Page 13 : 旅立ち

 太陽が東の空から姿を現わしてから一時間ほどのまだ早朝の時間。詳しくは六時を少し回ったところ。
 鳥のさえずりも少しばかり聞こえてくる。可愛らしい鳴き声は心を震わせる。
 まだ人はさほど外には出ていない。が、休日を終えて平日となった今日は、もう少ししたら大人も子供も混じって道を歩くだろう。
 朝とはいえ日光に当たり続けていると自然と汗がにじんでくる。たまに吹いてくる風が涼しい空気を運んで来てくれるのが救いだ。
 ラーナーの住んでいるアパートから徒歩約一分というとても近い場所。
 住宅が寄り添うように立ち並んでいる団地の中の一つの家。レンガの暖かな壁の、大きいとはいえないがそこそこの大きさのある一軒家。
 そこには、二人の夫婦が住んでいた。
 姓を、エイリー夫妻といった。
 どちらも五十を過ぎた位の歳。とても仲が良いが、子供を授かってはいない。妻の方の体の関係だった。
 そして、ラーナーの住むアパートの管理人でもあった。
 そんな家の中に、今彼女はいた。

「こんな早朝に来るから、何事かと思ったけど……そう。あそこを出るの」
 エイリー婦人は白く花の絵が描かれたティーカップに紅茶を入れて、木の四角いテーブルに置いて彼女に差し出す。
 会釈をしながらありがとうございます、とお決まりの言葉を彼女は口から滑らせた。
 ミルクは今ないの、ごめんね、お砂糖はここにあるから、と言ってエイリー婦人はテーブルの真ん中にあった白い皿を寄せる。砂糖の入った透明のガラスの入れ物が上に乗っている。
 その後エイリー婦人は一度彼女の傍を離れ、彼女の正面にあたる椅子に腰かける。そして優しい茶色の瞳で彼女をそっと見た。
「はい。セルドが、……とても、遠くに行ってしまったみたいなんで。連れ戻しに行かないと」
 彼女、ラーナーは薄く笑いながら言った。苦しそうな笑顔だった。
 無理をして笑っているということに、エイリー婦人は気付いていた。ただ、敢えて何も言わなかった。言えなかった。
「もう出なくちゃいけないの」
「少しでも早く行かなくちゃいけないんです」
「そうなの……淋しいわね。あなたは私たちにとって本当の子供のような存在だったの。勿論、セルドもよ」
 エイリー婦人は自分のティーカップに右手を伸ばし、そっと口に運ぶ。
 婦人は茶色で肩まであるふわっとした髪をしていた。彼女の温厚な性格をそのまま表現しているように優しい女性らしい髪型である。
 窓から入る朝の光に包まれた部屋は先程からつけた冷房のおかげで、少しひんやりとしていて夏には丁度いい温度になっていた。
 紅茶を少し飲んでから、エイリー婦人は溜息をつく。温かな息と共に紅茶の良い香りが口の中から零れる。

「懐かしいわね……こうやって話すの、いつぶり?」
「さあ……言うほどじゃないですよ。お正月以来じゃないですか?」
「約半年じゃない。まあ、年寄りになるとあっという間になっちゃうんだけど。なんだか、あなたたちが小さい時の姿だってほんの昨日のことみたいに思い出せちゃうわ。覚えてる? 大雨の日の時、ほら、セルドとラーナーがレト川の近くで」
 婦人は喉を鳴らすようにククッと笑う。同時にラーナーの頬が少し赤くなる。
 レト川というのは、ウォルタに流れる川のうちの一つ。比較的浅いために夏になると毎日子供たちで賑わっているスポットだ。
「セルドが大雨なのにこっそり外に出てって、ラーナーが最初に気付いたよね。慌てて探しに行ったんだっけ。あたしたちも探して、ようやく見つけたときにはもうラーナーが見つけてたわねー。二人とも頭から足まで泥だらけだったからびっくりしたけど」
 はぁとラーナーは溜息をつく。
「川の近くに出来た大きな水溜りで二人して転んだんですよ。すごい雨だったから大変でした。ほんと、セルドが出なかったら……」
 自分の口から自然と弟の名前が出てきたのに自分で驚いた。そして同時に後悔する。名前を呼べば、また頭の中に思い出が駆け巡る。思わずラーナーの顔がかげってしまう。
 それを見たエイリー婦人は眉をひそめて、何か言おうとしたが、唇を紡ぐ。妙な緊迫感に襲われる
「……ニノやリュードがいたらそうはならなかったかもね」
 呟くようにエイリー婦人は言った。ラーナーは更に少し顔を俯かせる。けれど無理に頭を上げるとひきつったような笑みを浮かべて言う。
「エイリーさんには……本当に、お世話になりました。小さい頃から、色々と気にかけてくださって」
「いいのよそんな。あなたたち二人とも良い子だったから、何にも困らなかったわ」
 優しく微笑むエイリー婦人の顔を見て、ラーナーはようやく本来彼女がいつも見せる笑顔を顔に浮かべた。
 リラックスしたのだろう。婦人もその様子を見て、思わず安堵してしまう。
「部屋のことならいいわ。面倒なことはやっておいてあげる」
「すいません。最後の最後まで、迷惑ばっかりかけてしまって……」
「最後なんて言わないの。縁起でもないだから。――本当に行くのね」
 念を押すようにエイリー婦人は言う。まだ事が整理できていないのか混乱していることが伺える。
 ラーナーの答えは一つだった。もう心は決まっていた。栗色の瞳が強く光る。決意の光だった。

「はい」

 そんな瞳で言われたら、誰ももう止めることなどできない。
 エイリー婦人はふぅと浅い溜息をついた。いつの間にこの子はこんなに強い瞳をするようになったのだろう。
 行動力の良さも瞳の強さも父母にそっくりだった。彼女の親を知るエイリー婦人は、ラーナーを見ていると自然ともうここに居ない存在を思い出す。

「……ちょっと待ってて」
 そう言うと婦人は席を離れて、ブラウン管の大きなテレビの隣へと歩み寄る。そこには背丈の低い本棚があった。
 本棚の上には白い布が敷かれ、更にその上に様々な小物が置いてある。その中で壁にもたれさせている二つのものに手を伸ばす。
 二つの、モンスターボールだった。
 小さくなっている状態なので、二つとはいえど楽々右手の中におさまる。
 それらを少しの間だけ婦人は見つめて、振り返る。そして今度はラーナーの傍へと歩み寄る。
 ラーナーは不思議そうに婦人を見つめていた。婦人は優しい瞳でまっすぐにラーナーを見て、膝に乗せていた彼女の左手をそっと手に取る。
 温かな手にラーナーは心が休まる。婦人はそっと開かせたその中に、モンスターボールを二つとも置く。
 そして、婦人は両手で包みこむようにラーナーの左手を優しく握る。

「これは、あなたのお母さんとお父さんのものよ」
「!」
 ラーナーは驚いて目を見開き、思わず自分の手にあるボールを凝視してしまう。
「ずっと預かっていたの。いつか、あなたとセルドに渡そうと思って。――中には、ニノとリュードのポケモンが一匹ずつ入ってるわ。大切にしてあげて」
 ゆっくりとエイリー婦人はその手を離す。ラーナーの手の中に二つの命が残される。
 ボールはどちらも綺麗に磨かれていた。けれどそれでも消えない、無数の傷があることは触ればよく分かった。
 外からじゃあ何の生き物が入っているのかはまるで分からない。けれどラーナーはそれを婦人に聞こうとはしなかった。
「……ありがとう、ございます」
 絞り込むような声がラーナーの喉からこぼれてくる。
 やりきれない思いになったエイリー婦人は、そっと腕を伸ばし、ラーナーの体を抱き包んだ。
 突然のことに少し驚くラーナーだったが、嫌がってはいなかった。素直に受け入れ、ラーナーも婦人の体をそっと抱く。

 二人の温もりがお互いを包み込む。
 それは命のあたたかさだった。
 ラーナーは涙を必死に堪える。
 泣かない、ということも彼女がまた決意したこと。
 泣いてしまうと、思いと共に全てが吐き出されて、自分が見えなくなりそうだったから。弱い自分が浮き彫りになってしまいそうだから。

「また、帰ってきてね」
 そう言う婦人の声は、少しだけ震えているようにラーナーは思えた。ただ、何も言わなかった。
 少し間が空いてから、ラーナーは一回だけ頷いた。声を出したら泣いてしまいそうだったから。
 絶対に戻ってきたいと思うけれど。
 戻れない方が大きいということは、ラーナー自身がよく分かっていた。
 左手にある二つのモンスターボールを、彼女は強く握った。その手は小刻みに震えていた。
 ずっと、このままでいたいというどうしようもない願い。このまま時間が止まっていたらいいのにというどうしようもない願い。
 それでもほんの少しの間だけ。この大切な温もりを、体が、心が覚えていてくれますように。信じていない神様。それくらいはいいでしょう? ああ、零れてきそうな涙を止めてくれたら、もっと嬉しいです。
 心の中で呟く彼女の思いは誰に届くこともなく光る。

 長かったラーナーの綺麗な髪の毛。
 彼女が自分で切ったったがために散切りのボブスタイルになった栗色の髪は、彼女の決意の証だった。


 *


 誰もいない朝の墓場。夜なら恐怖も生まれてくるかもしれないが、日の光がある今は何も感じない。
 まだ冷えた空気が凛として肌に刺さる。これも時間が経つにつれて温く湿ったものとなっていくのだろう。
 目的の墓の前にクロは来ると、右手に持っていた赤い名前の分からない夏の花を差し出す。
 彼の前に墓は二つ。どちらの前にもたくさんのシロツメクサが置かれている。あまりの真っ白さに眩しささえ感じる。
 しゃがみ込んでその隣にその赤い花を置く。白の隣に置くと、やけに際立っている。これなら白い花を摘めば良かったと心の中で落ち込む。
 目立つのは嫌だった。
 立ち上がるとしばらく二つの墓を見つめた。
 クロは片方の墓に眠る者には一度も会ったことがない。ただ顔だけは写真で見たことがある。薄らとしか覚えていないが、優しげな顔つきをしていた。
 帽子の上につけている黒いゴーグルが太陽を反射し光っている。
 大きく口を開けて、欠伸をする。開けすぎて、口の両端に痺れるような痛みが走る。
「……ねむ……」
 深緑の瞳のすぐ下、薄いながらもクマができていた。
 結局折角宿をとったにも関わらず、そこで寝てはいない。朝になってから訪れて、キャンセル代だけ払ってまた出ていった。
 本当に眠い。瞼を閉じれば一瞬で夢の世界へ吹っ飛んでいける自信がある。瞬きがやけに重い。
 何しろ一晩中彼はずっとラーナーの住むアパートの屋上で、ポニータと交代しながら見張りを続けていたのだ。
 交代は一時間ほど。片方が見張っている間に、もう片方はひたすら寝る。一時間をただ重ねていった睡眠は、当然だが深くない。
 よって今も睡眠不足だ。

 もう一度欠伸をしようとする、その時。
 クロは欠伸をするのを忘れ、耳に入ってきた音に敏感に反応し後ろを振り返る。
 敵かもしれない、と思ったのだろうか。そして現れた者の存在に、思わず目を見開いた。

「……お、はよ」
 呟くような声で彼女、ラーナーは彼に向かって朝の挨拶をする。突然クロが振り返ったおかげで驚いたらしい。
 白い半そでの薄めのシャツ。更にその上に薄い灰色で下に長めののタンクトップ。胸元に大きなボタンが一つ、飾りでついている。
 濃く青いデニムのショートパンツを穿いており、黒いハイソックスと灰色のスニーカーを履いている。
 そして肩にかけれる青くて小さなボストンバッグ。 どう見てもちょっとそこらにお出かけ、というような荷物の量ではないことが鞄の膨れようから分かる。
 クロは呆然としていた。時間が止まったかのように口を少し開いたまま、動かなかった。
 空は白い雲が薄く張ったように伸びている。
 ラーナーはクロの視線が自分の頭に注がれているのに気づき、少し笑いながら自分の髪を少し掴む。
「切ってみた。……自分で切ったから変だけど」
 彼女の言っている通り、とても美容院のようなきちんとしたところで切ったような感じはしない。散切りで、量のすき方もなんだかアンバランスだ。
 風を受けて揺れる様子も、今はやはりどこか寂しく感じられる。髪を切っただけでこんなにも人の印象は変わるのかとクロは衝撃を隠せなかった。
 ラーナーは改めてクロを見ると、何かに気付いたように目を丸くする。
「あ、でもあなたも切ったんだね。ちょっとだけ毛先が」
「ああ……まあ。ちょっと焦げたし」
 その瞬間、ラーナーは少し吹き出してしまう。右手で口を抑え、体を震わせて笑った。
 クロは急に笑い出したのに驚いて、顔を赤くしながらもどうして笑っているのか分からず、動揺する。
「え、えっと……」
「ああごめんっなんか笑っちゃって……焦げたって……ははっ」
 ラーナーは口を押さえていた手を離し、そのまま右耳に髪をかけた。
 つぼにはまったのだろうがそろそろ彼女の笑いもおさまってきた。クロは複雑な表情をして、溜息をつく。
 今だに顔は柔らかく笑っているままで、ラーナーはポニータに近寄る。凛とした黒い瞳でポニータはラーナーを見つめる。ラーナーはその白い体毛の頭をそっと撫でてやった。
 気持ちよさそうに眼を細めるポニータ。炎がオレンジ色にゆらゆら揺れている。いつの間にかポニータはラーナーに心を許していたようだ。
 思っていたより動揺していないようで、クロは内心安堵する。まあ、それは表面上だけのことだろうけど。
 本当の心は、きっと暗くて深くて、もっと涙に溢れているはずで。

「あたし、もう今日ウォルタ出ようと思うんだ」
 ポニータを撫でながらラーナーは声を出した。張りのある声だった。
 少し下げていた顎を上げるクロ。ラーナーは一度腕を下ろし、真っ直ぐにクロの方に体を向ける。
「アパートのことは、知り合いに任せちゃった」
「……やつらのことは?」
 クロの眼の色がその瞬間に変わった。
「言ってないよ。危険な目に会ってほしくないし。……すごく、大切な人達だから」
 遠くの方を見るような目でラーナーは少し上を向く。空の方から涼しい朝の風が通り抜け、短くなった彼女の髪をなびかせる。
「セルドを探しに行くって言ってきたんだ。もう、いないって分かってるのにね」
 悲しそうな眼をするラーナー。思わずクロは絶句して、唇を噛みしめ顔を俯かせる。
 それを見てラーナーは困ったように笑うと、ニノの墓に歩み寄る。硬い石の物体を大切そうに撫でる。とても愛おしげに。

「で、さあ……ものは相談なんだけど……」
 急にもじり始めるラーナーに、クロは眉をひそめる。
 ラーナーは少し唇を噛んでいたが、決意したように急にクロの方を向く。クロは思わず身体を震わせる。
「一緒についてっちゃダメかな?」
 かなりの早口でラーナーは言い切る。普通の早口言葉並みのスピードで言われ、クロは一瞬耳を疑ってしまった。
 しかし聞き取れなかったわけではない。少し彼は頭の中で整理をする。数秒の間が空く。妙に気まずいような空気が彼等を包む。

「……はあ?」
 思わずクロから出てきたのは、そんな間抜けな声でしかなかった。
 ラーナーはそれを聞いて浅い溜息をつくと、睨むような強気な姿勢でもう一度クロと対峙する。
「一緒に行かせてって言ってるのっ」
「……お前、それが人にものを頼む態度か」
「行かせてくださいお願いします」
 ラーナーは少し苛ついているような声で言うと、即座にクロに頭を垂れる。
 まさかそんな態度に出るとは思っていなかったクロは、目を丸くしてあからさまに動揺する。
 ゆっくりと頭を上げるラーナー。ほっとしたようにクロは肩を撫でおろす。
 そして、ようやく心が静まっていき、二人の視線が絡み合う。重なるように生きる木々が音をたてて揺れ始めた。

「正直、一人じゃ、ちょっと……怖すぎて。ごめん、ほんと……自己中だってわかってるんだけど……」
 力無く彼女は笑った。話している途中から彼女の目がおびえているのも、体が震えているのもクロにはわかった。
 ラーナーから飛び出した本音は、昨日の夜の出来事を思えば当然の事だった。
 ポニータは軽く喉を鳴らすような声を出す。クロは目を細めた。

「どうしたらいいんだろう」

 ラーナーはぼそりと呟いた。本当に小さな声だった。そして同時に、今にも泣いてしまいそうな声だった。
 耳の良いクロは一字一句聞き逃すことは無かったけれど。
 薄い雲が太陽の下を通過する。同時に少しだけ日光が遮られる。気持ちほど涼しくなったような気分にさせられる。
 夏独特の、蝉の声が聞こえ始めた。この声は、アブラゼミの鳴き声だ。
 彼女の気持ちは彼はよく分かっているつもりだった。けれど、彼女の悲しみの大きさを彼は計ることができない。
 むやみな言葉は時に人を傷つけてしまうから、彼は分からなかった。
 今までにも何回かこんな気分にさせられることはあった。何を言えば彼女は笑ってくれるのだろうか。何を言えば彼女は傷ついてしまうのだろう。
 答えは見えない。

「……いいよ」
 考えている間に勝手に口から滑って出てきたクロの言葉。
 その瞬間にラーナーははっと顔をあげた。ポニータも今までラーナーに向けていた視線をクロに移す。
 風がやんで、木の葉の踊る音は聞こえなくなった。相変わらずアブラゼミは鳴き続けている。
 声を発した本人は、自分で驚いたような顔をしていたが、時間は戻らない。それに、それが本音だとも分かってる。
「いいって……」
「一緒に来ても」
「そ、そんなにあっさり決めちゃっていいもんなの?」
「別に……ポニータは見るからにいいって言ってるし」
 ポニータは軽く頷いた。
 ラーナーは未だに信じられない顔のままで口を開けている。
「ほんとにいいの?」
「……付いていきたかったんじゃないのか」
「そうだけど。本当についてくよ」
「好きにすれば」
 素っ気ない言葉ばかり彼からは出てくるけれど、ラーナーは気にしなかった。
 徐々に彼女の顔に笑みが広がっていく。空気が明るくなっていく。
「……ありがとうっ」
 彼女の心からの笑顔だった。とても輝いている顔がそこにあった。
 クロは息を詰める。頬の温度が凄まじい勢いで上がっていくのが分かった。
 それに気付かれてほしくなくて、クロは急いで隠れるように背を彼女に向けた。
「そうとなったら、さっさと行くぞっ」
「え、あ、ちょっと待ってよ」
 ラーナーは彼を呼び止める。しかしクロは逃げるように歩くのを止めない。ポニータは付いていっていないが。
 クロがどんどん遠くなるのに焦るラーナーは、それでも落ち着いて二つの墓を見やる。
 心なしか急いで手を合わせる。両目を閉じて心の中で必死に言葉を並べる。一方的な彼女から肉親へのメッセージ。
 彼女の耳から彼の足音が消えていくのがわかる。
 雲は太陽の下を通り過ぎた。影がこゆくなる。夏の暑さは時間が経つにつれどんどん本性を見せるだろう。
 青空が透き通るように眩しくなってきた。

 ラーナーはそっと目を開いた。
 ほぼ同時期くらいにクロの足音が止まる。少し遠いがまだラーナーの目の届くところにいた。
 ポニータはラーナーの背中を鼻で軽く押す。ラーナーが動くのを促しているのだ。
 軽く笑みを浮かべながらもう一度彼女は墓を見て、口を動かした。それは、先程彼女が亡き両親へ向けて送った一番大切な言葉。

「行ってきます」


 もう一度、戻ってきたいから。


戻る                                                       >>第14話へ                                                    

 

inserted by FC2 system