第1話 始まりは姉が呼ぶ



見る限り、緑色が目に飛び込んでくる景色だった。
木がたくさん生い茂っていて壮大な森のような印象をうける。木々が互いに競争でもしているかのように、淡い緑色の葉を青々と茂らせていた。

そんな緑豊かな土地に一つの村があった。いや、村と言うよりは集落に近いものかも知れない。
むやみに土地を広げたりせず、自然の中に人々が家を建て生活しているような雰囲気が漂う。
この小さな集まりは、自然と共存する村、リスタと呼ばれていた。



そのリスタのとある家。窓からはなにやら怪しげな煙がたちこめている。
家の中の研究室らしき所で、鍋を前にして何かを呟いている人物がいた。

「……何も起こらないわね」
火にかけた鍋の中を覗きながら、一人の女性が呟いた。
薄暗い部屋なのではっきりとは見えないが、二十代前半を思わせる若い女性だった。
何かの研究者なのか白衣をきている。いかにも薬品の臭いが漂っていそうなほど、それは着古されていた。
「鍋に入れたからってすぐ反応が起こるわけじゃないだろ、セリア」
すぐ後ろで声がした。興奮気味の女性とは対をなすように、冷めた感じの声。
その声の主は、毒々しい色の羽を持つ蛾のような姿のポケモン、ドクケイルだった。

「まあ、それはそうなんだけどね。私としてはやっぱり気になっちゃうってわけよ」
セリアと呼ばれた女性は振り返り、にこやかな笑顔を見せる。
気さくに話す様子から、おそらくドクケイルは彼女のポケモンなのだろう。
「龍の鱗を沸騰させて何か変化があるのか?」
ドクケイルは鍋の中を覗き込む。中には丸みを帯びた白い鱗が佇んでいた。

「まだ目立った変化は見られないけど、これから変わるかも知れないでしょ。私はこれから記録を取るから、鍋のチェックお願いね、ケルド」
「分かったよ」
ケルドと呼ばれたドクケイルは少しだるそうな声で答える。
セリアと違い、実験を楽しんでいるようには見えなかった。無理矢理付き合わされているのだろうか。

物体に何か変化を加えてそれがどのように変わるか調べるのは、セリアがよく行っているスタンダードな実験だった。
今回は龍の鱗という珍しい物が手に入ったので早速試している、というわけだった。
鍋に火をかけたまま、セリアは部屋の机に向かいメモを取る。
変化を加えた物質、どのように変化させたか、変化後の様子、等々を細かく書き込んでいるのだ。
しばらくの間、セリアがペンを動かす音だけが部屋に響く。

ぼんやりと鍋を眺めていたケルドだったが、起こり始めた変化を見逃すほどボケッとしてはいなかった。
本来、龍の鱗の表面は白い。沸騰させた湯の中で、徐々にその色が黒ずみはじめたのだ。
「……セリア」
呼びかけるも返事は返ってこなかった。
(何やってるんだよ……)
ケルドが振り返ると、まだ机に向かいメモを取っているセリアが。
目を見開き、何かに取り憑かれたかのようにペンを動かしている。彼女は何かに集中すると周りが見えなくなってしまうのだ。
「おい、セリア!」
強い口調で呼びかけるケルド。ようやくセリアは顔を上げる。
「あ、ケルド。どうしたの?」
「どうしたのって……。鍋をチェックしてろっていったのはセリアだろ。龍の鱗、変化してるぞ」

彼の言葉を聞いたセリアは弾かれたように椅子から立ち上がると、鍋の前に向かう。
じっと鍋の中を見つめていたが、やがて火を止め、箸で中から鱗を取り出す。
「ずいぶん黒くなったわね……。でもケルド、どうせならもっと早く教えてよね」
「俺は教えてたつもりだったんだがね。セリアの耳が少し遠すぎたか」
集中すると周りが見えなくなってしまうのは、自身のことであるセリアも分かっている。
ケルドの皮肉にちょっとムッとしたものの、彼に文句も言いにくかったので、ここは黙っておいた。
「まあいいわ。こうして変化が見られたわけだしね。早速記録しないと」
セリアは再び机に向かい記録を始める。
「ところで……それ、元に戻るのか?」
すっかり黒くなってしまった龍の鱗。白かった頃の面影はどこかにいってしまった。
「熱したら黒くなったってことは、冷やせばもとに戻るわよ」
何ともいいかげんな理論だったがケルドは突っ込まない。彼女の中ではそれが正しいことになっているのだから。





「……おかしいわね」
セリアの目の前には黒ずんだ龍の鱗がある。鍋から取り出してだいぶ時間が経っているが、色が変わる気配は一向に見られなかった。
「おい……まずくないか。この龍の鱗、確か借り物だったよな?」
「…………」
さすがにセリアもまずいと思っているのか、苦い顔をしている。
人から借りた物を実験に利用など、普通はやらないことだろう。だが、ここにいるセリアには『普通』という言葉が通用する雰囲気はしない。
何の意味があるか良くわからない実験を行っていたり、昼夜問わず白衣を着て過ごしているなど、傍から見れば彼女は『変わり者』として映るだろう。

「さすがにこれを返しに行くのは気まずいわね……」
もともと貴重な龍の鱗をこんなにしてしまったのだ。おまけに自分の物ではなく借りた物。
どう考えても、堂々と返しにいけそうにはなかった。
「気まずかろうが、返さないわけにはいかないだろ」
「そうだよねえ……。よし、今回はあの子に持っていってもらいましょう」
セリアは『あの子』としか言わなかったが、ケルドには彼女が何を考えているのか何となく予想できた。自分の代わりに返してきてもらうつもりなのだろう。

「たしかに事を起こした本人じゃないなら、相手も怒るに怒れないかもな。
悪くはないと思うが……あっさりと引き受けてくれるとは思えない。と言うより、そもそもあいつは今日この家にいるのか?」
「それなら心配ないわ。さっき居間で見かけたし、もし引き受けてくれなかった時は……ケルド、あんたの出番よ」
セリアはにやりと怪しげな笑みを見せる。何か企みでもありそうな笑みを。
ケルドがその笑いを見たのはこれが初めてではない。セリアが何かをごまかそうとしているときや、自分の立場が悪くなったときによく見せる表情だ。
しかし、ケルドとの間で見せるその笑みは一種の合図のような物だった。
「はいはい……分かったよ」
やれやれといった感じでケルドはセリアの後ろに回る。そして、彼女の背中にピッタリとくっついた。
部屋があまり明るくないので、パッと見ればケルドがいるとは分かりにくいだろう。
「よろしく頼むわよ……ケルド」
彼が背中に張り付いたのを確認すると、セリアは不気味に呟いた。


戻る                                                       >>第2話へ

 

inserted by FC2 system