Page 30 : 賭博

 日は完全に山の向こうへと落ちて辺りは暗闇に包まれている。市街地はまだ少し賑わっているだろうがオーバン家の前は沈黙を保っている。
 オーバン家の二階の端の部屋の明かりが点いている。アランの部屋であり今はクロも寝泊まりしている部屋だ。先日電気が点かなくなっていた事をエリアに指摘され、変えたばかりのところであった。
 ラーナーとアランが帰ってきてから数時間後、夕方のあたりでクロは帰ってきた。それからまた時間は経ち、部屋にはクロとアランの姿がある。
「本当に身体は大丈夫なのかよ」
 床に乱雑に置いてあった本を手に取っては本棚に戻しつつアランはクロに声をかける。
 ああ、とクロは頷く。そしてこれ見よがしに十冊以上の分厚い本を一気に持ち上げてみせ、アランの元へと持っていく。それを見たアランは複雑に顔をしかめ、溜息をついてからその本を棚に戻していく。
 足の踏み場も無かったこの部屋もようやく本来の姿が見え始めているが、凄まじい埃が撒き上がっていた。窓を開けているものの空気の循環は悪く、部屋にいるだけで鼻水が暴走しそうである。もっとも二人はこの空気に慣れたものなのか身体に異変はさほど起こっていない。
 クロは整然されている本棚の全貌を見やる。どれもこれも分厚く背表紙を見るだけで難しいことが手に取る様に分かる。クロは見てもさっぱりだろう。内容は様々なものがあるが根本は大して変わらない。医学関係のものだ。
 アランはガストンを師匠と呼び、彼の元で薬学を学んでいる。
 一見すれば家族のように親しんでいるオーバン夫婦とアランだが、実際のところ彼等に血の繋がりは殆ど無い。遠い親戚同士の関係である。それをクロは知った時ひどく驚いたものだった。言われてみれば確かに顔に似通ったものはあまりないが、それ以上に仲の良さが家族といえるそれだったのだ。
 本来医療系の技術を学ぼうと思うなら大きな学校に通うものだがアランには金が無く、今だってアルバイトをしてぎりぎり繋いでいるようなものだ。アルバイトの金は殆ど本などの勉強のために回し、一部はオーバン家に御礼のものとして贈っている。朝は早く昼はこの薬屋で働き夜はバイト。間の時間を使って勉強。身体は大丈夫かと尋ねるともう慣れたといつも笑ってみせる。それがアランだった。
 クロは身体をぐっと伸ばすと口を開いた。
「さて、掃除はこのへんにして、俺はそろそろ行くよ」
「本気かよやめとけ。俺は別にどうでもいいけどな、途中でガタがきてその隙にぼっこぼこに殴られたらラナちゃん泣くぞ。別に今日じゃなくたっていいだろ。まだ完全に身体が回復したわけじゃねえのにハードなことする必要はねえっていうかハードなことすんじゃねえ馬鹿野郎」
「もうこれ以上ここに長居するわけにはいかねえよ。さっさと出ていく」
「お前なあ」
 呆れた声をあげたアランは持っていた本を全て片付けると机の傍に歩いていき、一つノートを開き挟んでいた一枚のメモ用紙を取り出す。それを渋々といったようにクロに向ける。クロは一度アランの目を疑うように見やるとそれを受け取る。
「前に行ってた所とは別の場所だ。聞けばあそこは潰れたらしい。適当に詮索してみたらその手に詳しいお客さんが居てな。あっさり教えてくれたよ」
「……お前ってそういうの上手いな。ただのコーヒーハウスだろ」
「まっ神様が俺に授けてくれた唯一の才能ってやつかねえ。別にそんなん必要ねえんだけど」
「自分で言うなよ」
 メモ用紙を乱暴にズボンのポケットにしまうと、部屋の角に置いてあるクローゼットを開き中にかけてある黒いニット帽を取り出しそれを被る。その際深緑の髪が全部隠れるように丁寧にする。
 アランは引き出しを開き小さな箱を取り出すとクロに差し出した。途端クロは露骨に嫌悪感を表情に出す。
「ニット帽はまだ許すけどこれは嫌いだ」
 ぽつりと呟いてそれを乱暴に取る。渋々机の上に置いてあった伏せてある鏡を立てると、箱を開ける。中に入っていたのは青と白を基調としたコンタクトレンズのケースだ。
 その片方の蓋を取り中に満たした液体に浸っているコンタクトレンズを取り水分を切ると、人差し指に乗せ鏡をじっと見る。大きな溜息をついて鏡に映った自分の顔を見つめる。
 が、意を決したように指を使って左目を大きく見開き、そこにそっとレンズを乗せるように装着する。ゆっくり何度か瞬きを繰り返しレンズを安定させる。左目を改めて開いて右目を覆いきちんと着いたかどうかを確認すると、その目を細めた。鏡に映るクロの瞳は深緑から黒色へと変貌していた。同じ要領で右目にも付けて両方とも見た目は黒目となる。
 鏡を再び伏せるとアランの方を見る。アランは椅子に座ってその様子を少しにやけながら見物していた。
「いつ見てもおもしれえなカラコン」
「俺は嫌いだ。こんなの俺にはただの障害」
「それはお前だけだろ。それに緑の髪に緑の目なんて珍しすぎて相当目立つんだから一晩ぐらい我慢しろ」
 分かってるよ、とクロは適当に返事をして足元に置いていた自分の鞄を背負う。その後先程アランから受け取った用紙をポケットから取り出し目的地を再度確認する。ここからさほど遠い場所ではなく、市街地の端の方にある。少し人通りがありそうだが中心街に比べればなんてこともないだろう。それをまたしまい、今度はベルトに着けているポーチ、普段は火閃が入っているものの中身を取る。火閃は無く、代わりに入っているのは二つのモンスターボールだ。
「アメモースはちゃんと回収したか」
「ああ。こいつまたコイビトの所へ行ってた。毎度探すのに苦労させられる」
「ポニータも今はボールに入れてるんだろ」
「ああ」
 クロは話しながら二つのボールを手元で遊ぶように投げる。数秒後には飽きたように元の場所に戻した。
「おいクロ」
 半ば怒っているような、或いは気だるそうな声でアランはクロを呼ぶ。それに振り向いたクロはなんだよとぼそりと呟く。
「ラナちゃんにここに残れって言ったんだって? お前馬鹿だな」
 思ってもいなかった話題が飛び出してきてクロは身体を震わせ固まった。
 溜息を吐くようにゆっくりとアランは話し始める。
「仮に、もし、万が一ラナちゃんがここに残ることがあった時、ヤバい奴がここに来たら誰がラナちゃんを守れるんだよ。誰も守れねえよ。この家にポケモンはいねえしお前みたいに変な力があるわけじゃないし、ごく普通の一般家庭なんだよ。前に色々あった時何とかなったのはお前が居たからだろ」
 諭すような言い方でアランは話しながら、椅子を立ち上がる。殆ど同じ高さの目線がぶつかった。強く鋭い視線に思わずクロはたじろぐ。クロの瞳には迷っているような弱い光しか灯っていない。
 クロは過去の話を聞かされるのは苦手だった。どうしても縮こまってしまう。そこで感じるのは罪悪感。
 弱みを握るようだがチャンスだとアランは確信した。
「仲直りしてくれ」
「……」
「頼むから、仲直りしてくれ」
 クロを抑え込もうとしているように強く圧力をかけて言う。クロは遂にアランから目を逸らし、下の方を虚ろに見つめる。冷たい沈黙が流れ、アランはクロの返事を待つ。しかし一向にクロの口が開きそうな気配は現れない。時を刻む時計の音が部屋に異様なまでに鳴り響く。
 どれだけ時間が経ったのだろうか、よく分からない。待ちきれなくなったアランは机を思いっきり叩いて沈黙を突き破った。クロは驚いて身をびくんと震わせた。これほどにクロが動揺を見せるのは珍しく、そしてアランが露骨に苛立っているのもまた珍しい。
「明日の朝、近くで休日にやる市場がある」
 唐突なことにクロは顔を顰める。すぐに頭を整理し何のことを指しているのかは分かった。以前自ら赴いたこともある市場だ。朝にも関わらず多くの人で賑わい、人混みが苦手なクロには少し心を狭くさせるものがあった。
「ラナちゃんにも言ったんだけど、そこで仲直りしてくれ。ちゃんと向き合って、今後どうするかは話し合って決めろ。勝手にお前が決めていいことじゃない。そんなの当たり前のことだろうが」
 気持ちの高潮を無理矢理押さえつけて静かに怒りを込めているアランをクロはようやく再び見た。
 すぐに返事をすることはまたもできず、しばらく熟考する。いや、クロの頭の中はふわふわと浮遊しているような状態で深く考えてはいなかった。考えるのを放棄して、早くこの部屋を飛び出してしまいたいという気持ちの方が今は強い。
 クロはアランに背を向けた。
「考えとく」
 呟くような言葉を残して、クロは窓枠に手をかけたかと思うと開かれた窓から外へと飛び出した。思わずアランは目を見開き窓にかけよる。
 下を覗き込むと何事もなかったようにクロは着地し、埃を取る為に軽く服をはたく。ほっとアランは肩を撫でおろすと少し苦々しげにクロを見る。それに気付いたようにクロは二階を見上げるとすぐにひるがえして歩き始めた。
 アランは深い溜息をついてその場にへなへなとしゃがみ込み顔だけを窓に出す。外は完全に暗闇に包まれていて、今日は星が綺麗な夜である。風も穏やかで過ごしやすい気温だ。夏は過ぎつつあるのだろうと察しがつき、少しだけ心が涼しくなる。
 時間は確実に進み、季節は巡っている。当たり前のことだ。
 本当に、当たり前の事だ。



 *



 トレアスの賑やかな町並みを抜けて、涼しい風から逃げるようにいつもとは違う黒い上着のポケットに手を入れて、クロは目的地を見渡す。
 耳に入ってくるのは籠った打撃音。荒々しさの中に歓喜のこもった叫び。尤も、敏感なクロの耳だから聞こえてくる音なのだけれど。
 少し広めの道に所狭しと並ぶ廃墟のような建物。実際殆ど廃墟だが、その中で声が聞こえてくるのはただ一つ。クロはそこに歩いていく。目的の建物は見上げれば三階建て程度のものだ。如何にも重そうな扉の傍には金髪の柄の悪そうな男の若者が立っている。鼻につく煙草の匂いは彼から発せられており、鋭い目つきでクロを睨みつける。が、クロはそれを軽くスルーした。
「おい」
 声をかけられてクロは仕方がなさそうに男性に目を向ける。クロよりも身長は二十センチ程高いため傍から見れば少し滑稽なものに見えた。
「てめえ、ここはガキが来るとこじゃねえぞ」
 脅しのつもりなのだろうがその声に迫力は無く、むしろ気だるそうなトーンである。
「知ってる。知ってるから来た。ちょっと荒稼ぎにな」
 少しにやりと笑うクロの顔を男性はじっと見つめると、その後くっくっと喉の奥で押し殺すように笑い始めた。そして無造作にポケットから煙草を出した。
「お前みたいなのは相手になんねえ。いや、相手にすらしてもらえねえかもな」
「ポケモンさえ持っていれば問題無いだろ」
「ただのカモだな」
「それはどうかな」
 男性は煙草にライターで火をつけてそれを口にくわえる。その匂いは慣れたものだがあまり好ましいものではなく、クロは顔をしかめたくなったがそこはぐっと我慢し表情を保つ。
 クロは扉に手をかける。一度引いてみるがどうも逆だったようで、すぐに押す。思っていたより重たい扉で、石の塊のようだ。少し体重をかけると開いた隙間から多くの人々の先程より大きな声が飛び出してきた。
「さっさと入れガキ」
 大量の声にかき消されそうな男性の言葉がクロの耳に届いて、言われたようにすぐに入る。

 中は狭くそして見た目通り古い。埃が宙を舞っているのか鼻が少しだけ騒ぐのをクロは感じた。
 声の在りかを探すようにクロは辺りを見回した。ほぼ真っ暗に等しいが小さな窓から覗く月光で辛うじて障害物の所在ほどは感知できる。と、クロは正面二メートルほどの部屋の右端に地下へと続く階段を発見した。
 まっすぐにそこへ向かい階段下を見下ろす。下は暗くてよく見えない。何段あるかすらもよく分からない。自然と息を止めながら探る様に階段を一段一段慎重に降りていく。それは思っていた以上に長い長い階段だった。が、そのうちにようやく地下の間へと辿りつく。階段を降り切った所には扉があり、些細な隙間から僅かに光が零れている。そして耳に障る歓声。間違いなく目的の場所はここだった。
 クロはドアノブをそっと捻る。瞬間一層声の量が増し空気がびりびりと伝わって、まずそれに酔ってしまう。明らかに気分を害されたように表情をしかめ、部屋の中を見渡す。
 そこは広いフィールドだった。小さな扉からは想像もできない。天井の高さは今まで降りてきた階段の段数の多さを納得させる。面積もそこそこな広さで、そこに人がざっと数えて三十人ほど。そしてやはり目についたのは、その部屋の中心に当たる場所を広く使ったポケモン同士の戦いだ。今戦っているのは炎を体現したようなブーバーンと全身が眩しい黄色の刺で覆われているサンダース。が、優勢なのは明らかにブーバーンで、サンダースは必死に立っているがその足は震えていた。痛みが酷いのだろう、前足からは血が流れている。
「とどめだ、火炎放射!」
 嬉々とした野太い声が響き、その瞬間バトルフィールドにいるブーバーンの口が大きく開くと、次の瞬間炎の柱が口の中から吐き出されサンダースに真っ直ぐ突き刺さる。ふうんとクロはその戦いぶりを傍観する。サンダースは悲鳴を上げて力強い炎に押されるがままに吹っ飛び、壁に叩きつけられた。サンダースのトレーナーが唖然とする。サンダースは力無く床に崩れ落ちた。
「ははっこれで九連勝だ!」
「くそっ」
 くっきりと分かれた両者の顔色。
 場に出ていたポケモンがそれぞれボールに戻されると、フィールドの傍に立っている、周りとは一目置いたような小奇麗なスーツに身を包んだ男性が動く。彼の周りにある机の上には金の札が積まれていた。二つに分けていたそれらを一つにまとめる。

 ここは賭博場。
 ポケモンバトルを使ったカジノ。
 この国アーレイスを含む世界でポケモンバトルは基本的に“スポーツ”として扱われている。そして、金が関わることは基本的に禁止されている。勿論プロが参加するような公式大会になれば上位選手に賞金が贈られることはあるが、賭博などもっての外である。今まで同じようなことで検挙された例が世界でいくらかある。けれど無くならないのが実情だ。実際こうして目の前で行われている。けれどクロにとってもこれは大切な収入源だった。旅をするのに当然金はかかる。賭博はリスクが高いが一気に大きな収入を得る可能性もある。それがクロの目には魅力に映り、ずっとそうして稼ぎながら旅を続けてきた。今更禁止されていることに参加することに後ろめたさなど感じていない。

 ブーバーンの使い手がスーツの男性の元に寄り自分の手に入れた金を数えている。その間にクロはちらりと右に横目を流して一番近くにいた小太りの若い男性の元に寄る。
 足音に気付いた彼はクロを見た瞬間まずぎょっと目を見開く。
「ここルールとかあるの?」
 構うこと無くクロはさらりと話しかける。
「は?」
「だからここルールはあるの? 何匹使うのかとかシングルなのかダブルなのかとか」
 少し呆然としたように男性はクロをじっと見つめる。頭の中を整理しているのかしばらく何も言わない。クロの苛立ちがつのる。
 どこに行っても大抵最初はこうである。大人達に混じって臨むクロの小さく細い姿は珍しく、まず驚かれて馬鹿にされる。その後実力で黙らせてきたのだけど。ただこういう状況になる度に気分は淀む。
「別にない。バトルする度にその場で決める……お前戦うつもりか?」
「そうじゃなかったらここに来るわけないだろ」
「まじかよ。はははっ! おい聞けよ、ガキが参戦しに来たぜえ!」
 小太りの男性はその身体から叫ぶような大きな声をあげた。その声は当然室内に響き渡り、部屋にいる人間の耳に跳び込む。皆クロを見た途端にどよめき、そして笑いが誰かから起こると連鎖するように部屋中に嘲笑の声が満ちた。
 さすがにクロは眉をひそめる。
「お前ガキのくせにポケモン持ってんのかよ! それにここで賭けれるだけ金があるのか? お坊っちゃんか? ハハッ」
 わざとらしく顔を覗き込んでくる男をクロは不快気に睨み付けると、頭が痛くなりそうなくらいに大きなからかいの篭った笑いの中で一つボールを出した。その途端誰かが甲高い口笛を吹いてみせる。歓迎ではないのは承知である。指をさしてくるのが目に入り、本当に居心地の悪い空間だと心の中でクロは溜め息をついた。
 クロはフィールドの側に座っているスーツの男の元に向かう。スーツの男はクロを不審そうな視線でとらえ、右手をクロに差し出す。何かを要求しているようだ。その何かが何であるかは簡単に想像がつく。賭ける金だ。
 黒い上着のポケットに手を入れて、適当に探り当てた枚数の金をクロは机に叩きつけた。その瞬間スーツの男と、傍にいた先程戦闘を終えたブーバーンのトレーナーは目を疑った。飛び出してきた金額をスーツの男は慌てるように数え、確認した後にクロを見やる。クロの表情はいたって平常である。
「オイオイ、ガキのくせに無駄に持ってやがんなあ。むかつくぐらいだ」
 ブーバーンのトレーナーは顔を少し引きつらせて言葉を吐く。
「相手してよ。一対一?」
 クロは少し笑いながら尋ねる。場の人間がまず耳を疑ったように空気が冷えた直後、巻き起こったのは野太い歓声。ただしやはり嘲ったもの。突然跳びこんできた挑戦者はまだ随分若い少年、迎え撃つは現在九連勝中の男。絵柄は随分と滑稽なようだ。
「いいや二匹だ。まあお前が一匹しか持ってないなら話は別だがな」
「問題無い。じゃあ二対二で」
 さらりと流したクロは勝手に自分の立ち位置へと向かう。

 トレーナーの立つ場所にクロはやってくると落ち着かせるように深呼吸をした。傍観するようにフィールドを広い視野でとらえる。目の前の線で区切られた空間は神聖な場所であるかのように誰もいない。もう間もなくそこで戦闘が始まる。心に沸き立ってくるのは興奮、衝動。彼をかきたてる。口元が少しだけ上がる。
 クロの相手も位置につくと、にやりと笑いながらボールを投げた。クロはその途端眉間に皺を寄せる。
 ボールから飛び出してきたのはブーバーンではない。白くフサフサとした大量の毛が顔を包み、手は大きな葉の団扇であるダーテングだ。大きな口から威勢のよい叫びを上げ、その瞬間一気に会場のボルテージは上がる。
「ハンデだガキ、先に出してやるよ!」
 ハンデという部分を異様に強調させ、歓声の中でもクロに届くように叫ぶ。
 先程までのクロの興奮はどこかへ消え失せ、代わりに満ちるは苛立ち。クロの相手は自分の手持ちにブーバーンがいることをクロが知っていると分かっておきながら別のポケモンを出してきた。クロを舐めてかかっていることが明らかだ。
 クロは先に出していたボールをしまい、別のものを取り出す。中身を確認するように見てから上へ放り投げた。中から光が飛び出し出てきたのは大きな特徴的な触覚を持つアメモースだ。
 アメモースが出現した瞬間、目玉のような触覚に気圧されたのかダーテングは少し怯む。
 が、当のアメモースは威嚇などするつもりはなく、威嚇どころか戦闘に興味がなさそうに項垂れている。
「アメモース、面倒臭がるな! 今日が終わればしばらくまた戦わせないからさ!」
 恨むような目つきで振り返ってきたアメモースにクロは声をかけた。
 クロのアメモースは戦闘をあまり好まない。好戦的だった時期もあったが今はまるで違う。原因はクロのアメモースの恋愛相手であるトレアスに住む野生のアメモースだ。最初に出会った時に何故か喧嘩になり戦ったが意外な強さに負けてしまい、それ以来自信を失ったのか戦闘を面倒臭がるように避けるようになった。酷い時には戦闘を放棄してどこかへ飛んで行ってしまうこともある。だからクロはこのように本当に必要な時以外はアメモースを戦わせなくなった。
 はぁとアメモースは溜め息をついた。やる気がまるで感じられない。きっと戦闘本番になれば気合も入るだろうという期待を持ちながらもクロは肩を落とす。

 タイプだけを見れば優勢なのはアメモースだ。けれど周りの観客はアメモースが勝つとは思っていないのか、アメモースに見下したような台詞を口にする。もしもこの場に虫ポケモンを好む子供でもいたら虫を馬鹿にするなー! と怒りを叫ぶだろう。
 視線を外に向ければ場外でも賭けが行われているようだ。が、クロの方に賭けている者はいるのだろうか。いなければ賭博は成立しない。
「始めようか」
 クロは溜め息をついてから声をかける。
 スーツの男性がやる気なさげに右手を挙げたのが見えた。彼は審判も兼ねているのだろうか。
「ダーテング、猫騙し!」
 相手がそう叫んだのとほぼ同時にダーテングは強く地を蹴るとあっという間にアメモースの元に跳びかかり、二つの葉の団扇を思いっきり叩き合わせた。その瞬間何かが張り裂けるような凄まじい音が弾けた。同時に巻き起こる強い風。アメモースは風圧に耐え切れず上空へ吹き飛ばされる。突然の攻撃に反応できずアメモースの体は動かない。
「触覚を広げろアメモース!」
 クロの叫びが耳に入った時、アメモースは風で閉じ気味だった目を見開いて触覚を広げた。何とかバランスをとる。風も少し和らいで壁にぶつかるという事態は回避する。
 アメモースは四つの羽を動かし上空へと舞い上がった。その瞳に強い光が宿る。猫騙しで目が覚めたかのようだ。クロはにやっと笑う。
「蝶の舞」
 クロの宣言と共にアメモースはゆっくりと飛びながら回転する。羽と触覚が風に流れるように揺れ、空中でゆったりと踊っているようだ。そしてその舞は少しずつ速くなっていきながらアメモースは地上へと飛行する。
「ダーテング、騙まし討ち」
 ダーテングは一度手の団扇で大きな風を起こしアメモースの飛翔のバランスを崩す。そして向かってくるアメモースと対峙するように跳び上がった。少しアメモースの軌道とはずれ、体を捻る。右手を使った裏拳を狙う。
「回転してエアスラッシュ!」
 少し傾いた体を無理矢理捻り、触覚と羽が大きく羽ばたいた。飛び出すはダーテングの作り出す広がる風とは違い、小さくも鋭い風の刃。それが四方八方に走った。当然ダーテングは避けられずそれを食らう。が、もう既にアメモースに接近していたため、風の刃を振り切るようにアメモースの小さな体を右手の裏で殴った。体重が軽めのアメモースは横方向へ真っ直ぐ飛ばされ、壁に激突した。一方のダーテングも地にうまく着地できず転がり落ちる。
 エアスラッシュによって体に切り傷ができたダーテングは少しよろけながら立ち上がる。ダーテングのトレーナーは眉をひそめる。彼が思っていたよりダメージは大きかったようだ。
 アメモースは壁を蹴って再び飛ぶ。まだ安定して飛べている。クロは胸を撫で下ろす。
「もう一度蝶の舞だ!」
 空中を乱舞するように飛ぶ。くるくると廻ったり触覚を大きく広げたりしながらまた加速していく。目の錯覚か、アメモースの周りを小さな光の粉が舞っているかのようだ。それほどに洗練された美を踊る。
 しかし今は戦闘中。それに見惚れるような状況ではない。
「痺れ粉!」
 クロは叫んだ。途端アメモースは舞をやめ、素早く触覚を一度畳んだ後に花開くように広げた。金色に煌く粉が精製され、空中を飛び回りそれが地上へと粉吹雪のように降り注ぐ。
「ダーテング、返してやれ! 風を起こすんだ!」
「こっちもだ、銀色の風!」
 トレーナーの指示通り、ダーテングはまず腕を大きく広げるとその両手を思いっきり内側へと降った。瞬間、轟音と共に凄まじい風が爆発した。
 負けじとアメモースも痺れ粉を降らせる体制から一転、触覚と羽を後ろに反らせると一気にそれを羽ばたかせた。銀色の輝きを携えた風が巻き起こる。
 両者の作り出した風が激突し、部屋中を巻き込む大きな風がまるで火山が噴火したように暴れまわった。辺りから悲鳴が飛ぶ。クロは帽子を押さえて髪が出ないようにする。あまりの強い風に耐えるのが精一杯で、目も開けていられない。
 痺れ粉による金色と風の銀色とが交じり合い、それが乱舞する。が、アメモースによる銀色の風の方が強い。銀の光がそれを物語るように部屋を掻き毟る。
 少し風も落ち着き始めた頃、クロはようやく目を開いて上空を見上げた。アメモースは大きな風のエネルギーに煽られていたが体勢をぎりぎり保っている。耐久力もあげる蝶の舞の効果が表れていた。
 対するダーテングは風に押され、手を地に付け耐えている。痺れ粉は辺りに吹き荒れて散り散りになり効果がほとんど薄れてしまったが、チャンスだった。
「電光石火!」
 クロが叫んだ瞬間アメモースはまだ暴れている風の中を安定してまっすぐ突き進んだ。そのスピードは目にも留まらない。距離があったにもかかわらず一気に間合いを無くし、ダーテングに激突した。出発点が高い位置であることにスピードが上乗せされ、ダーテングに重く鋭い攻撃が圧し掛かる。その大きな身体がふらりと揺れた。
 しん、と音が完全にやんだ。
 誰も息を呑んで声を発さない。
 アメモースが軽く羽ばたいてダーテングを見下ろす。土煙が少し漂っている中で、ダーテングは何とか立ちあがろうと震えるが、もう限界であることは誰の目にも明白である。
 そして沈黙の中で、重い石が地上に落とされたような太い音が響いた。
 ダーテングは立つ力すらも失い、その場に伏した。

 予想もしていなかった事態に、周囲は少しずつざわつき始めた。ダーテングのトレーナーは自分の目を疑いしばらく立ちすくしている。

「早く戻しなよ。使用ポケモンは二匹だろう」
 少し楽しそうにクロは小さな笑窪を作って言い放った。その言葉で夢から帰ってきたように相手ははっとすると、顔を歪ませてダーテングをボールに戻す。
「調子にのんじゃねえぞ! いけ、ブーバーンッ」
 投げられたボールから再び姿を現したブーバーン。腕の先から炎が飛びだし、その口から吐く息すら燃えている。気合は十分、破壊力は言うまでも無い。さすがにクロは身を固くする。
 アメモースはブーバーンの発する熱を嫌がるように少し地上を離れた。
 先程とは一転、不利なのはアメモース。タイプの相性は勿論、アメモースはダーテングとの戦闘で体力を削られている。
「ブーバーン、煙幕!」
 指を突き出したトレーナー。ブーバーンは体勢を低くして腕を前に突き出した。そして腕の先からは炎の代わりに黒い煙が勢い良く噴出された。一瞬でブーバーンは見えなくなり、数秒後には視界が完全に黒に遮られる。クロは口を思わず押さえたがすぐに離す。
「アメモース、煙幕を吹き飛ばせ!」
 アメモースの姿はクロから全く見えないが、アメモースの耳にはクロの命令が届いた。羽根を素早く羽ばたかせ一気に煙幕を一掃する。
 が、煙幕を払った途端にブーバーンがその中から跳び出してきた。アメモースの起こす風などもろともせず、脅威のジャンプ力でアメモースのところまで来た。気付かなかったクロは目を見開く。
 大きなその腕をブーバーンは振りあげた。アメモースは羽ばたきを止め、咄嗟に避けようとした。その重い腕が振り下ろされる。次の瞬間、若干かわしたアメモースだったが大きな触覚は捉えられ、地上へと一気に叩きつけられた。クロは素早く腰に手を回し二つのボールを取りだした。
「決めろ! 大文字!」
「バトンタッチ!」
 二人の声が重なる。アメモースは目を見開くと痺れ、痛む身体を無理矢理動かし飛んだ。クロは開閉スイッチを押した二つのボールを突き出す。片方からは白い光が、もう片方からは赤い光が飛び出した。アメモースは真っ直ぐに赤い光へ飛び込み包まれると、そのスピードのまま白い光に一瞬絡みついた。混じり合った二つの光は再び分かれ、アメモースはボールの中へ。代わりに姿を現したのはポニータだ。
 地上に着地したブーバーンは充填を完了させ、片腕から炎の柱が猛烈な勢いで噴き出した。その威力にブーバーン自身も少し後ずさった。炎は途中で五つの方向へ分かれ、それは正に大の文字を模した炎。
 ポニータは足に力を入れた。瞬間、身体が震える地響きを伴った大文字がポニータに直撃した。ポニータは炎に包まれ、姿が見えなくなる。しかしクロは慌てる様子も無く冷静にそれを見つめた。
 数秒後、炎が吸い込まれるように急速に消えていった。相手のトレーナーは息を呑んだ。ポニータは攻撃のダメージを全く受けていないのかぴんとしていて、それどころか背中に燃え盛る炎は一層大きくなり輝いているように見える。
「特性貰い火だ。ポニータ、煉獄!」
 ポニータは走り出した、かと思えば一瞬でブーバーンの元に辿りついていた。元々速いが、バトンタッチによってアメモースの蝶の舞の効果が継承され、スピードが上乗せされている。
 反応しきれないブーバーン。ポニータからすればブーバーンの動きはスローで再生されている動画のよう。その動きが手を取る様に分かった。
 ポニータの背の炎が暴れ、口の中からオレンジ色の炎が飛びだした。それはブーバーンを囲うようにカーブがかかる。炎が一気にブーバーンに跳びかかった。それを払うようにブーバーンは腕を振った。
「そんなものがなんだ! ブーバーン、雷パンチッ」
 ブーバーンの右腕に電気が走った。直後一気に増幅された電気エネルギーを腕に纏い、接近しているポニータに殴りかかった。咄嗟にポニータは顔を横に振り避けた。拳は止まらず地面へと激突しそこにひびが入った。喰らえば骨が数本折れる事は確実だろう。
 電気を装填しているのは右腕だけでは無かった。攻撃の最中に左腕も電気を纏い始めていた。今、充電が完了する。素早くポニータに振り下ろした。ポニータは今度は落ち着いて後ろに軽く跳んで避ける。しかしブーバーンの攻撃は止まらない。連続でパンチを繰り出してきた。それをひたすらポニータは避け、どんどん後方へと下がっていく。
 クロは目を凝らし、ブーバーンの様子を見守る。その時、ブーバーンの尾が不自然に鈍く光るのが目に入った。
「アイアンテール!」
 相手の声が響いた。その指示を予期していたようにブーバーンは即座に右に身体を捻り、硬化した尻尾を大きく振る。
「高速移動、左!」
 クロの指示は俊敏だった。そしてそれに応えるポニータは更に素早い。
 尻尾が振られなかった方へポニータは一瞬で駆けるとすぐに静止。丁度ブーバーンも振り返ったその瞬間、ポニータは後ろの足を高く蹴りあげた。鍛えられた力強い後ろ足が捉えたのはブーバーンの顔面。足が減り込んだ、直後まるで豆が弾かれたかのように巨体が転がっていった。ぎりぎりフィールドの枠で止まるが、その顔は歪んでいる。鼻血が止まらない上目も開けられてはいない。丈夫な足腰に加え、ポニータのひづめはダイヤモンド以上の硬さと言われている、凶器そのものだ。その衝撃は想像を絶するものがあるだろう。
「跳びはねる!」
 ポニータは少し助走をすると前足に力を入れた、かと思えば一気に跳び上がる。その高さは危うく天井にぶつかるのではないかと思うほどのもの。
「煙幕!」
 咄嗟の指示にブーバーンは大きく息を吸い込むと、電気エネルギーを引っ込めた腕を伸ばし先から煙幕を噴き出した。あっという間にブーバーンの周りが煙で覆われる。
 一番上の到達点に達したポニータは十数メートルの高度から煙幕の中へと急降下する。空気を切り裂いていくその速さは瞬く間に地上へと向かう。が、やはり煙幕に跳び込むのは不安か、少し軌道にブレがある。
「ブーバーンはまだ動いていない、そのまま行け!」
 クロは助言するように叫ぶと、ポニータは軽く頷いて底の見えない闇のような煙幕に突っ込む。刹那、強烈な鈍い音が破裂した。
 煙幕がポニータの軌道に沿って広がるように晴れると同時にポニータはブーバーンから間合いを取る。ブーバーンは相変わらず目を閉じたままその場に膝を付いていた。相手トレーナーは唖然とする。それは周囲の空気も同じであった。
 冷たい目でブーバーンを見つめるクロ。ブーバーンがまだ動こうと震えながら立ち上がる様子を見ると、右手を上げた。
「ワイルドボルト」
 ポニータは全身に力を込める。数秒後火花が散り始め、一気に電撃がポニータを包み込んだ。それを身体に纏ったままポニータは声をあげると走り出した。間合いなど瞬く間に詰めてしまう。
「雷パンチで応戦だ!」
「遅いよ!」
 その二人の声が飛んだ時、電撃を衣にした馬は標的に激突した。防御など取りようがない。ブーバーンの視界は真っ暗なのだから。
 ブーバーンは吹っ飛んで壁に激突した。容赦など欠片も無い攻撃に完全にやられ、そのまま力無く頭をうなだれる。

 気絶した様子をじっくりと見極めたスーツの男性は、息を呑んで腕を上げた。室内に重い沈黙が流れる。
 電撃が消え去るとポニータはクロの元に駆け寄った。クロは優しく微笑んで受け入れると、その白い身体をそっと撫でる。そしてその場を離れ、スーツの男性がいる所へと向かう。相手は金をまとめるとクロに差し出した。が、クロはそれを手を振って拒む。
「それ全部もう一回出す」
 途端、周囲がざわつきを取り戻す。明らかに動揺した様子で、それぞれ顔を見合わせている。
「次来いよ。俺に勝てば、この金全部手に入れられるぜ。ただし、それなりにそっちも賭けてもらわないと勝負は受けない」
 騒いでいる室内によく通る大きな声でクロは言い放つ。その口には不敵な笑みが含まれていた。


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