく、足元はほとんど見えない。
周りには高くそびえる今にも崩れそうな木の建物。現在のウォルタ内ではほとんど見ない木の設計。風に押されては不気味な音を立てている。
人はいない。建物に人が住んでいるという気配はない。夜の廃墟は彼女の恐怖心を更にあおぎたてる。



涙が落ちる。止まらない。かき回された濁流のような心境だった。
誰でもよかった。とにかく助けてほしい。今すぐに。けれど叫ぶほどの力は彼女には残されていない。



「あっ」

声が零れた。と同時に彼女は石の敷き詰められた床に向かって前に倒れた。ラーナーの足元には、少し盛り上がった石が一つ。
そこに足を引っ掛け、転んでしまった。と同時に、彼女は力が全て抜け切ってしまったように、脱力感に満ちた。
動けなかった。走ろうとも思わなかった。肩が激しく上下している。顔が熱い。息が苦しい。咳きこむ。口から何かが跳び出した。唾液の塊。


汗が身体中から噴き出していた。外は暑かった。もやもやとした湿気に包まれている。
音はない。誰かが追ってくるような気配も感じなかった。逃げ切ったのだろうか。そう思いラーナーはそっと安堵する。
きっとこれは夢なんだ。そう思うしかなかった。彼女に残る期待。セルドのところに戻らなきゃ。冗談やめてよって言わないと。でも、少し休んでから。










「やったー逃げ切れたー……………………なーんて、思った?」

後ろから声がした。ラーナーの心臓が大きく跳ね、反射的に起き上がり後ろを振り向いた。
涙で顔がぐしゃぐしゃになった彼女を見て、男はにやりと笑う。

見た目は宅配便業の従業員。服装も全く同じだ。けれど手に握られているのはそのイメージとは全くかけ離れている。
ナイフ。慣れているのか右手で遊んでいるようにそれを回している。その姿にラーナーは驚くしかなかった。
顔は楽しげに笑っている。けれど黒い眼は殺気に溺れていた。


残り僅かしかない力を振り絞り、彼女は起き上がり逃げようとした。



「逃げようったって無駄だ。結界を張らせてもらった。――もう飽きちゃったんでね」
ラーナーの身体が凍りついたように止まる。恐る恐る振り向いた彼女の瞳に、笑顔の男の姿が映った。途端寒気が背中を襲う。
「けっかい……?」
「そうそう。まあバリヤードの力を利用した……って理屈なんだけどね」

男は笑いながら言い、一歩、また一歩とラーナーへ近づいた。
彼女の額から汗が噴き出す。身体が動かなかった。脳は動けと確かに命令しているはずだった。なのに動かない。縄で縛りつけられたようだ。
立ち上がったそのままの状態で、彼女はピクリとも動かなかった。動けなかった。



「金縛りのされ心地、どう」
男はスキップをしているような軽い足取りでラーナーに近づき、そっと見下ろす。


「君は運がいい。それ、されながら逝けるやつなんてなかなか居ないよ、きっと」

つい先程まで激しく動いていた彼女の肩は止まっていた。呼吸はできる。が、荒い。
ラーナーは男を揺れる視界の中で見つめた。ぼやけている。改めて見たその姿は、本当に普通の人と何も変わらない。右手のナイフを除いては。


さっきまで被っていた帽子は取っていた。そのおかげで、顔がよく分かる。
ぼさぼさの黒髪。汚れた瞳も黒だった。宅配便の専用服も脱いだようで、代わりに黒い上着を着ていた。前のファスナーは開けられていて、その中から灰色のTシャツが覗く。
見た目は20代の半ば、というところか。肌の色や皺があまりないことで、若さが伺える。
ラーナーは体の内面が冷たくなっていくのを感じた。走ったせいで頭はのぼせている。涙と走った汗と恐怖に対する冷や汗とで、彼女の顔はぐしゃぐしゃになっていた。


「怖がることはない。……すぐ、終わるから。一瞬で君の弟クンのところへ連れて行ってあげるよ」

「――ッ!」
ラーナーは鋭い睨みをきかせ、噛みつくように男を見た。


「なんで……なんでセルドを! どうしてこんなことするの!! あたしたちが……あたしたちは何もやってないのに!」
涙が滝のように止まることなく、彼女の瞳から零れ落ちていた。
表情だけはいくらでも変わるのに、体は動かなくて。焦がれる想いが溢れんばかりに満たされる。


その時、突然男はラーナーの目の前に右手のナイフを突き出した。月明かりに刀身が鈍く光る。ラーナーはひっとしゃくり上げ、怖気づく。
ナイフと彼女の顔との距離は目と鼻の先だった。ナイフがそのままゆらゆらと見せびらかすように揺れる。


「知る必要はない。君は誰に見られることもなく、闇に葬り去られる――そういう運命だった、ということだけさ」


刃の先がラーナーの透きとおるような白く柔らかい頬に当たる。ラーナーは目だけを動かし、それを見た。尖った感覚は冷や汗を呼んだ。
そっと横に動く刃。途端、鋭い痛みが彼女に走る。思わず目を咄嗟に閉じた。
薄い傷が頬に残っている。それはナイフの通った道を鮮明に浮かび上がらせている。

細い線から滲むように出てくる赤い血。ナイフにも微量の血が付いている。
男はナイフを持っていない左手でラーナーの傷を撫でるようになぞる。彼の指の皮膚は厚く固く、冷たかった。彼女は背中が跳び上がったような気持ちに襲われた。
彼の親指に少しだけ血が付いたのにラーナーは気付いた。それが彼女の血であることは、言うまでもない。



震え上がるような笑みが男からこぼれた。快楽。男はそっと親指の先についた血を舌で舐める。
ラーナーの心に、急に激しくサイレンが鳴り始めた。それは彼女の中の、危険信号。

暗闇、建物無き場所から覗く夜空、月を背に彼の眼は意気揚揚と光っているようにも見えた。
ラーナーは必死に体を動かそうとする。心臓が全力で走っているように脈を打つ。涙とともに零れる抑えきれない感情、声。


「動け……動いてよおっ……!」


もどかしさが体中を駆け巡る。自分の体ではないようだった。心だけが残ってしまった、電池の切れたロボットのよう。




「さて……と、そろそろこの世への別れの挨拶もすんだかな」
男はそう言い、右手を少し後ろに引く。刃の先がラーナーに真っ直ぐ向けられている。勢いづけるつもりのようだ。
しゃっくりをあげるラーナー。逃げたい、逃げなきゃ、想いだけが向こう側へと独り突っ走っていく。


風が吹く。湿気を多く含んだ生暖かい風だ。周りの木の建物が唸り、どこかの落ち葉が音をたてて宙を舞う。
月が黙って世界を見下ろしている。
男の口元が裂けたように笑う。




「さよなら、ラーナー・クレアライト。……恨むなら、君の母と父を恨むがいい」

「――え?」


突然彼の口から飛び出した思いがけない単語に、ラーナーは目を見開いた。
と同時に、彼の右手が動く。狙っているのは彼女の心臓。ラーナーは瞬時に強く目を閉じた。考えも何もかも爆発して吹き飛んだ。涙が一粒、落ちた。
















数秒、たった。
彼女は何も感じなかった。痛みは、ない。音もない。これが死というものか。あっけない。
恐る恐る瞼を開いた。そこにはさっきと同じ光景があった。ただ、時間が止まったように、ナイフは彼女の胸の寸前で、固まっていた。
しかし、少し振動している。微妙だが、少しだけ。


そして突如彼女の体が軽くなり、かと思えばすぐに重くなって、急に地に落ちるように倒れた。
何が起こっているのは彼女には分からなかった。ただ、体が動かせるようになったのは確かだった。


「…………」


男は無言だった。視線はラーナーではなく自分の右腕に向けられていた。
白いゴムで出来たようなロープが彼の腕を縛っていた。締め方が強く、血流が止まるのではないかと思うくらいだ。
ぴんと張られたロープの先に男は少しずつ視線を移す。それに合わせるように、ラーナーは目でロープを追った。

暗闇の中にロープは溶けている。しかし月明かりでその行方は微かながら分かる。男は目を細め、抵抗するように右腕を引いた。
ラーナーは息を詰めた。大きく見開かれた瞳には、見覚えのある人物の姿がぼやけながらも映っていた。


帽子の上の大きなゴーグル。下から覗く長めの前髪。その下で光る瞳。どちらも深緑。後ろ髪も男子にしては少し長めで、肩に少し付いている。
昼間に来ていた白めの上着は脱がれ、灰色の長袖のTシャツとまっ黒なズボンを身にまとっている。相変わらず見てる方を更に熱く思わせるような格好だ。
思い出される。脳裏に浮かび上がってくる、忘れるはずのない記憶。その瞳と今の瞳の光は違った。

冷たい闇が渦巻いているような目。それを見たら、あの時の瞳に少しでも優しさが宿っていたことに今更彼女は気付かされた。
吸い込まれそうになる。



「……間に合った」


少年はぼそりと呟いた。その声は誰にも届かず、独り言として闇の中に葬られた。
 


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