どこかの森のはずれ、海に面した崖の上。
青々とした木々は崖の周辺には無くて、白い花が点々とした草原がそのピチューのお気に入りの場所だった。
潮風は少しだけ目にしみるけれど涼しくて、心地よい。
彼がこの場所を今日訪れてからどれだけ時が経ったのだろうか。彼等には時計というものがない。けれど必要もない。お腹がすいたら何か食べて、眠くなったら眠る。ただそれだけ。
一つ小さな欠伸をピチューはした。

彼の名前はレン。

レンは起こしていた背中を地面につける。寝転がった顔は空に向いている。今日は本当にとても良い天気で、透き通るほどに青をバックに雲が薄く伸びている。
雲はゆったりと流れている。レンはその様子を目で追いながら、そっと小さくて短い手を空に伸ばした。
掌を握る。けれど掴んだものは何もない。その手のむこうで雲は浮かぶ。
目を細めるレン。微風がささやかに通っていく。

レンはとても空に憧れていた。
あの雲に触れたいと何度思ったことだろうか。
けれどピチューである彼は空を飛ぶことは一生叶わない。レンはいつか雲を掴めるんじゃないかという淡い希望の裏で、それは無理なんだろうなとも思っていた。
レンは雨の降っている日以外はほぼ毎日のように、この崖の上、草原の上に座っている。今日のように天気の良い日は昼寝をすることも多々ある。
この場所で、ひとり、時間を過ごす。
空をぼーっと見ることはレンにとって楽しみであって、何故か飽きることなど全く無かった。
波の音が遠くで鳴っている。

「空飛べたらなあ……」
ポツリとレンは呟いた。伸ばしていた右手を草原に下ろす。
あおむけのレンの視界には空しかなかった。広くて、どこまでも抜けていきそうな空。あそこを一度でいい、飛んでみたい。
風を一身に受け、海の上を走り抜けるのだ。あの青い場所へ向かいたい。
そんなことを考えているだけでも胸がわくわくする。それが決して叶わない願いだとしても。


その時、一匹の青くて羽根が白い鳥がレンの視界に入った。
レンは大きな黒い目を丸くする。鳥の身体の色が大きく広がる空と同化している。羽根は雲のようにもこもことしていて、まるで小さな雲が飛んでいるようだった。
いや、それより、その飛び方が不安定で今にも落ちてしまいそうだった。
と、青い鳥は方向をくるりと変える。レンはゆっくりと起き上がりその様子を見つめる。鳥はふらふらとしながらレンの方へ向かっていた。
だんだんとその姿が大きくなってきた。といってもやはり小さく、レンとさほど変わらない。
鳥がレンの目の前に来る。小さな足を崖の上に着地させた鳥は、雲のような羽根を身体にくるむように畳む。

チルットだった。
レンは突然の訪問客にただ唖然としていた。突如チルットは身体を大きく振るって身体の埃を払う。
ふう、と深い息をつくと、下に向けていた顔を上げてレンを見て、少しだけ笑った。

「ごめんね突然。ちょっとここで休憩してもいい?」
「えっ……あ、うん」
「ありがとう」
チルットは羽根に隠れた足をたたんで草原に座りこむ。レンはまじまじとチルットの姿を見つめる。本当に空と同じ色合いだった。空が鳥になってレンの前にやってきたようだった。
レンがあまりにも凝視している為に、チルットは少し困った様に首をかしげる。
胴体と頭が同じようなものだから、実際は身体ごとかしげているようだった。

「どうしたの?」
問うてきた言葉にレンは身体をびくっと震わせて頭を左右に思いっきり降る。震わせた瞬間少しだけ電気が走った。
「なっなんでもないよ! ……その」
レンは手をもじもじと動かしながらうつむき、一度言葉を切る。
チルットは更に深く首をかしげ、その様子に蓮は少し慌ててまた口を開いた。

「空と、似てるなあ……なんて、思って……」
レンはちらりとチルットを見る。
チルットは二、三回瞬きをする。その後、身体を小刻みに震えさせたかと思うとチルットは声をあげて笑いだした。
レンはどうしたらいいか分からず、顔中が熱く火照るのを感じた。

「おもしろいねっ君!」
チルットは満面の笑みを浮かべて言う。
「そんなこと、初めて言われたよ!」
「そ、そうなの?」
「うん」
チルットは頷くと足で軽く跳んでレンに一歩近づく。
レンはそれと同時に小さな心臓が大きく跳ねるのを感じた。

「僕はトッチ。君は?」
数秒間沈黙が訪れる。その間にレンは理解した。相手は自己紹介をしたんだ、と。突然の事で頭がついていってないのだ。
チルットもといトッチはうずうずと身体を軽く上下させてレンの返答を待っていた。
レンは口を何度か魚のように開けたり閉じたりしながら、相変わらず手をいじっている。
「レ、レンだよ」
「よろしく、レン!」
柔らかく笑うトッチに、今まで緊張で固くなっていたレンの表情がゆるくなって、自然と笑みがこぼれた。
その様子を見たトッチは表情を更に明るくさせた。笑った、と声をあげ嬉しがる。レンはちょっと驚いたが、やっぱり笑っていた。

「レン、君はいつもここにいるの?」
トッチは声を弾ませながらそう尋ねる。レンは少し首を傾けながらもそっと頷く。
「そっか。じゃあまた明日、ここに来るよ」
「明日も会えるの?」
レンはさっきとはまた違った興奮で顔を赤くしながらトッチに顔を少し近付ける。トッチは何度か頷く。
「会いにくるよ」
言い切ったトッチはレンに背中を見せると羽根を広げた。
ばいばい、とトッチは少し振り返ってから一言残すと、羽根を動かした。先程の不安定さは取れて、トッチは真っ直ぐに空に飛んで言った。
その様子をレンは見えなくなるまでずっと見つめていた。胸が高鳴っているのを抑えることができなかった。
ぺたんと腰を下ろす。とても楽しかった。興奮が小さな身体を駆け巡っている。

また明日も会える。
それが楽しみでたまらなかった。





その次の日。また天気に恵まれて、心を躍らせてまた崖の上にやってきた。
まだ誰もいない。朝の空気がレンの身体を刺す。少しひんやりとしていて、草原には朝露がついている。歩くと水が足元で弾けた。
レンは同じ場所に座った。空を見上げる。変わらない雄大な空がある。

それから数時間待つ。うずうずとしていた心がだんだんと沈んでいく。
もしかして忘れたんじゃないだろうか。そうだよ、昨日ちょっとだけ話しただけなんだから。
そうレンはいじけ始めると、聞き覚えのある声に大きな耳を立てた。
立ちあがって崖の先まで足を運び、目に入ったトッチの姿に暗くなっていた表情が明るくなっていった。

「レン!」
「トッチ、来ないかと思った!」
「えっ……ごめん」
「ううん、僕が早とちりなだけだから」
少ししゅんとしながら地上に下りたトッチにレンは少し申し訳なく思いながらも、だけどやっぱり嬉しさで心が先走りする。
トッチは俯かせていた頭をあげてにこっとレンに笑って見せる。レンはそれを見て思いっきり笑った。
昨日の緊張はもう無かった。心はトッチを完全に許していた。新たにできた友達にレンは心が躍っている。そしてそれはトッチも同じ。

二匹はお互いに様々な話をして、笑いあった。
そんな日々が、しばらく続いていった。




ある日の夕方、レンは崖の上から戻ってきて、一人木に上り木の実にかぶりつく。顔はまだ笑っていた。
その日レンはトッチに木の実を持っていったのだ。それはこの森に沢山できているマトマの実。
それを薦めるとトッチはわくわくしてかじりつき、が、そのあまりの辛さに辺りを跳ねまわった。その様子がレンの期待以上でとても面白かったのだ。
今レンが食べているのはモモンの実でとても甘い。彼のお気に入りだ。

「おい、レン」
呼ばれた声にレンは振り向いた。隣の木には二、三匹のピチューがいた。少しだけレンより身長が高い。
真ん中にいるピチューは強気そうに手を腰に当てて、レンの持っているモモンの実を見やる。
「おいしそうなの持ってるな。ちょっとくらいくれよ」
「え……」
「いいからくれって」
真ん中のピチューはレンのいる木に跳ぶと無理矢理レンのモモンの実を取り上げる。その反動で枝が揺れて、レンはバランスを崩す。
レンは息を止めた。小さな足が滑り、まっさかさまに落ちていく。
水の大きく跳ねる音が周りに響く。レンが落ちた所は少し深い水たまりであった。昨日の雨水がまだ蒸発していない。
大した高さじゃなかったため怪我はなかった。レンは頭を思いっきり振る。身体中に泥がついているのが分かった。
ピチュー達はその様子を見て大きな声で笑っていた。
息を呑むレン。二匹隣り合っているピチューのうちの一匹が舌を思いっきり出した。

「やーい色違いやろうっ」
そう舌を出していたピチューは叫び、それに合わせて残り二匹もレンを馬鹿にする言葉を吐く。
レンは身体が震えるのを感じた。何も言えなかった。何か言いたい、だが言葉が出てこない。涙をこらえる。泣いたら負けてしまう気がした。

レンは他のピチューと大きく違う点があった。
それは、身体の色が違う事。ほとんどのピチューは薄い黄色だが、レンの身体は濃い黄色であった。





「僕、トッチに生まれたかったな」
レンはぼそりと呟く。二匹が出逢ってから二十日ほど経った頃だった。
トッチは目を瞬かせる。レンは何かを諦めているようにははっと笑う。
「こうやってトッチといられる時間が一番幸せだ」
少し淋しげに言うレンの様子をトッチは逃さなかった。トッチはレンの隣にいたが、足を動かすとレンの目の前に来て座り込む。
そしてレンの顔を覗きこむ。

「レン、どうしたの?」
それを聞いたレンは少し驚いた顔をして、が、すぐに悲しそうな顔をして顔を俯かせる。
トッチはレンの様子を見てただ黙っていた。空気が少し重くなる。少し強い風が吹き抜けた。
しばらく沈黙が続き、いつも先に話題を提供するトッチもレンの次の言葉を待ち続ける。
波が揺れる音だけが辺りに響く。太陽が雲に隠れて少しだけ暗くなる。
レンはそっと口を開いた。

「僕さ、身体の色が他の僕の仲間と違うんだ」
「……うん」
トッチは深く頷いた。トッチは以前から気になってはいた。レンは何か違う、と。ただそんなことはトッチにとって問題ではなかったから、言及はしなかった。
レンは頭を俯かせたまま続ける。

「そのことで、ちょっと仲間外れにされがちで……だから、この場所によく来たんだ。一人だけどここにいて空を見ていたら忘れられたんだ……」
自然と出てくる言葉が止まらない。涙があふれてきそうだった。これまでずっと我慢してきたものが雪崩れ込んでいく。
それをトッチはたまに頷きながら真剣に聞いていた。

「空を飛べたら、そうしたら逃げていけるのに……」
息を呑むトッチ。どんどん出てくる涙がレンの顎から草の上に落ちる。鼻水も出てきた。
苦しい。レンはずっと心の中で助けてのサインを出し続けていた。空に飛びたい。飛びたい飛びたい。だけど飛べない。だから、誰か、助けて。苦しいんだ。
しばらく沈黙を貫いてきたトッチだったが、レンが少し泣きやんできたであろう頃に、口を開いた。

「レン、逃げちゃダメだよ」
「……」
真っ直ぐとしたトッチの言葉に顔を上げる。トッチは顔を歪ませていた。
「逃げちゃダメ。それで辛いのは今だけだよ。この世界は広いから……逃げたってまた辛いことが待ってるだけだ」
「でも」
「僕、レンの身体の色、綺麗で好きだよ」
トッチははっきりと言い切る。その言葉でレンは驚いたように目を丸くする。

「でもレン、飛ぼう!」
「……え?」
突然の発案にレンは思わず声をあげる。レンは羽根を広げる。顔は見るからに本気であった。
状況についていけないレンは呆然としている。トッチは大きく一歩踏み出し、レンに顔を近付ける。それがけっこう迫力があって、レンは少し怖気づいて顔を後ろに下げる。
涙はいつの間にか止まっていた。

「前から言ってたよね、飛びたいって……僕、レンの願いをちょっとだけでも叶えてあげたい。レンは……友達だから!」
はっとさせるレン。友達、という言葉がレンの心を弾ませる。太陽が再び雲から顔を出した。
トッチはレンの背後に早歩きで向かっていき、背中をレンに向けて少し身をかがめる。
空と同じきれいな青い身体がむき出しになって、レンの座る場所を作っている。それを見つめるレン。高鳴る心。ゆっくりとレンは立ち上がる。
トッチの身体に両手をかけた。

「ほ、本当に乗るよ?」
最後の確認というのだろうか、レンは少し声を震わせる。トッチは大きく頷いた。
「乗る、よ!」
レンはそう言った途端に足を地面から離し体重をトッチに任せる。その瞬間レンの重さにトッチは怯みながらもなんとか持ちこたえる。
羽根を広げてゆっくりと一歩足を踏み出すトッチ。トッチの鼓動は早くなっている。それが乗っているレンにも分かった。
本当に飛べるのだろうか。だけど、飛びたい。レンはこの時を待ち望んでいた。

いくよ!
トッチはそう叫ぶと走りだした。レンより少しだけ大きくて体重が重いトッチは、少しふらつきながらも懸命に走る。
誰かを乗せて飛んだ経験など当然トッチには無い。未だに自分だけで飛ぶだけでも体力を大量に消費しすぐに疲れてしまうのだ。
だけど、レンのために飛びたかった。飛んでやる。心に固く誓う。
トッチは翼に力を入れる。地面を蹴った。レンの心臓が大きく鳴った。トッチは羽根を動かす。懸命に。
だが、羽根を動かしても飛びあがることができず、前方に転んでしまう。レンは反動で落ちた。

「レン!」
トッチは慌てて立ち上がりレンの元に駆け寄る。レンはゆっくりと立ち上がり、笑ってみせた。
「大丈夫」
「ごめん……次は飛んでみせるから!」
そう言ってトッチはまた背中をレンに向ける。レンは再び身体をトッチに乗せる。
今度こそ。駆けだす足。空に向かって跳ぶ。が、またレンの重さに飛ぶことは叶わなかった。転びこむ。失敗だった。
トッチは悔しそうに顔を歪ませる。その姿を見てレンは申し訳ない気持ちが心に漂うのを感じた。やっぱり無理なのかも、そんな諦めが圧し掛かる。
だけどトッチは諦めなかった。顔を上げて、起き上がる。レンをまたしっかりと乗せると、走る。跳ぶ、だけど飛べない。

その日はずっとそんなことを続けていた。
途中レンは何度ももういいよ、と言ったがトッチは首を振り続けた。絶対飛ぶから、と。
だけど、決してレンは諦めない。太陽が西に傾きオレンジ色の光が辺りを包み込む。一度も成功しなかった。

「もう何百回もやったよ! もういいよ、トッチ。僕があんなこと言ったから。ごめんっだからもういいって!」
「何言ってんだよレン。もう一回だ!」
鬼気迫るような表情で訴えるトッチ。その迫力に負けたレンは迷いながらもトッチに乗ろうとする。
その直前で、レンは動きを止めた。

「どうして……どうしてそんなにトッチは諦めないでいられるの?」
レンは思わずそんな言葉を吐く。正直信じられなかった。さっきの言葉は冗談ではなく本当に何百回も挑戦していて、だけどトッチは飛ぼうとする。ぼろぼろになっても。疲れても。
トッチは振り向くと、しばらく考え込むようにレンを見つめ、それからにっこりと笑った。
「諦めが悪いのが、僕の長所だから! とでも言っとこうか」
「……なんだよそれえ」
「いいから。さ、乗って!」
レンは溜息を鼻から少し吐いて、トッチに身を任せる。
走りだした。

跳ぶ、その直前、トッチは突然倒れ込んだ。レンは予想していない事が起こって、トッチから落ちた。
トッチは草原に羽根を広げたまま倒れている。レンの中に焦りが走る。急いでトッチの元に駆け寄る。
相当の疲労がトッチにかかっていたようだ。ずっとこんなことを続けていて疲れない方がおかしい。レンは責任を感じる。
「トッチ、トッチィ! トッチってば!」
「……レン」
小さく絞り出したような声がトッチの口から零れて、レンはトッチに顔を近付ける。

「ごめん、ちょっと力が抜けて……飛べなかった……ごめん……」
「ごめんは僕の方だよ! なんでこんなになるまで続けてたんだよお! 僕は……僕のせいでっ」
「さっきも言ったでしょ。僕は諦めが悪いのが長所だからさ……でも、ごめん、ほんとに」
相変わらず弱弱しい声だった。
レンは思いっきり首をふる。それと同時に涙が零れ落ちて、トッチの羽根についた。
トッチは羽根に力を入れてゆっくりと震えながら起き上がる。レンはその様子を見つめる。トッチの顔は俯いていた。
「そろそろ帰らないと」
「トッチ……」
「ごめんね、レン。またね」
ふらふらとした足取りで崖の先へと向かうトッチを止めることがレンはできなかった。トッチの歩調に合わせてレンは後を歩く。
トッチは羽根を広げる。崖のむこう側へ向かって飛び上がる。やはりその動きは不安定で、レンは息を止めた。が、なんとか持ち直して、トッチは飛んでいった。
ずっと、向こう側に。





トッチと会わなくなってから一カ月ほど経った。
レンは毎日雨の日も崖の上に向かったが、トッチに会うことは叶わなかった。
全く消息が分からないためにレンは最悪の事態も頭をよぎった。それを百パーセント否定することができない。何も分からないのだ。不安で不安で仕方がなかった。

今日は少し厚い雲が浮かんでいながらも晴れた日である。レンは元気を失っていた。
もしかしたら今日こそトッチに会えるかもしれない。そんな希望もだんだんと薄くなってきていたけれど、昼頃にレンは崖へと向かう。
その途中。

「レン!」
その声にレンは振り返りたくなかったが、渋々後ろを見ると、思った通りだった。普通の身体の色をしたピチュー達、今回は五匹だ。
真ん中のリーダー格のピチューが一歩レンに歩み寄る。
「今日もあの崖に行くのかよ」
「……そうだけど」
「あの鳥に会うためにか?」
レンは身体を震わせてはっと息を止めた。動揺したように目がくりくりと動く。リーダーのピチューはにやりと笑う。
「お前、捨てられたんだろ」
少し下を向いていた顔を弾かれるようにレンは上げた。目の前にいる五匹はレンを見下げるように視線を刺す。
「しょうがないよな、お前みたいな普通と違ってて陰気な奴なんか、あの鳥も嫌になるさ」
「ちがう」
「違くないさ。嫌気が刺したんだよ。だけど、あの鳥もかわいそうだな」
くっくっと相手は喉の奥を鳴らす。レンは何かが込み上げてくるのを確かに感じていた。
「お前の友達を気取ってた変わりもんだ。相当変な奴だろうな」

レンは頭の中がまっしろになった。何かがぷつんと切れたのだ。
それと同時にレンはリーダーのピチューに飛びかかっていた。考えるより先に身体が動いていた。思いっきり体重をそのピチューに乗せ、右手を握り相手に殴りかかった。
周りにいたピチューは何が起こったのか分からず、そして殴られたピチューは怒りをむき出しにしてレンを思いっきり押した。が、レンは負けじと押し返す。
涙がレンの目から零れ落ちていた。
「トッチを馬鹿にするなっトッチは、トッチは……!」
レンはまた右手を握る。しかしそれより先に興奮で放電が起こった。周辺をその電気が弾けた。
感情のむき出しで自然と起こったことだ。放電が終わると、レンはふらつきながらピチュー達からゆっくり離れる。
「トッチを馬鹿にしたら許さない!」

その時。


「逃げろおおおっ!!」


悲鳴に近い声が森中に響き渡り、レンは顔をあげる。放電によってダメージを多大に受けたピチュー達は、よろよろと身体を起こして振り向く。
思いっきり走ってきたのはピカチュウだ。ピカチュウはピチュー達を見つけるとその前で一度止まる。
「早く逃げなさい! 人間が来た!」
「人間!?」
レンは驚いた声をあげた。ピカチュウは頷く。人間――レンは未だ見た事がないが親から話は聞いていた。
「私が確認しただけでも二人……どこまで深く入ってくるか分からない! 奴ら、仲間を何匹か捕まえていった!」
息を呑むレン。とにかく逃げろ、とピカチュウは一声かけるとまた走りぬけていった。
ピチュー達は突然のことに戸惑いながらも自身の危険を察知し、悲鳴をあげながら一目散に逃げていった。
だが、レンは先程エネルギーを使いすぎたために走るほどの力が大して残っていない。


『おい、見ろ! 色違いのピチューだ!』
聞いたことのない声にレンは後ろを振り向く。すると、まだ遠い場所にだが二人の若い男性がいた。レンにとっては初めて見る人間。恐怖が湧きあがる。
『珍しいな……捕まえるか』
『ああ!』
何を言っているのかレンにはよく分からなかったが、とにかく危険だと思い必死に走りだした。
身体の節々が痛い。電撃の衝撃がまだ残っている。
とにかく早く逃げないと。レンは開いた道を外れて木々の中へと身体を投じる。周りに仲間はいなかった。
どれだけ逃げれば逃げ切ることができるのか、レンには分からなかった。

その時、後ろの方で轟音がしてレンは身体を震わせ走りながら後ろを見る。
ずっと遠くの方で、木が倒れている。ストライクが木を倒しながらレンに向かってきている。レンの心臓の鼓動が激しくなっていく。
レンは小ささ故に一生懸命に走ってもあまり距離を稼げないうえに体力が少ない。もう限界であった。お母さん、お父さん助けて! 心の中で叫ぶ。
この森を完全に把握していないレン。自然と足が向かう先はあの崖の上。
が、そこに行けば完全に行き場を失ってしまう。そんなことはレンの頭から飛んでいた。

風は向かい風気味だ。その中を突っ切っていく。スピードは確実に落ちていた。ストライクとの距離が確実に縮まっていく。
木が倒れていく音だけをレンの耳がキャッチする。震えが止まらない。手足だけが必死に動いていた。
その時、レンの走ったすぐのところに攻撃が入る。風の刃――かまいたちだ。レンはあやうく転びそうになったが走る。
助けて!


「レン!」


レンはその声にはっとする。懐かしい声。空と同じ色をした身体。

「トッチ!」
ずっと会いたかったレンの友は少し開けた森の先、崖の上にいた。レンは急に身体に力が溢れてきたのを感じた。
「レン、僕に乗って!」
必死に叫ぶトッチ。どうやら状況は分かっているようで、レンの後ろにいるストライクに目をやる。もう十メートルほどしか差がない。
あれに捕まれば一巻の終わりだ。
その前にトッチはレンを乗せて飛んで逃げるつもりだ。ストライクは羽根があるが飛べない。
トッチはレンがすぐに乗れるように背中を向ける。レンは少し戸惑う。しかし、もう大分近いところでストライクの叫びが聞こえた。
迷っている暇などなかった。
レンは決心してその背中に乗る。その瞬間トッチはダッシュをかける。気のせいか、以前より力強くレンは感じられた。

「僕、君を乗せて飛べるように、いっぱい力をつけたんだ!」
トッチは声を出す。ストライクはもうほぼすぐ近くにいた。止まればその瞬間に捉えられる射程内。
ストライクは奇声を上げて右手の刃を振りあげた。崖の先、トッチは地面を蹴った。レンは目を思いっきり瞑った。
瞬間、トッチは羽ばたきを止めずに体勢を立てる。風はいつの間にか彼等を押していた。トッチとレンは大空へと飛びあがった。


レンは目を開いた。
そこには見た事のない景色があった。
海だけが下に広がり、上には空しかない。潮風が身体中を撫でる。呆然としながらも目を輝かせてレンは辺りを見回す。
後ろを少しだけ見やると、崖がどんどんと遠のいていく。ストライクが二匹を見つめている。
息切れをしながらレンはようやく安全を確信し、ほっと息をつく。

「レン」
トッチは優しくレンに話しかける。
その声にはっとしたレンはトッチを見下ろす。トッチは柔らかく笑って目だけレンを見ていた。

「トッチ……っ」
大粒の涙がレンの目からどんどんと溢れだしてくる。トッチも一つ、涙を海に落とした。
「ありがとう……ずっと会いたかったよ!」
「僕もだ。ずっと来れなくてごめんね。レンを乗せて飛べる自信ができたら行こうと思ってたんだ」
諦めが悪いからとトッチは笑う。レンの呼吸は正常に戻ってきて、汗だけは止まることなく額から落ちている。
トッチは更に上昇する。

「どう、空を飛ぶ感覚は」
弾んだ声で問いかけるトッチ。その言葉にレンは満面の笑みを浮かべた。
どこまでも澄んだ青い空。朝は少しだけあった雲は消えていて、ただ一面に蒼だけが広がっていた。
レンは大きく口を開く。

「最高だよ!」


太陽が二匹を輝かせるように照らしている。


fin.



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