ラーナーは心地よさそうな寝息をたてていた。青い寝袋のすぐ傍にはポニータもいる。ぐっすりと寝ているようだ。 焚火はとっくの昔に消えた。煙も立っていない。音も風もない朝の世界。 ラーナー達とは少し離れたところにある一本の木に寄り添って、クロは一人顔を俯かせていた。 視線の先には、手に握られた黒いボディのポケギアがあった。トランシーバーでも持つように、顔にかなり近い位置である。 溜息の混じった声がポケギアから発せられる。電話をしているようだ。 相手の声は男の子の声だった。変声期をまだ迎えていないようで、少し幼さのある声がスピーカーから出てくる。 『はいはい。でも分かってるだろ。やりすぎは体に毒。中毒症状になっても俺は知らないから』 「そんなのにはならない」 『どうかな。というか、普通の人間ならもうすでにぶっ倒れてるレベルだろうから、そんなんじゃすまないかもな』 電話の向こうで喉の奥を鳴らすように笑う声がする。 『で、どうすんの。そんな調子じゃもうすぐ切れるだろ』 「今バハロに向かってるから、近いうちに向かうことになると思う」 『まあ、それならいいよ。死んでもらっちゃ、せっかくの金づるが消えちゃうからな』 「……お前、一応俺は客だって分かってる?」 『なんだよ今さらだろ。兄弟みたいなもんなんだから気にすんなって』 ふぅとクロは息を吐く。柔らかな風が吹き、頭上に茂る葉が大きく揺れる。 思わず上を見上げ、目を細める。若々しい緑の色だ。夏を感じさせる鮮やかな緑。一枚一枚の葉っぱの動きを見るように目を離さず沈黙が続く。 彼が言った後しばらく沈黙があり、スピーカーの向こうで何かを探るような音がする。 時々何か重いものが一気に雪崩れ落ちたような音もクロの耳に突き刺さり、思わずクロは口元を歪ませた。 『……いんや、悪いな。何も情報はないよ』 その言葉を聞いた後、クロは唇を少しだけ噛みながらも、乾いた笑みを浮かべた。 「そうか。じゃあいいよ。引き続きよろしく。そろそろ切らないと、ポニータが起きそうだ」 少し遠くのラーナーとポニータが寝ている場所をちらりと見ながら彼は言った。 悪いな、ともう一度小さく言う声が彼の耳に届いた。こういう返事だろうなとクロは内心思っていたから、そこまでショックではない。 「ん?」 また沈黙が訪れる。電話では相手の表情が見えないから、沈黙の間にどんなことを思っているのかが全く読めない。 だからクロにはただ、電話の向こうの彼が口を開き言葉を待つしかやることはないのだ。 数秒してから声が聞こえた。 思わず息を呑んでしまうクロ。突然どうしたんだよ、と苦笑しながら言おうとしてやめた。 その声に真剣な重みがあったからだ。それを笑うことなどできない、許されない。 「ああ」 低い声だった。顔が少し俯いていたせいで前髪が大きく顔にかかり、彼の表情はよく見えない。 じゃあなと声をかけて電話の通信を切った。ぶつりという音と共に相手の声は聞こえなくなった。 しばらくポケギアの小さな画面をクロは見つめていた。アラン、という文字がその視線の先にある。 瞼を数秒閉じながらポケギアを腰に付けている黒い小さな袋に入れる。そこには火閃も入っているが、一緒に入れているようだ。 木の陰から出る。太陽の光が異様に眩しく感じられた。クロは一つ軽い咳をして、ゆっくりと草原を踏みながらラーナー達の場所へ向かう。 ラーナーとポニータが起き次第出発しよう、そう思いながらクロは小さく欠伸をした。 * 「あ、何か家が見えてきたよ!」 ラーナーはいきいきとした声で言う。指差した先には、古びた町があった。 ウォルタの少し西にある小さな町だ。 観光ができるといえる場所はほぼ無いに等しく、観光客は年中を通してほぼ皆無。 古びた建物が身を寄せ合うように固まっている住宅街。中に住んでいるのは大体がお年寄り。 かつては比較的栄えていた商店街も今ではシャッター街というなんとも切ない風景になってしまっている。 利便さは欠けるが静かという点では住む人々に優しく、住民達は住宅街の外れに作った畑などで老後の生活を楽しんでいるらしい。 都会の華やかさとは大きくかけ離れたその町では、黒の団のような裏の人間も住んではいない。そこをクロは知っていて、バハロを次の目的地に選んだのだ。 広い草原の道から家が点々と出てきた程度の道になっただけでは、風景も大して変わらないし精神的にも体力的にも苦痛だったのだろう。 空は青く、太陽は高い場所に上がっている。遠くに目を移せば遠くには大きな入道雲。 ラーナーは暑そうに髪を軽く手で揺する。帽子をしているクロとは違い、長時間夏の日光がラーナーの頭に直射している。 乾いた地面を蹴る音が響く。町にだんだんと近づいていき、ただひたすらに歩を進めているといつの間にか家の集落の目の前へと来ていた。 バハロと書かれた小さな看板の前に来るとクロは歩くのを止めた。それに合わせてラーナーとポニータも止まる。 クロはラーナーの方を見ると、口を開いた。 「多分安全だとは思うけど、一応様子を見てくる。ポニータは置いていくから、ここで待っててくれ」 「え、あ、うん」 急に話を振られたために流されるように返事をするラーナー。 クロはポニータによろしくな、と一声かけると帽子を一度かぶり直し、バハロの中へと歩を進めていった。 中に入ってから注意深く辺りを鋭い目つきで確認するクロ。耳を傾けつつ歩く。 本当に寂れた町である。歩いていてまるで人に会うことが無い。真昼だというのに。 皆家の中に入っているのだろうか。クロは一つの古い家を見るが、よく分からない。物音はほとんど聞こえない。静かな場所である。 と、ようやく一人曲がり角から現われる。しわが顔中にある白髪のお婆さんだ。腰を低くして手を後ろで組んでいる。 思わず目で追うクロ。お婆さんはクロの目の前に来ると、あらこんにちは、としわがれた声で挨拶をする。 クロは少し驚いた風に身体を震わせると、数秒後に会釈を返す。にっこりと彼女は笑い、クロの横をゆっくりと通り過ぎていった。 何だか拍子が外れたような気分にさせられたクロは溜息をつく。白くも古びた色をした小さな車が、少し危なげにクロの後ろから来る。都会ではもうあまり見ることのない古いモデルだ。 改めて強く思わさせられる。ここは田舎だ。 住宅街の途切れが見える。もっと先に視線を持っていくと田圃と畑が混在しているのが見える。そこに点々とお年寄りがいた。そういえば先程出逢ったお婆さんの手にも野菜の入ったビニール袋があったような、とクロは思い出す。 角で立ち止まったままクロは深呼吸をする。空気がどこか澄んでいた。クロは二度ほどバハロを訪れたことがある。ここは初めて来たときから何も変わっていない。 入ってからまだ十分も経っていないが、これ以上詮索することに馬鹿馬鹿しさを感じたクロは身をひるがえす。 その瞬間。 細めた目を凝らし対象のモノをじっと見つめ焦点を合わせる。そして彼の目にはっきりとソイツの姿が映った。 クロはやはり見間違いではなかったことに歯を食いしばる。 視線の先には、金髪の男の子がいた。 見覚えのある黒い上着に灰色のズボンを履いて、こちら側にゆっくりと歩いてくる。 その目は獣のような金色の瞳だった。普通の人間の目ではない。彼のことをクロは知っている。だからこそ分かる――黒の団だ。 クロは目を背け足音を立てないようにそっと足を動かし、神経を張りつめさせその場を離れる。ある程度のバハロの地図は頭の中にある。 その脳内の地図を信じ少し小走り気味に途中で角を右に曲がる。田圃が広がる場所の一歩手前だ。建物と建物の間の狭い空間。 足を止めることなく、後ろを振り返ることもなく、いつの間にか本気で走っていた。焦りが彼の中に芽生えていた。 路地裏は普段誰も通ることがないのだろう。道に落ちているゴミは埃を被っている。鼠が驚いて逃げる声がした。 彼の足は速かった。とても狭いところを走っているとは思えない速さである。 クロは唇を噛む。 多分安全だと思う。ラーナーにそうは言ったが、彼の中では百パーセント黒の団はいないと踏んでいた。過去二回訪れてその二回ともいなかった。 「くそ、しかもアイツかよ……」 独り言が漏れた。落ち着け、落ち着けと心の中で叫ぶ。走りながらまた曲がり、表通りに出る。明るい日光が目を刺す。が、それに戸惑っている場合ではない。 辺りを見ながらなおも走る。遅くなることはない。かつ人気も気にする。今のところ追手はいなさそうだ。 クロは走りながら目的の場所が目に入ったのを確認する。 白い建物の前でクロは足をようやく止める。洋酒を売っている小さな店だ。彼の肩は激しく上下している。 クロは息を切らしながらそっと扉を開ける。りん、という鈴の音が店内に響いた途端に洋酒の匂いがぷんと鼻につき、思わず顔をしかめる。 落ち着いたシックな雰囲気の店。バハロの中ではやけにおしゃれな店内だ。濃い茶色の木の棚にはたくさんの洋酒の入った瓶が並んでいる。 彼の知らない名前ばかりの洋酒だ。それはそうだ。洋酒などクロは飲んだことはない。 クロは顔を上げ、声のしたカウンターの方へ向かう。ぎしぎしという音が足元から聞こえる。 カウンターには白いタオルでせっせと机を拭いているひょろっとした男の老人がいた。 近づけば近づくほど洋酒の匂いが強くなる。クロが不満げな表情をしているのに気付いた老人は笑った。老人の手元のタオルは濃い紫色に染まっている。 「悪いね、さっきちょっとだけこぼしてしまってね。今拭いてるんだ。小さなお客さん」 「いや、まあいいんですけど」 クロはカウンターに手を置き、一瞬後ろに目を配るが人の気配はない。ほっとすると黒い椅子に腰かけた。 息は最早安定していて、心臓の鼓動も元の速さに戻っていく。ただ汗だけは噴き出している。額の汗を服の袖で軽く拭う。 老人は改めてクロを見ると、ほぉ、と感嘆しながら目を細めた。 「久しぶりだね。えーっと、クロ、フジナミ……だったか」 「……覚えてるんですね」 「まあねえ。ここに来る若い人なんて、君くらいなもんだからなあ。嫌でも印象に残るものさ」 「はあ。……そんなことより、ちょっといいですか」 クロは身を乗り出して、老人の茶色の瞳を正面から睨むように見つめる。 「ああやっぱり洋酒目当てではないんだね」 「当然です。お金ならそれなりにあるんで、いいですか」 せっかちだねえ、と老人は苦笑しながら洋酒くさいタオルを畳むと横に置く。 クロはリュックを背中から下ろし、それを隣の黒い椅子に乗せる。そしてリュックから黒く古ぼけた財布を取り出す。 中から二枚ほどお札を出して老人の前に出す。老人は少し驚いた顔をして、一枚手に取るとクロに差し出す。 「こんなにいいよ。大切なお金なんだから」 「あ、はあ」 クロは不思議そうに首を傾げながら老人と札を交互に見やり、おずおずとお札を受け取る。 さて、と老人は切り出すとお札を胸ポケットの中に無理矢理突っ込んでクロを見下ろす。 老人は目を細める。 クロの瞳は憎々しげに光っている。机に置いた右手の拳は強く握られていた。何もかも握り潰してしまいそうなくらいに。 ふぅと老人は息を吐くと、カウンターに置いていたグラスを手に取り、白いハンカチを懐から出してそれを拭く。 「昨日からさ」 「昨日?」 クロは思わず聞き返す。老人は真剣な顔で僅かに頷く。 「ああ、昨日の夜に。四人ほどかな。一人とても目立つ子がいるそうだ。子供まであんな組織に入っているとは驚きだよ」 「子供……」 クロは先程自分が見た金髪の少年を思い出す。自分より少しだけ年下ほどの少年。あどけなさの残った顔つき。 目立つ、というのは恐らくあの金色の髪に金色の瞳のことだろう。老人の言う子供は間違いなくあの少年のことだ。 「来てから二十四時間も経っていない。だから“どうして”という質問には答えづらいな。まだ何も分かっていない」 「そうですか。……じゃあ、調べといてもらえますか」 「やれやれ。骨の折れそうなことになりそうだけどねえ。まあ、ぼちぼちとやってみるよ」 「なるべく早くお願いします」 「……やれやれ」 溜息を少しだけつく老人。クロは机に肘をつき、顔の前で手を組み眉をひそめる。 先程見た少年の他に三人はいる。ラーナーの傍にはポニータがいる。ラーナーはブラッキーとエーフィを持っているが、彼女が戦闘を指示できることは期待できない。 ポニータがいればいざという時に逃げる事もできる。でもそうなれば、クロとラーナーがばらばらになってしまう。それはまずい。 クロは懸命に頭の中で考える。情報が少なすぎるのだ。下手に動けばあっちに見つかり、しかし早く手を打たなければ危険性は高まるばかり。 困ったことにラーナーと連絡は取れない。それが一番の厄介な点だ。 気持ちばかりがはやる。 |