見えない眸


『その森の中で、新たな感情は産声を上げた』


空中で蛇と獣が飛び交う。
一瞬空中で交差するようにぶつかった後、定位置へと飛び降りる。……再び向き合う蛇と、獣。獣は爪を構え、蛇はその鋭い牙を威嚇するように見せ付ける。
――鬱蒼とした森の中で、蛇と獣は闘う。己の血が相手を求めている。絶えず残り、受け継がれてきた血が騒ぐ。姿を見れば、斬りかからずには居られない。刺し貫かずには居られない。――互いが互いの好敵手、標的。倒れるまでが戦闘時間。


獣の右腕から鮮やかな血が噴出す。腕の赤い毛の上を、色濃い紅が滑るように流れていく。
蛇の牙先には血が付いている。そして、蛇の尾にかけて五つ、深い爪跡が刻まれていた。加えて、蛇の荒い息遣い。

今の空中での一瞬では、獣が優勢だった。実際獣は蛇の尾を再び狙うように爪を構えていた。右腕の損傷などはささくれ程度、ということらしい。対照的に、蛇は傷を庇うように身体をくねらせた。――だが。次にそこが狙われることは明白だ。体力的にも、これ以上耐久を続けることは出来ない。尾の刀も上手く動かせない。獣はそれを狙った。動かせないように爪を曳いたのだ。
止めを刺すべく、獣は爪を向ける。

風が、さっ、と吹きぬけた後、すっ、と止んだ。  

その瞬間、蛇は逃走体勢を取った。だが――獣はそれを許さなかった。地を這うように走り、右手を振り上げる。五本の爪はまっすぐ蛇に向かった。千切れるような叫び声が響いた後、蛇は力無く崩れ落ちた。戦うは獣と蛇の生命の全て。負けて生き永らえることは互いに赦さない。獣は怒ったのだ。無様な蛇に。

獣は其れを見下ろし、やがて興味を失くした様に去っていった。
鬱蒼とした森の中、こと切れた蛇の亡骸が残された。……ざっ、と風の音が響く。ざっ、ざわざわざわ、と。




『月の光』


 その獣は、小高い丘の上に佇んでいた。
大きく見える、月。その月の朧気な光に照らされる獣は、孤独に見え、また美しくも見えた。
――二本足で丘の上に立つ、獣。
同種の獣は滅多に二本足で立たず、四本足での行動が専らなのだが、この獣はそれが逆転していた。――二本足で立つことが普通なのだった。
――白色の体毛は赤い血に染まっていた。月が照らすと、それは戦闘時の鮮やかさを取り戻す。尻尾に付いた幾つもの咬み跡は、体毛を染める赤い血と共に、獣の誇りであった。それだけの闘いを勝ち抜いたというしるしと言う誇り。

そして、また、獣は思い出したように森の中へ帰っていく。

獣は森に棲む同種の獣とは別次元の強さを誇っていた。年も重ね、戦闘経験も重ね――そして、自惚れでは無く森の中で最も強い、と思っていた。天秤で釣り合っていた蛇と獣の強さは釣り合わなくなったものだと思っていた。もう蛇は、自分を殺せない。古来から続く闘いを、自分が終止符を打ちかけているのだと。
近頃は森を出て更に強い者を倒そうと考えていた。 好敵手を駆逐しきってしまったら、同族同士で争いかねない。そう考えた上でも森を出ることは悪いことではなかった。

だが――
獣は森を出られなかった。


『言葉にて目を覚ます』


 その蛇の噂を聞いたのは、いつだったか。獣の記憶するところ、そう昔のことではない。
森を出ることを決めたあたりだから、この一、二年のうちだ。
風の噂。
その蛇の存在は風の噂として流れてきた。

いつものように、闘いを挑んでくる蛇の尻尾の刀を慣れた手つきで往なす。刀を手の甲で受け止め、振り払うように押し返す。……ぐぐっ、と引き付けるようにして、勢いのままに返す。
自らの尾の勢いに押され、蛇がはじき飛ぶ。放物線を描き、茂みに落ちてゆく。
がさり、という音がした。


――そうだ、と獣はそのときのことを思い出していた。あの時、なぜか無性に苛立っていた。闘いを求める血が、更なる闘いを求めて騒いでいたのだ。
なぜあそこでさらに追い詰めたのだろう。もうあれで勝負は決していた。だが、

茂みに入り込む獣。
入り込んできた音にかすかに影が動いた。ゆらりと。
蛇はすこし身体をくねらせた。鈍い動きでも、その動きが何を意味するかは分かる。
くっ、と獣が皮肉っぽく笑む。――その、小さな音が聞えたのか、蛇の動きがぴたり、と止まった。
……ガッ、と強い衝撃が獣の頬に奔ったかと思うと、次の瞬間には腕と腿のあたりに二撃、素早く尾の刀が掠めた。
――不意を突かれた。
チッ、と舌打ちした後、獣は身を翻すと、蛇に向かって飛び込んだ。左腕の爪を構え、滑らせるように爪を曳く。足で尾を叩きつけ――付けた傷をなぞるようにして爪を逆方向に曳く。
堪えかねた蛇は獣を振り落とす。獣が地面に叩き落とされたのを狙い、蛇はぐるりとくねり、獣の頭部を狙う。もともと全長は獣の体長を遥かに上回っている。振り落とされてくるような蛇の牙。ぐんぐんと獣に迫ってくる――

「甘い」
牙を爪で受け止め、もう一方の手の爪で喉のあたりを押さえつけた。
爪の先端が、喉に食い込む。
チッ、と擦ったような音がしたかと思うと、蛇は後方に崩れた。ずしいいん、という音と共に、地面が揺れる。
蛇がぴくぴくと、痙攣したように動いている。まだ息があったか、と獣が一瞥をくれると、蛇が酷く澱んだ声でぼそりと呟いた。

お前など、到底及ばぬ。
澱みきった声で判断し難かったが、そう聞こえた。
負け惜しみかと取っていた。
あ、の。
その後は続かなかった。それを最後に、蛇はこと切れた。
お前など、到底及ばぬ、あの。
その言葉が、獣に残る。とても強く、とても重く。

本当だと言う確証は無い。けれど、獣は蛇を探している。獣より強い、その蛇を。
血を流す。互いが互いに齧り付き、血を吸い合う。傷付け、傷付けられ、潰し、潰され、その一瞬の姿は醜い。けれど、蛇と獣にとっては最高の感情を得ている。一瞬。幸せを嘗め尽くされても、たとえ地獄絵図のようであっても、闘い合う。
一瞬の快楽の為に、獣は蛇を探す。

お前など、到底及ばぬ、あの方には。
そう聞こえたのだ、そう聞こえたのだ、獣には。


『声が聞こえる』


よくよく耳を澄ませば、その蛇の噂は広く知れ渡っていたようだった。
こいつは違う、こいつは違う、と一太刀ずつ入れては森を駆け抜けていくが、一向に当たりに出遭うことはなく、獣は仕方なく同族に聞いてみることにしたのだ。
恐縮しきっている同族や、ぽうっとしている(どうやら獣に惚れているらしい)雌、獣の半分ほどの背しかない幼い者も、口を揃えたように同じことを言っていた。
強い、
巨大、
異様な目つきをしている。
その三つの言葉が色々と組み変えられては獣に伝わる。もとより蛇は独特の目つきをしているし、巨大な体つきをしているが、それを遥かに凌ぐと言うのだ。
――化け物か。そう思わざるを得ない言葉ばかりだった。

森を渡り歩き、ひとつひとつ証言を集めていくと、気になる言葉が獣を迎えた。
――仲間を喰っている。
――だからだと思う、とても体が大きい。そこの洞からにゅるりと這い出てきた。太い胴が地面を滑っていくんだ。どこまで伸びていくんだ、と思っていた。


――最近のことなんだ。
背中に巨大な傷をつくっている一匹の雄が喋った。
――ぞっとした。すごく恐ろしくなった。一飲みにされてしまう。そう思った。
慌てて逃げ出した。住処には大蛇がいた。住処を棄ててでも、命を選んで、逃げた。
振り返った。――もう、一瞬にして、そばにいた仲間は消え失せたさ。

喰われた。いや。飲まれた。
喉が、ごくり、って。僕は足を踏み外して滑り落ちたけど――背中は、多分蛇につけられたものだ。

雄は驚くまでに無表情だった。抜け殻のようだった、が正しいのかもしれない。
獣はその傷に鼻を近づけた。刹那、体毛が逆立つ。びくびくと体の内の何かが反応している。蛇の付けた傷。
牙で削られた皮膚。獣は爪に力を込めた。

早く、この爪で、その蛇を刻み付けたい。

――襲われない様に、弱い同士で固まってたのが良くないのかな。
そのあとは、たぶん。気を、失ったんだと思う。

雄の言葉を聞き終えるより早いか、獣はぐん、と突き抜けていった。
その後を、しばらく雄が見つめる。森のまた向こうへ消えた後も、ずっと。


『“破壊対象物、好敵手、ずっと探していた、探していた”』


姿を現せ。
姿を、
――その牙を、その尾を、その目を。
胴体に喰い付く自らの姿。
鋭いこの爪を曳く自らの姿。それを想像するだけでどくりと高鳴る獣の心臓。
風に乗るように森を突き抜ける、獣。

つうん、と鼻を突く嗅ぎ慣れた臭いがする。
つうん。
錆びた鉄にも似たその臭いは、ずっと求めていた血の臭いだった。
――ひどく嫌な音が聞こえてくる。ぐちゃ、という音が。

余りにも殺気立っていると、獣は見境なく爪を振るってしまう。
快楽を求め、言うならネジが完全に緩みきって意味を成さなくなってしまっているのだ。
葉の隙間から覗く獣。
はっ、はっ、という息遣いと、かたかたと震える前足の爪。興奮しきった瞳に映るのは、紛れもない大蛇だった。全身が、切り刻みたいと言っている。
噛み付き、またぐちゃりと音がした。噛み付いたまま、同族であるはずの蛇の身を振り回す。
同族であろうと、大蛇は喰う――その言葉が、ぴしりと映像にあてはまった。
血が飛び散った。振りかざすたびに、色鮮やかな血が散る。大蛇の頭部に、勢い良く降っている。
その血を見て、獣の中のネジが音を立てて外れ、吹っ飛んだ。

――そして獣は、大蛇の真上目指して滑降した。
かちりとスイッチが入った。探し求めていた間切られていたスイッチは、ついにこの瞬間、再び反対側へと傾いたのだった。
獣の下に迫るのは、破壊対象物であり好敵手、欲していた存在、探していた、大蛇。


『赤と黒/黒と白』


蛇が大人しく踏みつけられるわけもなかった。
獣が飛び降りた瞬間、蛇は弾かれたように上を向き、自らが噛んでいた蛇の胴で獣を受け止める。
蛇の胴と、獣の足が真正面からぶつかる。
ぐぐう、と勢いのままに押す獣。
――しっかり、と受け止めて、そのまま蛇は押し上げる。獣が足場に揺らぎを感じたかと思った瞬間、押し上げられて、――跳ね飛ばされる。ばしっ、と弾かれて、真上に突き上げられていく。迫って、迫ってきて、木の枝が獣を突き刺そうとするぎりぎりで獣は木の幹を跳ね台にし、くるりと回り、――地面に舞い戻る。
息を吐く間も無く、ぐんぐんと迫ってくるのは蛇の牙。
長い。
だが、血で汚れた汚い牙などで、捕えられるものかと――獣は前足の爪で素早くそれを打つ。
いくつも手を伸ばしたように、ひびが広がってゆく。
にやり、と笑う獣。ひびの広がる蛇の牙に、両爪の力をさらに押し込め――
突き砕く!

……突き抜けていった爪が蛇の喉を引っ掻いた。
断末魔の叫び。聞くに堪えない酷い声が響く。獣は深く突っ込んでいく。
痛みに耐えかねたように、噛み付く蛇。飲み込むようにさっと口を縦にかぱりと開き、断首台の刃が振り落ちてくるように、素早く口を閉じて。
ずぶずぶと牙が食い込む。
――ガッ、という衝撃が、ほんのひと時、牙の動きを止める。
それを狙い、獣は爪で――牙を押しあげ、ぐぐ、と、こじ開けるようにして自らを挟んでいる口を開く。勢いで蛇が後方に吹っ飛び、獣は逆方向に飛んでいく。

ずしいいいいいいん。
重みが地を揺らす。砂埃が舞い上がる。暫く揺れ、砂埃が晴れたとき、再び獣と蛇は組み合っていた。



『頷いて紅』


獣の一撃目は蛇の喉へ。
蛇の一撃目は獣の胴体へ。

その一撃目こそ互いに当たったものの、お互いその後の攻撃はなかなか当たらずにいた。
いや、当てようとしていなかった、というのだろうか。相手の繰り出す技を往なし合っている――それを楽しんでいるようだった。互いにこう互角の力を持つ相手はそうそういない。獣にとってこの大蛇は消えかけた好敵手の位置についたもの、大蛇にとっては強くなるための通過点。
血が騒ぐ、血、血、血。
……倒すことの快楽を、得るための闘い。
そして獣と蛇は睨み合った。
獣の目は戦意を剥き出しにして見開かれている。
蛇の目はどこか妖艶だった。獣と闘える悦びに溺れている、ような。

力が放てるぎりぎりになるまで、お互いを追い詰めてこその闘い。
獣は蛇の胴体を踏み台にして、蛇の上に飛び上がる。――それを蛇は追う。長い体をしならせて、獣の後ろ足首に絡み付こうとする。
獣は蛇の顔面を左足で受け止める。がつん、と牙と足がぶつかる。――牙を踏み、そのバネで後方へ降り立つ。
また、鈍い響きと共に地面が揺れる。
……じっと、噛み付かれた胴を押さえる獣。鮮血が迸っている。押さえながら、大蛇のいる方向を睨みつける。
大蛇が這いでて来る。しゅう、しゅうと空気が漏れ出しているような音がする。大蛇は――にゅるり、と体をくねらせ、尾をちらつかせた。
牙に次ぐ武器。対して獣はこの爪しか、ない。

その、爪を、最大限に活用するには。
獣は大蛇の尾に、視線を移す。
――大蛇が、飛び出してくる。
獣も。その動きは素早く――
叫び声と共に、ほんの少し体を傾け獣は大蛇の横腹と接触する。
勢いを止めきれていない大蛇の胴体の後方に、獣は飛び掛る。胴体にしがみつき、爪を。
爪を、ざくりと深く刺し込んだ。――大蛇の勢いを殺すように。大蛇はそれでもしばらく前方に進み続け、やっと旋回し、獣に食いかかる。縦に奔る深い傷。
獣は片方の前足の爪を刺したまま、後ろ足で大蛇を蹴り飛ばす。そして、刺した爪を引き抜き、もう一方の爪と、交差させるように構えた。

蛇が後方に崩れ、尾が衝撃で、浮いた。それを狙って、獣は高く飛び上がって。
交差した爪を――尾の付け根に――曳いた。
顔面に飛び散る大蛇の血液。
ぱぱぱっ、と自ら視界に映る血を見て、トロン、と陶酔する、獣。

 




『”失くしたことで得たのなら”』


そうだ、この感覚を。
ずうっと求めていたのだ。涸れてしまった喉が潤っていくような、満たされる感覚。
獣はほんの――ほんの少し、油断した。その感覚に浸り――
自らの背後をえぐる感触で、眼を醒ます。
ぐっ、と耐え抜く獣。ずぶり、と折れた牙を容赦なく突っ込む蛇。その牙を、獣は後ろに回した爪で掴む。力が入らない。麻痺したようだった。弱弱しく掴まれた、牙。
だが、と獣はちらと目をやる。……牙さえ止めれば。尾を動かせないように、先ほど爪を曳いた。尾と胴の境目には、痛々しい×印がつけられている。尾を少しでも動かすものなら、根元の激痛が奔るだろう。
ぶらり、とぶら下がる獣。貫通した、大蛇の牙。
そして、大蛇は勢い良く振り回した。獣は吹っ飛ぶ――ばしいんと音を立てて木の幹に叩きつけられ、ずるずると落ちていく。

風が吹いた。
獣の咆哮も、蛇の威嚇も無い、闘い。ぶつかり合っては、互いを傷付け、互いに傷付けられ、またぶつかり合う。
木の幹に身を任せる格好の獣。息は荒く、その視界は薄れつつあった。
視界の中で、揺らめく紫色の影。蜃気楼を見ているような錯覚。その影が獣にとどめの一撃をくれんとする現実。動けない。心臓は何とか逃れたが、穴の開いた体を見るに、力はほとんど残っていない。 それなのに獣の心はこんなにも、こんなにも、嬉しがっている。そして、獣も一太刀入れたい――その胴体を斬りたいと爪に力を込める。
視界が黒ずんで見える。影がゆっくり近づいてくる。
目を失ってでも、勝てるのならば。
勝てるのならば、この目を失うことにも意味がある。
勝たなければ、この目を失う意味はない。
眸。見えない眸。獣は両目をぐっとつぶった。……そして、気づく。

爪を更に活かせる闘い方に。


『ナニヒトツ』


それを行えば、一瞬隙が出来る。
防御の体勢は取れない。そして、そこを確実に大蛇は突いてくるだろう。牙なり、刀なり。それに、大きなダメージは期待できないだろう――……大蛇の体はおそらくダメージを軽減する。表面の鱗も。大きな体の狭い範囲を例え激しく殴られたとしても。
だから、それが目的なのだ。獣にも隙が出来る代わりに、大蛇の攻撃された箇所もすぐには動かせない。大蛇が噛み貫くか刺し抜くかよりも前に、次の攻撃を仕掛ければ良い。防御の姿勢なんか取らなくていい。闘えば良い。

ゆらりと獣は立ち上がる。瀕死に追い込まれた闘いの挑戦者は、最後の攻撃の為に、闘いへと舞い戻る。それは消えそうな、風前の灯にも似て。
大蛇が迫る。ゆらゆら揺らめく蜃気楼、紫の影。
――お前を倒すために――最高の好敵手を倒すために。その為だけに、この身を傷付けてきた。この爪を、この体を、血で染め上げてきた。幾度も幾度も。
獣の左肩に、がぷりと噛みつく大蛇。牙が食い込む。ちろちろと忙しく動く双眸。
見えていなかったものなど、何もない。この目には、この眸は、ただその存在をじっと見つめていたのだ。見えているものは、それだけで、良かった。
力を、込めた。噛み付いていた大蛇が何か察したのか、さっと離れ、後方に降り立とうとする。


開始――
――獣は低姿勢で飛び出した。大蛇と地面の間に割って入るように。ぐんぐん迫ってゆく、疾風のような素早さで、するり、とその身が大蛇の下に吸い込まれてゆく。ざっ、と勢いを止め、獣は足をバネに飛び上がり、蛇の頭へ突き進む。獣はその爪を丸め、両拳を突き出したような格好で大蛇にぶつかってゆく。
蛇の後頭部に両拳が幾度も叩き付けられる。幾度も。揺さぶられる大蛇の頭。衝撃で、大蛇は宙に浮いた。
獣は更にそれを狙う。後頭部にこの一撃を当てれば良い。拳を開き、爪を向け、高く高く飛ぶ。この一撃を、当てる。強い向かい風が獣にぶつかる。突き進む獣の腹部から、血は止め処なく溢れ、流れ落ちる。

獣の捉えるべき影が、ぐにゃりと歪んだ。
しかし、獣は惑わなかった。


くねった大蛇の体を、その爪は掠め、

まっすぐ、その爪は、標的を、切り裂いた。


『見えない眸』


その一瞬の後、すぐに激痛が襲った。ずきりと頭が痛む。
獣の視界が上下して、気持ち悪さが込み上げてくる。獣の体は落下していく。緩やかに落ちていく、そんな感覚。

しかし、そのスピードを、地面に叩き付けられた衝撃が断ち切る。


――腹部が重たい、と獣は思った。
傷口が深い。獣の瞼が、ゆっくり、閉じられていく。獣は、血に濡れそぼった自分の爪を見る。
引き裂くだけではない闘い方を、初めてしたかもしれない。
闘うことで最高の快楽を得て、そのままに命を消していくなら、それでもいいと、思っていた、と獣は考える。
それでも、こんな間際で、もう一つ、浮かんでしまった。願うなら、という言葉を、思いつく。

獣は目を閉じた。
いや、もう、そんなことはどうでもいい。にっ、と笑った表情を作る。
もう、笑っているのかだって、見えない。
大蛇を切り裂いたあの一瞬が、この双眸に焼きついている。だから、

……見えなくて、いい。


その獣の回想は、再び衝撃によって断ち切られる。獣の体から、血が噴き出した。
どさり、と横たわった獣の上に、巨大な大蛇が落ちた。大蛇の口から、ぼろぼろに砕かれた牙がのぞく。尾は、獣の体の上に。

大蛇の目は見開かれていた。そして対照的に、獣の目は、じっと閉じられていた。


*** ***

空が橙色に色付き始めた。黄昏時の光が、森の隙間からわずかに入ってくる。
遠い空では夕焼けが見え、間も無く月が空に現れ、森の深い緑は闇の中に沈んでいく。
そして、また照らすのだ。あの時獣を照らした、目映いばかりの月の光が。


――それは二匹の闘いの終わりを告げ、そして新しい時を迎えた印しでもある。
均衡の戻った二つの世界が、僅かに動き出すのだ。




 



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