夢の中に響く





静かに
夢の中に響く
言葉、

 


 彼女が自由だと思えたのは、最初の幾日のみであった。
つまりその自由がただの退屈でしかない、と彼女はようやく気づいたのだ。そして自分に与えられた自由というものは、名ばかりの自由、ほんとうは厄介払いするための口実であった、と。
―― そう、思ったときに。彼女の心の奥から、どろり、と黒ずんだ感情が流れ出してきた。
平穏という仮面を割って流れ込んできた感情は、自らをこの洞窟の奥地に棄てていったあの人間を憎むものだった。何故置いてゆかれたのか。何故。何故? その刹那、彼女の脳裏に次々とあの日の記憶が甦った。

 あの日、洞窟に立ち入り、彼女と“主人”が離れたあの時まで。

 


 

 


回想、
回想、
あの日の思い出。

あの手は彼女を棄て、もう一つの存在を掴んだ。手持ちの中で最も弱かった彼女はあっけなく手放された。離れる手。水の中へ沈むボール。
水の中で彼女は放たれ、同時にトレーナーの束縛から解放された。勿論彼女はトレーナーの姿を追おうと水上へざぶりと上がった−―トレーナーは彼女の顔すら見ず、ただ一言だけ言った。
「しばらく自由に泳いで来いよ」
彼女は嬉々とした声を上げた。前足で水を跳ね上げる。そのとき、トレーナーの腕の中で何かが鳴いた。そしてそれは、トレーナーの腕の中からにゅっと顔を出してみせた。鮮やかな青色をしたそれは、腹の部分が白かった。顔の両側には真っ白いひれがついていた。ぴくぴくと動いているそのひれを見ると、どうやら耳なのかもしれない。おでこの部分の白っぽいところ。……
そして、つぶらな真っ黒い瞳はまっすぐ彼女を捉えていた。“それ”との対峙の瞬間――彼女は素直にその存在を美しく感じ、見惚れていた。蒼と白の体色の調和も、雫に濡れた瞳にも。
「どうした」急くような口調でトレーナーは言った。彼女は我に返ったようにざぶりと水中へと潜っていった。……しばらく、という意味が永遠、だということに、彼女が気づけたわけもなかった。あの見惚れていた存在に自分の定位置を奪われてしまったことなど。

 


 


ああ君はわたしとのじかんをすてていったんだね

やがて彼女が水上へと戻ってきたときに、トレーナーの姿は既に失せていた。三日ほど、彼女は辛抱強く待ち、幾度と無くその高い声を上げた。そしてその声はただ洞窟の岩壁に吸収されていった。
そして、三日目。彼女の喉は鳴き続けたために痛んでいた。ひりひりとした感触を彼女は感じ、つと鳴くことをやめた。
――彼女が鳴くことを止めると、ぴちょん、と雫が天井から零れた音がした。――音のするほうを、彼女はそっと見た。くるり、と振り返るような格好で。そこには真っ暗な空間が広がっているだけ。見上げれば、闇に隠れた洞窟の天井がある。
いらない、という声が聞こえた気がした。あの声色で、いらない、と。棄てられた、という一つの可能性が過ぎる。さっとかすめていったその可能性が、だんだん色濃くなっていく。再び彼女の脳裏に戻ってくる。知能の高い種族である彼女は、皮肉なことにそれを理解するのも早かった。
彼女の目に、闇から伸びてくる手が映った。一つの手が伸びて、また一つの細い手がそれを追うように伸びてくる。長い爪。彩られた赤色の爪。伸びてくる。ほら、また一つの手が。爪が伸びてくる。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、彼女に向かって伸びてくる――その手の中に、ひとつの見覚えのある手が紛れている。傷だらけの、絆創膏だらけの、あの、あの、手。自分を棄てた、あの、手。

おまえなんていらないいらないいらないいらない邪魔だいらないおまえなんておまえなんておまえなんておまえなんておまえなんて


い、ら、な、い。

――瞬間、彼女の双眸がすっ、と細くなる。怒りを越したこの感情は。漲って行くこの力は。迸ってゆくこの冷気は。彼女はいつものように、「トレーナーに指示された時の様に」口をカパリと開け、冷気を一気に解放した。ただ、少し違ったのは、威力がまるで違った、と言うこと。
見る見るうちに岸壁が凍る。冷気が岸壁を登っていくように。

彼女はじっと暗闇を睨めつけた。暗闇の中に、彼女はぼんやりとあのトレーナーの姿を思い出す。私との時間は、全て棄てられるものだったのか。それならば、いっそ、いっそ、

 痛めた喉を無理矢理使い、彼女は声を張り上げた。
わたしを、なんで、棄てた――その問い掛けを大声と共にあのトレーナーに、記憶の中のあのトレーナーにぶつける――答えなど無い。それを分かっても許せなかった。悲しいのか、怒りなのか、哀しみなのか、痛みなのか、どれにしても彼女には重たくのしかかってくる感情しかなかった。


 


血に塗れ、
闇に隠し、
氷の中に閉じ込め、
色彩を無くす、ように、

 さすがに大きな音がした為か、それとも吸血の獲物を辿ってきたのか、数匹の蝙蝠がばさり、ばさり、と羽音も大きく洞窟内に侵入してきた。いや、実際には蝙蝠だけでなく、彼女もれっきとした侵入者だが。
鋭い牙は彼女の血を求め、進化して得た眼は彼女の姿を捜し求めていた。彼女の姿をその眼で認めると、素早く急降下していった。バサバサバサという羽音が、彼女に近づいていく。黒い塊がまっすぐ彼女に突っ込んで行く。

 彼女はす、と上を向いた。
そして、彼女はもう一度冷気を解放した。さっきより気持ちを込めて、蝙蝠を一瞬で葬ることができるように。苦しませないように。
私を殺すのか。
私を棄てるのか。
私を陥れるなら、それで良い。
けれども許さない。お前たちも、あいつも、私は許せない。許さない――

 


 

 

それでもわたしは救いを求めるように

 全てを賭して罪の断絶を選ぶ。わたしを狙うもの、わたしに近寄るもの。全ては絶やすべき罪だ。
そう彼女が決めてから、あのトレーナーが可愛いと褒めた大きな眼は細く吊り上がり、トレーナーを乗せていた薄紫の甲羅は彼女を護るものとなり、つのは一突きで敵を葬る武器へと変わった。もとより知能の高かった彼女は、洞窟内で独自に修行を積み重ねた。実践と修行を兼ね、幾匹ものポケモン、時として普通のトレーナーも見境無く自らの技で葬った。彼女が狙うもの全てにおいて区別は無かった。ただ葬れば良い。
彼女は自分が強くなっていくことを葬るごとに感じられたし、何よりそうしていないと平常が保てないように感じていた。それこそが彼女のわずかな哀しみを埋め隠すもののようだった。
たいていは冷気で見る見るうちに息絶えるのだが、しぶとく生き残る者もいた。そういう時は角で一突きにするのだが、角が血で汚れることを彼女は嫌った。べったりした血が付けば彼女は角を水に沈め血を洗い流していた。洗い流しながら彼女は思った。血で汚れることを嫌うのは、誉められたからなのだ。あのトレーナーが格好いいね、と誉めたからだ。なら、血でべとべとに汚せば良いのに。この青色も黒ずんだ血液に塗れれば少しは反抗になるだろうか。そこまで考えて、彼女はまだ執着のある自らが嫌になる。振り払うように角を洞窟の岩壁にぶつける。強度を誇る角に岩壁はガラガラと崩れ、水中に沈んでいく。えぐれた岩壁を見つめたのち、彼女は離れていく。

――また、ひとつ、彼女を獲物と見定めた生き物がやってくる。
――また、彼女はそれを獲物と見定めて地へ墜とす。そして、それは彼女を一歩ずつ終わりへと進める。



 

 

 

鈴を鳴らすと
螺旋階段はガラガラと崩れていく、

 魚眼レンズのような世界が
目の前に映っている、

 わたしはどこへ行くのでしょう、
どれだけ壊れれば報われるのですか。

 ◆

 


異変はときどきひょっと姿を現すものだった。
それは痛めた喉がちょっとずきりとするとか、前足の動きが鈍るとか、水面を移動するときの速度が遅くなるとか、ちょっとずつ現れた。彼女は然して気に留めなかった――というのも、ちょっと気づいてもそれはすぐに彼女の“日常”の中に紛れ込んでしまったのだった。
ただ、それは確実に現れていた。確実に殺傷行為の“代償”は彼女の身体の内から発生していった。

それはぺりぺりと皮をはがしていくように、
憑き物が取れていくように、
固く結ばれた紐が解かれるように。
するりと外側から入り込まれるのではなく、
内から突き崩すように。
警鐘を鳴らした。心臓の鼓動という警鐘を。

 

 


 

醜い
醜い

 ◆


彼女が本能のままに蝙蝠や擬似岩の生き物やら洞窟に現れる生き物を葬るたびに、体は一歩ずつ限界へと近づいていく。空中、水中、すべて構わず洞窟全体を揺らす轟音を伴い、自らの力を解放する。常に百%以上の力を出しているということは、疲労蓄積も早かった。さらに遺体処理もしなければならなかった。――彼女の体は小さく悲鳴を上げていた。やがてその悲鳴はまず攻撃の鈍化として現れた。ただ、彼女は攻撃を休めはしなかった。彼女の殺戮のせいで洞窟内に生き物が極僅かになったのちも、寂しさをうずめるように彼女は解放し続けた。ほとんど眠らずに攻撃してきたことも原因だったのだろう。

“――わたしは、わたしは、わたしは、許さない、”
意に反して衰えていく威力を無視して。
“許さない”
我を失っていくようだった。自らが解放する度、内から喰らい尽くされていくようだった。それでも彼女はびしびしとひび割れていく甲羅も、先端の折れた角も、皮膚の荒れた前足も、冷気のせいでうまく動きにくくなった口も、すべてを武器にして洞窟の中に存在し続けた。
それでも。もう、限界はすぐそこにあった。一匹の敵を前に、彼女はそれを迎えた。
揺らめく敵の姿。冷気で見る見る凍る敵。

びしり。
びしり。
破片となって甲羅が飛び散る。

ずきり。
ずきり。
喉元が腫れているのか。酷く痛む。

ぞわりと皮膚が粟立つ。自らの冷気に自らが怯えている。

どくん。
どくん。
心臓が、心臓が、響く。

視界に映る“敵”。ひと、ポケモン、全てが敵。

心が、
心が、
わたしが。

わたしが、
わたしが、
わたしが。

ぴぴぴっ、と亀裂が入っていくような感触がする。横目でそれを見て、彼女は体に力を込める。――篭もらなかった。
わたしは死ねない。この一発を、わたしは。

 
ふいに、彼女の喉元を、真っ赤な手が締め付けた。
ぎゅっ。

――わた、し、は。
決意の日に見たあの光景が甦る。
手が伸びてくる。
わたしに向かって、伸びてくる――ああ、お前をずっと殺そうとしていたのに。逃げたんだね。殺せないじゃないか。一度もこなかった。わたしを、もう、思い出そうともしなかったんだね? 認めたくなかった。わたしを傷つけて、わたしを棄てた。でも、それでも、
わたしはずっと、待っていたのに。お前との歴史をずっと忘れてはいなかったのに。

発条の切れたカラクリ人形のように、ぴたりと彼女は止まった。
そして、大きいしぶきを上げ、水に沈んだ。……やがて水面に広がった波紋も消えた。彼女は上がってこなかった。
洞窟には高く積みあがった氷の塔があった。彼女に殺された者たちが閉じ込められ、その者たちの血が滲んで氷の塔は紅く見えた。暗闇の洞窟の中では、その色彩は失われている。洞窟は暗闇の中。彼女が生を終えたことも、やがては暗闇の中に紛れ、どこかへ去っていく。誰も知らずに。
救われはしない――それでも、彼女は幸せな夢を見る。死に至るほんの少し前まで。彼女の罪を知らせる音が、彼女の夢に響くまで。

 


 

 

 さよならにはまだ早く、
本物にはほど遠い、

 ◆

 音叉を叩いたような音が、ほわんと響いている。 彼女は気づかない様子で、そこにいる。
どこかの世界で、彼女は誰かと話している。
「もしかしたら」
「迷子になったのかもしれないな」
草原の中の一つの湖に、ふたつの影がぽつんとある。彼女と、もうひとつ。
そして、空は晴れていた。

 僕、たまに夢を見るよ。結構、面白い夢。
「どんな夢?」
彼女の前述の問いから外れた答えにも、彼女は答えた。

 あんまり覚えてないや。夢って忘れちゃうんだ。
「そう」
「でも、わたしは、お前が羨ましいと思うよ。すごく美しいもの」
「わたしもそうならよかったのに」

 堰を切ったように彼女は喋った。一息で。

 みんなそうだよね。この水晶、きれいだって言うんだ。でも、僕はこれのせいで、幾度もいやな目にあった。死に掛けたもの。
「そう」
「だけど、今は幸せじゃないのか」
そうかもしれない。
そういえば、僕、仲間になったときに、印象的なことがあって。
「なに」
僕の前で、すごく無邪気に笑うポケモンがいた。今思うと、それは不自然なことなんだけど。しかもそいつ、僕に見惚れていた。
「どうして」
僕がここにいるってことは、あいつは仲間からはじかれたんだよ。だったら、笑うわけ無いのに。
「嘘だったんだよ。厄介払いするのに、嘘は必要だろう」
よく分かんないな。あいつ、本当のこと知ったらどうなるんだろう?
「それこそ分からないよ」
それでもさ、あいつのこと、そのうち忘れちゃうんだ。
あいつのことは、いろんなことの一つに過ぎないんだよ。
「そうか」
寂しいよね。でも、それが普通なんだよね。
なんか不条理だ。あ、仲間になった瞬間に、ポイ、かな。
「さあね」
結構冷たいね。あんまり喋ったことないけどさ。 君、頭よさそうだよね。ほら、あいつ、この間喋ってみたらぜーんぜん話になんないの。やんなるなあ――でも君は相槌返してくれるよね。

 答えずに、彼女はふと後ろを見た。一匹、主人を待つ“あいつ”が見えた気がした。“あいつ”は笑んでいたけれど、やがて笑まなくなった。その表情は喩えようも無い表情で、彼女は何となく心苦しくなって再び向き直った。
そして、彼女たちの主人は帰ってくる。

 ああ、来たね。迷子じゃないっぽいよ。
「そうだね」
また、旅だね。楽しいのかな。
「分からない」
やっぱり、あいつみたいなのになっちゃうのかな。いつか。
「知らないよ。あまりこだわるな」
冷たいなあ。……まあ、いいか。


 トレーナーがやってくる。彼女たちの主人が。彼女も少し微笑んで、彼を待つ。

 やがてその風景は輪郭が崩れていく。砂が飛ばされるように、さらさら、と消えていく。
幸せな夢。

 そして、再び夢の中に音が響く。
彼女はそれを聞く――
沈んでいくような感覚の中で。
 



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