『願い事』




ある年の七月九日。都内のマンションで母子二人が死んでいるのが発見された。母親は首をつり、七歳の女の子は首を刃物で切られての失血死。
ほどなくして事件は「無理心中」ということでまとめられた。


飯田家の隣部屋、園田家の主人敏郎の証言
「飯田さん――当時は三善さんなんですけどね――が引っ越してきたのは、そうですね……確か六年くらい前だったと思います。そう、ちょっと不謹慎な話ですけど当時確か中国で変なウイルスが大流行して大騒ぎしていた頃でしたね。ちょうどその頃だったのでよくおぼえてます。飯田さん夫婦と当時一歳になる亜美ちゃんを連れてね。
いや、ほんとにですね。うちにも今年六歳になる娘がいましてね。亜美ちゃんとよく仲良くやっていてまるで姉と妹みたいでしたよ。綾 ――ああ、娘の名前ですよ――綾はといいますと、もう葬儀も住んだのにどうやら飯田さんたちが亡くなった実感がまだないようです。仕方ありませんよ。今まで仲良かった友達が急にこの世からいなくなってしまった。そのことの意味がまだ分からないんでしょうね。心の整理がつくまでまだ時間がかかりそうですけど、ゆっくりと待つしかないですね」


飯田恵理子の元同僚、片岡恩の証言
「恵理子が自殺……ねえ。私、あの子と大学からの付き合いなんですけど、とても自殺なんて。はい。とにかく責任感の強い人だったわ。サークルは違ったけど――ちょっと忘れちゃったけど確か音楽系のサークルだったわね――そのサークルでもなんか重要な役について、それをしっかりとこなしてたわ。失敗をしても素直に謝罪もしてたみたいだし。ただ、責任感が強い分ちょっとプライドが高い部分もあったわね。自分に非のないことに対してのお咎めに対しては絶対に首を縦には振らなかったし」


園田家長女、園田綾のつぶやき
「亜美おねえちゃん、願い事かなったのかなあ……」


飯田恵理子の母、飯田祥子の証言
「娘と最後に連絡を取ったのは一週間前でした。亜美のこともあるし、借金も自分たちでなんとかするからそろそろこっちに帰ってきたらどうかって。そしたら『今度の七日に綾の小学校で七夕パーティがあるから、それが終わってから』って答えが来たんです。きっと綾の東京での学校での最後の思い出作りをさせたかったんでしょうね。それが……どうしてあんなことに……」


飯田綾の担任、櫻田孝雄の証言
「綾ちゃんは元気な子でしたね。何年も小学校で担任をやってたらわかるんですけど、その場にいるだけで雰囲気が明るくする。本当にそんな子でしたね。国語と音楽の時間が大好きで、算数がちょっと苦手、でも分からなくても一生懸命問題を解こうとしている、頑張りやでもありましたね。
七夕パーティですか? はい、私どもの小学校の恒例行事でして毎年七月七日にクラスに一つ笹の木が運ばれてそこに児童の手で短冊はもちろん、色々な飾り付けをするんです。なんだかクリスマスが混じっているみたいで変なんですけど、とにかく子どもたちは真剣なんですね。それで七夕が終わったら、笹の枝を細かく切って、その枝に児童一人につき一つの短冊をつけて持ち帰らせるんです。願いがかなうまで健気にこっそり隠す子もいれば、もうおおっぴらに親に見せてかなえてくれるようせがむ子もいる。
でも今年の綾ちゃんは絶対に自分の短冊を他の子、もちろん私にも見せようとしませんでしたね。いったい何と書いてあったんだろう。今となっては知る術もないのですかね」


事件を担当する刑事、貝島秀雄の報告
「死亡推定時刻ですけどね。なんか妙なことが分かったんですよ。娘の飯田亜美ちゃんが殺されたのは八日の午前十時から十一時までの間。でも、飯田恵理子が死んだのは九日午前七時から八時の間。だいたい七時間から九時間の空きがあるんですよ。この間飯田恵理子は何をしてたんでしょう? 無理心中を決意して、亜美ちゃんを殺した後、しばらく死ぬのを躊躇ってたんでしょうかね? それとも何か別のことをやっていたとか」


飯田恵理子の父、飯田武の居酒屋でのつぶやき
「クソッ! あのぼんくら男め……恵理子と綾があんなことになったってえのに、未だに姿を見せねえで。いったいどこをほっつき歩いてんだ……」


飯田恵理子の蒸発した夫、三善義信の母親敦子の証言
「もはや、義信のことを息子だとは思っていません。今回の事件の大元もきっとあの馬鹿息子のせいにあると思っています。飯田さんのお母様にいったいどう顔向けしていいやら……。はい。義信が蒸発したのはもう二年も前のことです。何の前触れもなく突然いなくなった。当時の恵理子さんが言うには、蒸発する前日までいつもと変わらずに亜美ちゃんが眠るまでお相手してたとおっしゃってました。それがその次の日に『そちらに義信さんが来ていませんか』って。どういうことかと問いましたら『仕事に行ってないらしくて、会社から電話があった』んですって。
もうそのとき頭の中が真っ白になりましたね。確かに義信は昔から何考えてるか分からないところがちょっとありましたけど。まさか妻と子どもを残して居なくなるなんて。しかも家の貯金通帳から全額お金を下ろされて」


再び片岡恩の証言
「恵理子が会社を辞めたのは、義信さんと結婚したからよ。式にも呼ばれたわ。子どもにまで恵まれて本当に幸せそうだった。それがいきなりの夫の蒸発だなんて。恵理子がいったいどんな気持ちだったか、私にはわかんないけど本当に大変だったと思う。この不況でしょう? 当然再就職先なんてなくて、パートでなんとかやりくりしてたみたい。
恵理子、最初は居なくなった義信さんが帰ってくることを信じて、私が心配して電話しても『大丈夫よ。すぐ帰ってくるに決まってる』って言ってたわね。でも、やっぱりそれにだんだん耐えられなくなったんでしょうね。最近では『家庭を平気で捨てるなんて』とも呟いてた。でもそのあと慌てて訂正したんだけどね」


再び飯田祥子の証言
「恵理子はいなくなった夫を信じる気持ちと憎む気持ちで激しい葛藤状態にありました。しかも義信さんがあろうことか多額の借金を残してたんです。今から思えば反対する娘を引っ張ってでも実家に戻せばと悔やまれてなりません。責任とプライドが強い娘でしたから、この件に関しても誰の手を借りずに一人で解決しようとしてました。一度私たちのほうから押しかけて恵理子のところに行って説得したんですけど『亜美をせっかく作った友達から離れ離れにさせたくない』と。娘想いだったと思うんです。私たちもついに引き下がって、恵理子の好きなようにさせました」


飯田恵理子のパート雇い主、浦田道夫の証言
「飯田さんは本当によく働いてくれました。彼女が担当する日は他の日よりも成績がいいんですね。それもあってでしょうね。時給を上げてくれと必死に頼み込んでたんですよ。きっとよっぽどご家庭が経済的に切羽詰ってたんでしょうな。今から思えばもっと待遇をよくしてあげればよかったかもしれないと思うと、やり切れませんよ本当に」


再び園田綾のつぶやき
「亜美おねえちゃん。短冊見せてくれなかったなあ」


園田敏郎の妻紗枝子の証言
「ここ最近恵理子さんへの借金の取り立ては酷くなる一方でした。取立て屋って本当にあんなことするんですね。扉に『泥棒』だの『金返せ』だのと書きなぐった貼り紙をしたり、一度やくざっぽい人が扉をドンドンと荒っぽく叩きながら『泥棒猫!』と叫んでたこともありました。見かねて夫と相談して、借金をいくらか肩代わりしようと提案したんです。そしたら恵理子さん断固拒否して『自分でなんとかするから』って本当に責任感の強い人だったんです。
確か事件の起こる前日でしたかね。ちょっと少し買うものがあって近くのコンビにへ行った帰りでした。階段を上ってる途中、恵理子さんが血相を変えて出かけるのを見たんですよ。片手に携帯電話を持って誰かと話しているようでした。その相手が誰なのかは分かりませんでしたけど。ただこれは単なる勘なんですけど、きっと相手は義信さんだったんじゃないかなって思うんですよ。
え? 亜美ちゃんが死んだのは前日の午後十一時ぐらいですって? そんな、じゃああのとき既に部屋には亜美ちゃんの死体があったってことですよね……? 恵理子さんは亜美ちゃんに手をかけたあとにどうして……?」


三善義信の古い友人、三枝昭信の証言
「事件の起こる前日にです。あいつから電話があったんですよ。すぐに言ってやりましたよ『恵理子さんをほっといて、どこをほっつき歩いてるんだ!』って。そしたらあいつ、適当に言葉を濁しながら『明日恵理子に会いに行くつもりだ』って言ったんですよ。俺はとにかく恵理子さんに謝れよって何度も釘を刺しましたよ。許してくれなくても絶対に謝れって。そのことに夢中になってどうして蒸発したのか、その理由を聞きそびれてしまいましたがね」


飯田祥子の証言
「ええ? 恵理子が事件のあった日に義信さんに会っていたですって? そんな。恵理子は彼に会うなんて、ええ一言も。」


飯田亜美のクラスメイト西川桜、友達との会話で
「あたし実はちょっとだけ見ちゃったの。亜美ちゃんが短冊に何かいてたか。『お父さんがきますように』って」


貝島秀雄とその先輩小野原圭一の会話
「酷い話さ」
「え?」
「おそらく飯田恵理子は表面的には三善義信を信じているかのようにふるまっていたが、その実この上ないくらい憎んでたんだろうな。当然さ。ある日突然貯金まで下ろされて蒸発された上に、多額の借金を押し付けられてな。憎まない奴が居るなら、そいつは聖人か神さんぐらいのもんだろうよ」
「それでにっちもさっちも行かなくなって心中を」
「そうだな。その引き金になったのが飯田亜美の短冊さ」
「あれが?」
「ただでさえ、借金に負われてその日の生活にも追われてストレスと夫への憎しみが極限状態のときに、『お父さんがきますように』なんていう娘の願い事を見てみろ。きっと錯乱状態に陥っていつのまにか娘さんを殺しちまっていた。
それからいくらか呆然となった状態で、義信から電話がかかってきた。このときの飯田恵理子の心情はどうだったろうな。自分たちを見捨てた夫のせいで娘を殺してしまったというのに、その夫から電話がかかってきた。しかも『お父さんがきますように』の願い事がかなったときたもんだ」
「それから、彼女は三善義信に会いに行ったと」
「そうだねえ、それからまた二転三転あって部屋に戻って自殺した」
「じゃあ三善義信は?」
「……。おそらく飯田恵理子に殺されたんだろうよ。どんな思いだったんだろうな。実の娘に手をかけて、その原因となった夫に会った。俺だったらそいつに何かしない方がおかしい。それから夫への復讐を果たした彼女は部屋に戻り首をつった……」

その翌日、東京湾で三十代後半の男の水死体が発見された。ほどなく身元は三善義信であると判明する。


飯田綾のつぶやき
「願い事、かなうといいな」


西川桜のつぶやき
「あたし、もう来年のお願い事きめてるんだ」



―終―



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