第29話 朝霧の刑務所 後編




薄暗い空間だった。見渡す限り、灰色が広がっている。
光は弱かったが、自分の姿を確認するくらいはできそうだ。
俺はその真ん中に立っているようだった。とはいえ、この空間には果てが見えずどこが中心なのかも分かりかねていたが。
ふと、少し先に立っている人物がいることに気づく。俺はさっきまで気がつかなかったが、周囲に気を取られていたせいだろうか。
それでも、こんなに目立つ位置にいる人物に気がつかないものだろうか。俺は妙な違和感を感じた。
背を向けているせいで顔は分からなかったが、髪型からすると男のようだ。
「なあ……ここはどこなんだ?」
俺はその男に駆け寄り、訊ねた。
「君はザルガス、だね。久しぶりだなあ」
振り返らずに男は答えた。どこかねっとりとして絡みついてくるような声だ。
俺は少しだけ眉根を寄せた。まあ、相手には見えていないだろうから問題はない。
「……何で俺の名を?」
「いやだなぁ、忘れちゃったの? 僕だよ」
声だけで簡単に判断できるほど、俺は人の判断に自信がない。
多分顔を見せられれば思い出せると思うのだが。しかし、その嫌味っぽいというか不快感を感じさせる喋り方はどうにかならないものか。
「ロガだよ」
「!」
名前を聞いた瞬間、俺の体に電撃が走る。忘れもしないその名前、そして――――。
「君に……君に殺された男だよ!」
ロガはくるりと向きを変えると、ギラギラした瞳を俺に向ける。
その表情は人間のものとは思えない。そして俺の方をがっしりと掴むと、口元を引きつらせて笑った。
「うわあああ!」
俺は必死で手を振り払おうとするが、ロガの手の力は強まるばかり。
肩の骨が軋みはじめる。これは人間の力じゃない。手を離せ、やめろ。

やめろ。

やめてくれ!



「おい、ザルガス!」
「?!」
聞き慣れた声で、俺はハッと我に返る。うたた寝をしていたらしい。
「大丈夫か? 随分とうなされていたようだが」
看守が心配そうに鉄格子を通して、俺の顔をのぞき込む。
こいつとも結構なつき合いだな。最初は何かと辛辣な態度で、俺も反発したりもした。
何年も顔を会わせるうちに、そんな性格はだんだん円くなっていった。俺も、こいつも。
おそらくこいつの目にはくたびれた俺の顔が映っていることだろう。
「いえ……大丈夫です。それより看守、俺に何か用ですか?」
「面会希望だ」
看守はポケットから鍵を取り出すと扉に差し込む。ガチャリと音がして、扉は開いた。
「妙な真似はするなよ」
「何を今更」
「一応念のためだ、行くぞ」
看守は歩き出す。見慣れた背中だ。
こいつを殴って鍵を奪えば、脱獄も出来るのではないかとふと思う。
思うだけで実行はしない。短絡的な考えだ。そう簡単に逃げられるわけでもない。
今更逃げてどうなるというのだ。逃げられるとも思わないし、逃げようとも思わない。俺の居場所は、この独房の中だった。
俺が今唯一逃げたいと思っているもの、それは――――。
「……ロガ。お前はいったいいつまで俺を苦しめる?」
おそらく看守には聞こえてないだろう声。俺は小さくそう呟いた。





薄く霧がかかった草原にそれはあった。
それは壮大な草原には、あまりにも不釣り合いに思える。
四方を高い壁で囲まれており、要塞のような印象も受けた。
その要塞、刑務所の門の前にレイル達は立っていた。とうとうここまで来た、といった感じだ。
「……ここか」
辺りを見回しながらレイルは言った。左右はとても高い壁。自分の身長の何倍くらいあるだろうか。
入り口はどうやらここだけらしい。門に手を掛けて引く。ぎい、と軋む音と共に門は開いた。
とても大きな門だ。近くに立つだけで圧迫感がある。レイルは一度深呼吸してから、刑務所の中へと足を進めた。

舗装された道を真っ直ぐに進んでいくと、受付らしき小さな建物が見えてきた。
その背後にあるのが刑務所の中心部分なのだろう。巨大な横長の直方体といった感じで、左右に広がる壁だけを見ても殺伐としている。
受付の男はレイル達に気がつくと、小窓から顔を覗かせた。少なからず訝しげな顔をしている。
「……君」
少しだけ身を乗り出して、男がレイルに呼びかける。四十そこそこを思わせる、中年の男性だった。
「君みたいな子供がこんな所に何の用だい?」
子供、と言われて少々ムッとしたが、顔には出さずにいた。
男の疑問も当然と言えば当然だろう。たしかに、自分らはこの場所には場違いだ。
しかし今はそんなことを気にしている場合ではないことは、十分分かっている。
「会いたい人がいるんです」
「……面会希望かい?」
レイルの率直な言葉に男は面食らった感じだったが、少し遅れながらも受け答えをする。
「はい。ザルガスって人に会わせてほしいんですが……」
「ザルガスか。あいつに会いに来る人も久しぶりだな」
ふと、遠い目を見せた男。おそらくここで長い間受付をやっているのだろう。
久しぶりということは、以前は会いに来る人がたくさんいたということだろうか。
「いいだろう、奥に行けばいい。案内役がいると思うから」
男は建物の奥を指さした。長い廊下が先に続いている。奥は相当な広さなのだろう。
レイルは軽く会釈をして、受付を通り過ぎようとした。
「ちょっと待った」
しかし、行こうとしたレイルを男が呼び止める。
「ここから先はポケモンは立ち入り禁止だよ。モンスターボールは置いていってくれないか?」
「え……」
一瞬だけ、時間が止まったような感覚を覚えた。ようやく見えてきたゴールが、再び霧の中に消えてしまったかのように。
「もし、強力なポケモンを使われて暴れられでもしたら大変だからな。ポケモンは立ち入り禁止だよ」
最もな理由だ。ここは刑務所、罪人たちが収容されているのだ。セキュリティーは万全でなければならない。
理屈では納得がいっても、レイルは分かりましたと素直に頷くことは出来なかった。決意を固めてここまで来たのだから。
「どうしても、ダメなんでしょうか? ザルガスに会いたがっているポケモンがいるんです」
男は暫し、黙り込んだ。ザルガスのことだから、人間だけでなくポケモンともいろいろ因縁のようなものがあるのかも知れない。
規則は規則だが、そう言うことなら出来れば通してやりたいところだ。
「お願いします!」
懇願するような声で言ったのはリーフだった。大きな瞳で訴えるように男を見つめている。二人の真剣な眼差しに、男の心は揺らぐ。
「……もし、何か問題が起こった場合は、それなりの処置をとらせてもらう。いいね?」
「はい」
レイルとリーフはほぼ同時に答えた。
「中の人たちには説明しておくから、奥に進むといい」
男は複雑な表情をしながらも、レイル達を信用してくれたようだ。
おそらく彼は、リーフがザルガスに会いに来たポケモンだと思っていたことだろう。
外見的にも雰囲気的にも、リーフが何か問題を起こすとは考えにくかったから通してくれたのかもしれない。
それを思うと彼を欺いているようで、何だか悪いような気がしたが、せっかく中に入れるようになったのだ。その機会を無駄にはしたくなかった。
「ありがとうございます!」
短く礼を言うと、レイルは奥へと足を進めた。




建物の中は通路がいくつにも分かれていて、どこも似たような造りだった。
案内役の男がいなければ、迷子になってしまったことだろう。彼の後をついていくとき、自分たちの足音だけが刑務所内に妙に大きく響いていた。
「ここだ」
男はドアの前に立ち止まって言った。どこをどう歩いたかも覚えていなかったが、ここまでくるのに結構歩いたような気がする。
ドアは黒く塗られているせいか、ずいぶん重たい感じがした。所々さび付いていることから、かなり前からこの場所にあるのだろう。
「面会の時間は10分ぐらいだ。終わったらまた迎えに来るから、動かずに待っていてくれ」
男はそう言い残して、早足で立ち去っていった。

目の前の黒いドア。この先にザルガスがいるのだ。
一瞬だけ、ドアに手を掛けるのを躊躇ってしまったような気がする。
だがすぐにその迷いを振り払うと、しっかりとノブを握りしめる。
「……行こう」
「うん」
レイルはドアのノブを捻って、引いた。
さび付いた金属の擦れる音と共に、ゆっくりとドアは開かれた。


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