「ったく、お前、女が乗ってんなら寝ても何もしないのか」 クロは大きな溜息をついてからポニータに向かって言った。 あれからずっと歩き続けて、時に休憩を挿みながらいつの間にか太陽は西へ傾き、大分薄暗くなっていた。オレンジ色の光が赤々と周りを照らし、森に目を移せばまるで燃えているかのようにも見える。 西側には山が連なっている。この国、アーレイスの北西には、山脈があり夏になると登山客で賑わう。 彼の右にいるポニータの背中に乗っているラーナーは、つい数分前から夢の中へと旅立っていた。微かに聞こえる寝息は、女の子らしいというか小さく可愛らしいものである。 以前に説明したように、ポニータは背中にクロを乗せている時にクロが眠った瞬間、川に落としたという経歴がある。 自分は起きてずっと歩き続けているというのに、背中に乗っている人間は楽して眠っているというのが気に入らないらしい。しかし今はラーナーが眠っているのにまるで落とそうなどという気配はまるでない。どうやら女が乗っているなら話は別らしい。ポニータはふふんと鼻を鳴らした。 けれど返ってこの方が歩きやすいと言えばそうだった。ラーナーは歩いてすぐにばてる。歩き慣れていないのもあるだろうが、クロはそれに対して少し戸惑いと苛立ちを感じていた。 これでスムーズに進める、それは確実だった。まあ今日一日が終わってしまいそうだけれど。 「なあ、ポニータ」 クロは呟くように火の馬の名を呼んだ。ポニータは隣で歩くクロの方を見る。 再び溜息をクロはついた。そして目を閉じて気持ちよさそうに眠っているラーナーの顔を見つめた。 「これが……普通、の人間だよな」 彼は目を細めて言う。ポニータは彼をじっと見つめ、少しうつ向き気味になる。 “普通”という言葉が無意識に強調気味に発音されていた。 「いや、なんでもない」 首を軽く振りながら少し砕けた笑いをした。 ポニータは心配そうに目を細めた。クロはそれに気付いて、長い首を丁寧にゆっくりと撫でてやる。 気温は低下中だが風は相変わらず温いまま。揺れるポニータの炎は、柔らかく赤々と燃えていた。 「……なんか、変な感じがするな。こんな風に、普通の人と長い間いるなんて」 長いといっても共に歩き始めて一日も経ってはいないが。クロは軽く笑って、ラーナーの寝顔を見やる。 無防備なその姿は、昨日命を狙われていた人物とは思えない。よっぽど安心したのだろう。 「ニノはこうなるって分かってたのかな。だから、俺にあんなことを――」 瞬間、クロの表情が変わる。暗みが差し込み、恐怖に怯えたように目を見開いた。そしてそっと右手で左腕を掴みさする。自分で自分を落ち着かせているつもりなのだろうか。 左の長袖の袖が少しまくれる。若干でも見えたのは、生々しさの覗く赤にも似た黒い痕。 彼は大きく深呼吸をした。体全体で息をするように呼吸をし、鼓動を速める心臓を落ち着かせるように。 もう、昔のことだ。それに彼女はもうどちらにしたって死んでしまったのだ。心の中でクロは自分に言い聞かせる。 「……クロ?」 はっと目を見開き警戒した瞳でクロはポニータの背中に乗る人物を見た。 そこには怯えたような目でクロをじっと見つめているラーナーの姿があった。 冷たい沈黙が流れる。 クロの足が止まったのに合わせて、ポニータの足もすぐさま止まる。 数秒間ぶつかり合っていた視線を先に逸らしたのはクロの方だった。何かを嫌がるように顔を歪めている。 小さく声を漏らすラーナーは、自分が起きた時に見たクロの様子が気になって仕方がなかった。今だって明らかにクロの様子はおかしい。 「クロ、どうしたの?」 「どうしたって……別にどうもしてない」 「嘘。何考えてたの。顔色すごく悪いよ!」 「なんでもないって言ってるだろ! そんなに言うならついてくるな!」 相変わらずラーナーから顔を逸らしたままクロは叫んだ。その言葉に思わずラーナーは怯んでしまう。 その瞬間、クロの右足に鈍い痛みが走る。 「いっ」 思わず声をあげるクロの右足を、ポニータの足が踏みつけたのだ。脚力があるポニータの突然の踏みつけに、クロは痛みを堪えられずにはいられなかった。 クロは右足を急いで引っ張る。なかなか抜けなかったが、数秒後ようやく引っ張り出す。ポニータの足が音をたてて地面に沈んだ。 抜けた拍子でクロは後ろに尻もちをつく。いって、と声を漏らしながら踏まれていた右足をさする。ポニータは目を細くしてクロを見下した。 「ポニータ! お前、さっきからこいつの肩ばっか持って!」 「ポニータはクロが悪いって分かってるんだよっ。私、心配してるんだよ」 「はっ」 クロは言葉を吐き捨てて、足の感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。 「心配なんかいらない」 ラーナーに少し背を向けた状態で、呟くようにクロは言った。その背中が一瞬少しだけ小さくなったように思えて、ラーナーは息を止めた。 生ぬるい風が吹き、青い空に少し大きな白い雲が浮かんでいた。 ポニータの足が動き始め、立ち止まって少し俯いているクロの横をゆっくりと抜いていく。ラーナーは後ろを振り返ってクロを見つめた。暗い影が顔に差し込んでいるように、彼の表情は暗かった。帽子をしていることと今の時間帯が夕暮れであるゆえに、それは尚更そう見えた。 彼の名前を呼ぼうとしたが彼女は躊躇った。クロが自分から全てを遮断しているかのように思えたからだ。 ポニータの足は止まることなく歩き続けている。どんどんクロから離れていくのにラーナーは焦りを感じずにはいられなかった。 クロは気付いていないのかそれともどうでもいいのか、ただ立ち止まったまま頭の中でひたすら回るものに浸っていた。 確実に遠くなっていく彼の姿に、ラーナーは勇気を出して言葉を発した。 「……クロー?」 降りようとも思ったが、ポニータは止まる気配を少しも見せない。ゆっくりではあるが、確実に進んでいく足。 彼は名前を呼ばれても耳を貸さなかった。瞳にはラーナーの姿が映っていないようにも見えた。どこか違う、もっと空の向こう側を見ているような、そんな瞳だった。目の前の世界を彼は見ていないのだ。 「……ポニータ」 ラーナーは呟いて自分の乗るポケモンの名を呼んだ。一瞬ポニータは足を止めたが、目を閉じて首を振り、また歩く。ポニータの長いまつ毛が風に揺れる。 この状況に慣れているかのような素振りだ。静まった湖のような落ち着きがある。 「クロを追いてっちゃうよ、このままじゃ」 不安そうに言う彼女の声は確かにポニータの耳に届いている。 が、ポニータは何も答えなかった。答える術を持っていないのだ。ポケモンは高度な知能を持ち、人間の言葉がある程度分かっても自らがその言葉を口にすることは叶わない。それ故に、ラーナーにはポニータの考えていること、思いを理解することができない。 地面を蹴る音が耳に響く。 * 遠くなっていく音。風が髪を撫でては去っていく。 広い草原に一人、クロは佇む。その目には力が無く、微かな呼吸がかろうじて彼がこの世界と繋がっていることを示していた。全身の力は抜け、突風が吹けばそのまま抗うことなく倒れてしまうのではないかと錯覚するほどだ。 オレンジ色の太陽を反射して帽子の上にあるゴーグルを光らせる。踏まれた足の痛みはとっくの昔に消えていた。 頭の中で響く声。瞳の裏に移る色あせない映像。彼の心を切り裂くように掻き回し、過去へと連れ戻していく。それは遠い記憶。 『どうなってるんだ、こんな……』 『だめ、こんなところで死んだら』 『あのまま死んでた方が楽だったのかな』 『ふざけないでください! 何をするつもりですか!?』 叫びが聞こえてくる。 自分の声と他人の声とが激しく重なりあい、当時の風景が色鮮やかに蘇る。 今にも崩れそうな建物達。自分を引く手。氷のように冷たい床。その中で少しだけあった笑顔。衝撃と決心、ただ走り走り休むことなど無い。 『笹波白は死んだも同然なんだよ』 猛スピードで駆け抜けていくそれが終盤に差し掛かったころ、クロは目を細めて唇を小さく動かした。 「……死んだんだ。笹波白は」 クロは言葉を噛みしめるようにゆっくりと呟いた。 右手で左腕を痛みを感じるほどに強く握った。下唇を噛みしめると、舌に血の味が流れ込んできた。 力の宿っていないその瞳を、そっと瞼が世界から隠した。 あの頃に戻りたいとは決して思わない。けれど、過去を忘れることはクロには出来なかった。過去を隅々まで思い出そうと思えば思い出せるが、それをしないのは彼が過去を拒絶しているから。それでもふとした拍子に雪崩のように襲いかかってくるのだ。 刻み込まれた日々の記憶は彼を今もなお縛り付けている。 バハロをまだもう少し先に控えた頃、夕日がもうじき山の向こうに落ちようとしていた。 |