Page 31 : 理由

 騒動のあった一日は明け、いつものように朝は巡ってくる。
 清々しくひやりと肌に刺さる朝の空気を一身に受けて、ラーナーは透き通る青い空を見上げた。日光の暖かさが今は心地よいくらいだった。周りも静かで落ち着いている。休日だからまだ起床していない人もいるだろう。これから向かう朝市は少し早い時間から始まる。新鮮な農産物が並ぶとアランがあらかじめ話したが、ラーナーの故郷のウォルタには無かったものだから自然とラーナーの胸は高鳴っていた。勿論、心の中で光っているのは希望ばかりではないが。
 玄関口の扉が開いた音にラーナーは振り返った。まず目に入ったのは苛々した表情を見せているアラン、すぐにその後ろに手をひかれて出てくるクロ。旅の際にずっと被っていた帽子を身につけ、前髪にほとんど隠れている瞳は半分も開いていない状態だ。
「待たせて悪いなラナちゃん。くっそこいつ案の定まだ寝てやがった。ちゃんと俺は朝市の話をしたにも関わらずなんだこの意欲の低さは。お前そんなに寝なくても割と平気な体質じゃねえのかよ」
「うるさい耳に響く。人間だから睡眠意欲には勝てないこともある」
「はいはい文句は後で聞いてやるわけないからさっさと行け。これ買い物メモ。けっこう大量だからまあ頑張れ。ラナちゃんは朝市初めてなんだからクロ、お前がしっかりしろよ!」
 そう言って思いっきりクロの背中をアランは叩いた。叩くというよりは平手で殴ったという方が表現としてはやや正しい。爽快感すら覚えるような音が跳び、その痛さにクロは思わずその場にしゃがみ込む。無言の悶絶をするクロを無視してアランはそそくさと家の中へとまた戻ってしまった。
 あっという間に二人は取り残される。言い知れない気まずさが辺りを満たす。アランが二人のパイプラインを果たしていたことを実感させられる。
 クロは大きな溜息をついて未だに眠たそうな目で買い物メモに目を通す。小さなメモ帳のうちの一枚だが、アランの言った通りなかなか種類豊富に書き綴られている。朝市に売り出される食べ物は、普通のマーケットで売られるものと違って生産者と消費者が直接リンクする。生産者本人が売り出すため、売り専門の業者が間に挟まない分値段も安くなる。それを狙って早朝にも関わらず沢山の消費者が集まる。その人混みがクロは気に入らないのだが、今はもう戻ることはできない。
 ゆっくりとクロは立ちあがる。
「……行くか」
 その掛け声にラーナーは小さく頷いた。早足で歩きだしたクロの後を慌ててラーナーはついていく。


 *


 朝市はクロが予想していたよりも人が少なかった。というのもまだ始まったばかりだからである。もう少し時間が経てばどんどん人で溢れてくるだろう。
 トレアス市街地の中央にある市民会館に隣接した広場に所狭しと屋台やビニールシートが並び、そこで様々な食べ物が売られている。意気の良い声が辺りを跳び回り、それだけでラーナーは目が回りそうになる。あちらこちらで声をかけられ、慣れていない上にお人好しな部分もあるラーナーはその度に視線を行き交わせる。加えて人々の中にいることでぐんぐん上昇する気温が一層疲れを誘う。一方クロは勧誘の声に惑わされずに淡々と買い物を進めていく。どんどん市場を進むクロにラーナーはついていくだけで必死になり、会話など挟む余地は無かった。仲直りどころか、まともなコミュニケーションをとっているような会話は家を出てからまだ一度もできていない。
 クロの両腕は大きな紙袋で埋まり、ラーナーも少し持っている。疲労の一方で、鼻に香る乾いた紙の匂いがラーナーの心をささやかながら僅かに和らげた。
 沢山の物が入ったクロの紙袋にまた一つ何かが入って、ふぅと彼は息を吐いた。その表情には少なからず疲労が見えている。
「大丈夫?」
 思わずラーナーは尋ねる。荷物をもう少し持ってあげるべきだろうかと思いつつも、クロの持っている荷物を自分が持てるとはとても思えないほど、見た目からして重量感がある。巨大な米袋を一つずつ両手で持っているよう。
「別に、これくらい」
 ちらと話しただけでまた会話は終了する。確かにそれほど苦労しているようには見えないが、少し前まで歩くのすらままならない状態だったというのに、いつの間にここまで回復を遂げたというのか。
 額からたれる汗を拭うラーナーをちらりとクロは見やると、肩を落として辺りを見回す。と、あるものに目を止めた。方向を少し転換して、行き交う人の声を潜り抜け、市場の少し外れになると若干寂れたように店の数が減少する。背後に騒ぎ声を残して、クロが向かった先は朝市が開催されている広場の端にある木のベンチ。ようやく休憩だと悟ってラーナーは安堵する。丁度良く今は建物の創り出した影がかかっていた。
 クロはベンチの向かって右側に荷物をまず一つ下ろすと、その重みでベンチが悲鳴をあげる。クロは少し静止してからもう片方の荷物は仕方なさそうに地面に置いた。
「座ったら。疲れたんじゃないの」
 ぶっきら棒にクロは言うと、ラーナーは少し縮こまる。威圧感のようなものがクロから発せられていて、座れと命令されているかのような口調にラーナーは感じ、そっとクロの置いた荷物とは反対側に座る。その瞬間ラーナーに足の痛みが雪崩れ込み、頭に熱があっという間に上ってきた。肩の荷が一気におりるようにラーナーはほっと息をついた。
 クロも身体の緊張を弛緩させるように背伸びする。日陰の中に入ってくる風は冷たくて心地が良く、雰囲気を自然とクールダウンしていく。視線を上げて見える空は青く、朝の太陽が輝いている。忙しいが爽やかな朝のスタートとなっている。
 しばらく沈黙が流れる。ラーナーは持っていた荷物を自分の左隣に置く。その後、クロがようやく座った。その距離は荷物を挿んで近いようで少しだけ遠い。けれど、本当の狙いである仲違いの解消をするためには、他に機会はない。気まずい雰囲気の中で互いに言葉を探す。
 こうしている間にも朝市にはまた人が入っていき、一層騒ぎは大きくなる。家族連れも多く、子供達が見ていてハラハラするほど走りまわっている。楽しそうな声が空を跳ねまわる。
 クロ、とラーナーは呟くように小さな声で呼んだ。クロは小さく返事をした。
「……火傷のこと、ごめんね」
 呼んでから数秒置いた後にラーナーはゆっくりと噛むように述べる。
「無神経だったと思う。ごめん。隠したいに決まってるのに、問い詰めようとして」
 クロは視線をようやくちゃんとラーナーに向けて、大きな溜息をついた。
「別にもうどうでもいいよ」
 頭をだらりと後ろに傾けて、クロはリラックスしているように見える。やはり本調子ではないのだろうかとラーナーは少し心配になる。もっとも、色々な面でクロは一般とは違うから、どのくらいが彼にとって普通であるのか計れないが。
 また間が空く。クロはその間に朝に寝ぼけ状態の中でアランに言われたことを脳内で噛みしめていていた。彼はこの場にアランがいたらどんなに楽だろうと痛感するが、生憎アランもいないし、また同じく二人の橋渡しをしていたポニータもいない。自分の意志で会話を始めるしかない。
「……なんていうか」会話を今度はクロが切り出す。「俺も言いすぎたし」
 ラーナーははっとしてクロを凝視する。一方のクロはそれに気付いて背けるように右腕を顔に乗せ、表情を隠す。
「ここに残ればいいとか、それが一番良いどころか一番危険なのに」
 小さく紡がれるその言葉をラーナーは聞き逃さなかった。そしてその言葉の意味を呑みこむことができず、首を傾げる。
「どういう意味?」
「……どこにいたって黒の団の目にいつか捉えられる。あんたがここにいると知られて、でもその場に俺がいなかったらあんたは勿論、アラン達だって皆殺される。誰も戦えないんだから」
 淡々と出てくるが内容は身も凍るほど恐ろしいもので、ラーナーの記憶にまた弟の姿が焼きつく。
 一方のクロの脳裏にも、別の情景が浮かび上がっていた。
「以前、俺が初めてアラン達に会った時」
 クロはゆっくりと話を進める。
「その時はトレアスじゃなくリマっていう町にいた。色々あってオーバン家に身を置いていたんだけど、ある日の夜に黒の団の襲撃を受けたんだ」
 ラーナーは息を呑んだ。
 腕の下でクロは目を閉じた。甦る記憶はいつでも彼を揺さぶる。爆発するような悲鳴と興奮が風景を満たし、そして血の飛沫が走る。様々なものが割れたり倒れたりする音が掻きむしる。暴れまわる。全てが引っくり返る。泣き声と叫びの不協和音が金きり音のように響き、やがて訪れる平穏の時。その時クロに残るのは、空虚。手に握られた閃火の炎は小さい。全身に付きまとう血の色と匂いが彼を後悔へと導くと同時に、静かな歓喜に似た衝動で心中は満たされるのだ。
「俺しか戦えないから、俺だけで戦った。正直大変だった本当に。無力な誰かを守りながら戦うのは動きが制限されてすごく辛い」
 そうは言うけれど実際今こうして生きていることが、彼が勝ったという何よりの証拠。
 だらりと右腕をクロは下ろした。閉じていた瞳は姿を見せて、虚空を見つめる。
「その後オーバンの人達は今のトレアスの家に引っ越した。血みどろの家になんか住めないし。……」
 クロは一度口を閉じる。
「……もうこれ以上、あの人達を巻き込むわけにはいかない。だから、あんたを置いていくわけにはいかない」
 強い意志が言葉の芯となっている。
 安堵と戸惑いが混在した心中で、うんとラーナーは小さな相槌を打つ。うん、そうだねと続ける。独り言のようで、クロは不意にラーナーを見やり、その顔が少し俯いているのを確認した。量が増えて少し重くなった髪が垂れて、日陰の中で更に影が落ちているようだ。その胸中をはっきりと察することができないクロは、黙って自分も視線を上へと戻した。こうしてどう言ったら良いのか分からない時には黙っておくのが彼にできる最善の手だった。
 ラーナーは目を閉じて思考を整理する。クロが原因であるが黒の団に襲われたアランとオーバンの夫婦。クロのおかげで、生き延びた。そして一カ月程前、黒の団に襲われたラーナーとセルド。セルドは死んだ。そしてクロのおかげで、ラーナーは生き延びたのだ。そうして今、まだ標的として狙われたままウォルタを離れ、またここを離れ逃亡の旅が再開する。
「また逃げる旅が始まるんだね」
 ラーナーは思わず口を滑らせる。
「なんかね、いつになったら終わるんだろうとか考える。未来とかそりゃ、以前も考えてなかったけど今は本当に不透明すぎて不安ばっかり」
「……いつ終わるか、か。それは分からないな」
 ぶっきら棒にクロは言い放つ。
 数秒置いてから突然ラーナーは音を立てて立ちあがった。クロは驚いて思わずラーナーの方を凝視した。影に包まれたラーナーの身体、その目が光る。見下ろしたその目力は少し強い。
「……ねえクロ、クロはどうして旅をしてるの?」
 深緑の目が大きく見開かれた。それまでの思考が一度リセットされ、身体が硬直する。その後ぐるりぐるりと脳内が回転して、視線も自然とそれる。傍から見ればそれは長い静寂の時間だった。日陰の外を見れば人混みは大きくなり、一層強くなる日差しの元で賑やかさは駆けあがるように増す。
 クロは重い唇をゆっくりと開いた。

「探している人がいる」

 テンポはスローに重々しく。

「生きているかも、死んでいるかも分からない。けど、探さなきゃいけないんだ」

 それまで不安定だったクロの目力が急にきっと定まる。その視線の先にいるのはラーナーではなく、遠い青空を睨みつけているかのようだった。その表情にラーナーの中に息が止まるような恐怖すら走った。それほどに険しく、そして決して崩れることはないであろう決意の表れが彼を支配している。ラーナーはウォルタでの騒動時やバハロでブレットと対峙した時のクロの姿を思い出した。それは、その時とどこかしら似ていたからだった。
 声をかけようとするラーナーだが、次の言葉は浮かんでこない。クロの様子はまるでラーナーを見ておらず、それがまた自分の世界に浸っていることを示しているのが分かったからだ。こうなれば外界からの介入を許さず、しばらくはそっとしておくしかない。
 溜息をついた後に、ラーナーはまた先程の場所に仕方なさげに座った。そうして目を閉じ、自分の思いを整理する。クロの旅の理由は分かった。そして理解できたのは、クロの旅にはいつしか終わりがあるということだった。あの視線の強さは、本当にクロは見つけ出すつもりで旅をしていることを物語っている。いつしかクロは辿りつくだろう、自分の求めているものに。それがどんな形であろうと。そう考えていると、ラーナーは自分の心が締め付けられる感覚に襲われた。それは不安以外の何ものでもない。



 どれほど経ったろうか、数分の時が流れた頃、待っていたラーナーの耳に音が入ってくる。見ればクロがようやく動き出して、朝に渡された買い物メモに目を通していた。先程の冷たい雰囲気は消え、少し間が抜けたようでラーナーは少し微笑む。
 時々荷物の中のものを確認しながら、そのうちメモを閉じてまたポケットに戻す。
「買い物終わってた。帰らないと生ものは腐る」
「あ、うん」
 クロは立ちあがって地面に置いていた荷物を右腕で回すように持つ。
 その様子を見つめていたラーナーは、いつの間にかクロの名前を呼び掛けていた。それにクロは視線を上げた。
「何?」
「……もし、クロの探してる人が見つかったとしたら、クロの旅は終わりだよね」
 押し黙るクロを余所に、ラーナーは力無く笑う。
「ごめん、突然。ちょっとさっき考えてたの。気にしないで」
 ぎこちない言葉にクロは目を細める。ラーナーは自分の持ち分の荷物を手に取ると、その場を立つ。その様子の一つ一つを見るようにクロはラーナーを凝視する。その視線に気付いたラーナーは首を傾げ、無言で帰ることを促すように歩き出す。
 数歩進んで日陰から出てから、クロがついてこらずに立ち止まっているのにラーナーは気付いてまた振り返る。クロは重く何かを考えているように少し俯いて表情を固くしている。
 ラーナーが声をかけようとした瞬間、その顔が上がり思わず押し黙る。が、何を言い出すこともなく片方の荷物を持ちあげて歩き出した。相変わらず当たり前のように重い荷物を持ち上げて苦しそうな顔色を欠片も見せない。が、ラーナーの隣までやってくる間際で再び立ち止まる。
「ラーナー」
 出てきた声は少し低いものだった。
「明日……できれば今日にでも、トレアスを出よう」
「ええっ」
 突然の宣告にラーナーは思わず素っ頓狂な声を出してしまう。が、クロの顔は真剣そのものである。
「行先はこの後すぐに決められると思うから」
「ちょ、ちょっと待ってそんな急な」
「いや、もう出るって決めた」
「わけわかんないよもうっ」
「旅は急に始まるものだって覚えときなよ。とりあえず帰ろう」
 さっさと日陰から出て歩き出したクロの後を慌てるようにラーナーはついていく。
 と、またすぐにクロは立ち止まり、ラーナーも合わせて止まる。今度はなんだと言わんばかりにラーナーはクロの表情を覗く。
「あのさあ」
 クロは言いながら左側の荷物を少し下ろす。
「一番上に多分ジュースあるからとって」
「え?」
 戸惑うラーナーだったが急かすようにクロは荷物を動かす。両手が塞がっているためクロは自力で荷物の中身を取り出せないのだ。ラーナーは背伸びをして中を覗くと、確かに上にジュースの入った瓶がある。橙色をしているからオレンジジュースだろうと見当がつく。が、取り出してラベルを見てみると味はどうやらマンゴーのようだった。
「飲んでいいよそれ」
 クロは荷物を持ち直しながら言う。ラーナーは表情を固め、思わずジュースとクロの顔とを交互に見やる。
「あたしが?」
「他に誰もいないじゃん。俺ジュースだめだから」
 その時ラーナーは自身に買ったものなのだと分かり、空の雲が一気に消えるように心が晴れる。どこか暗かった表情に笑みが広がる。
「ありがとう」
 そう言いながら瓶を見て、勿体ないのか開け辛そうにしていたがやがて栓を手で捻って開けてそっと飲む。独特の濃厚な味が口の中に広がって喉が潤う。甘さが幸福感を呼び、表情もやはり笑っている。
 単純だな、とクロは聞こえないように少し呆れて呟いた。単純なことで、あっさりと修復されるものがあるのだと実感する。
 そういえば昨日アランもミストラ遺跡に赴いた時にお茶をくれたことをラーナーは思いだした。
 いつもクロは唐突だ。突然黙って外界との関わりを遮断したかと思えば、話を勝手に進めて歩き出す。自分勝手なところがあっていつもラーナーは振り回されている。勿論クロに悪気は無いのだが。でもそれがクロらしい部分なのだと受け入れてしまえば、こうして普通になったことはいつものクロに戻ったということであり、ラーナーは少しは仲直りできただろうかと考えて少し笑うのだ。
 人が多くなった朝市を横目に、二人は帰路を辿り始めた。少しクロが前を歩いてちょっとずれながらも歩く、それが旅でずっと保ち続けてきた並び方だった。


 *


 帰宅後、アランが慌てるように様子を聞いてくるのをさらりと流して、クロは荷物をアランに押しつけるように任せた後にアランの部屋に入る。夜中掃除していただけあって二四時間前では想像すらできないほど部屋は整理され埃は無い。ただすぐに汚くなるであろうこともクロは分かっていた。アランは掃除を得意としていないし汚いことにそこまで嫌気はないときているから、すぐに物が散乱してしまうのだ。
 ベッドの傍にクロはやってくると、置いてある自分の鞄を手にとり中身を探る。すぐに出てきたのは、一カ月程前にアランとの電話に使っていた黒いポケナビだ。少し古いが今でも現役として働き続けている。
 それだけ手に持つとベッドに座り慣れた手つきで操作を進める。
 その途中でぴたと指の動きが止まる。現在の画面を凝視し、唇を噛みしめた。きしりとベッドが軋む。今彼の置いている親指で強く決定を選択すれば次のステップに進む。それを躊躇うようにクロは表情を固くした。珍しく優柔不断な部分が露呈し、迷いを捨て切れずに時間だけが経っていく。
 目を閉じて溜息を吐いた後、決心したように一人頷くと親指でボタンを押した。直後、ポケギアは通信を始めて、すぐに電話のコール音が部屋に響いた。それはしばらく続き、一つ一つの音を聞き流すたびにクロの緊張は高まっていく。五回程鳴った辺りから落ち着きのなさのあまりその場を立ち、固い動きで部屋の窓を片手で開ける。外の風が部屋内に流れ込んできて、ほんの少し気分が楽になる。新鮮な空気は心を多少は沈静化させるが、一方でそれ以上に電話の音が彼を緊張させていく。
 十回目の音が通り過ぎた辺りでクロは一度通信を遮断する。深い溜息をついた後、もう一度電話をかける。二回目は一回目の迷いは一体何だったのかと問いたくなるほどあっさりとしたものだった。が、問題の話し相手はなかなか答えてくれない。
 時間を変えるべきだろうかという考えが頭を過った直後、六回目のコール音がぷちんと切れて静寂が訪れた。クロは息を呑み、画面を見る。目的の相手と通信が繋がっていることを示している。けれどお互い無言のままで、クロは声が出てこない。
『……もしもし』
 小さな声がスピーカーから零れてきた時、クロの心臓は一度大きな鼓動を刻んだ後、不思議と急速に落ち着いていった。聞き慣れた声。けれどしばらく聞くことは無かった声。幼さの残る少し高い男の子の声が、クロの耳に届いて懐かしさに彼を浸らせる。
『クロ?』
 尋ねるような口調にクロの口元はいつの間にか緩んでいた。それは殆ど見せることは無い優しい表情である。

「……ああ。久しぶり、圭」


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