悠久の記憶



 歌が聴こえる。歌に耳を傾けると、全身が映写機になったように情景が浮かんでくる。
広がるは青い河。河口から遡りながら橋を探す。やがて男が指差したアーチ橋を渡って、背の低い草が茂る野原を歩き、大きな扉を抜けて石畳の広場に出る。
男は石畳の真ん中に粗末な麻布を敷くと胡坐をかき、背負った楽器を抱えて絃をはじく。しばらくそうしてから、ジャランと絃を鳴らして音を奏で、声を張り上げて歌い始めた。快晴の空の下、笑顔をふりまきながら、太陽のように陽気な歌を。
自分は男の傍らで、手を叩いて調子を取る。人間たちが集まってきて、自分に合わせて手を叩く。すると男は自分を見つめ返し、「いいぞ、キルリア!」と目を細めて、一段と絃をかき鳴らし歌声を高く張り上げる。嬉しくなって、くるりと回って踊ると喝采が起きた。
男が深々と礼をするのに合わせて一礼。人間たちは溢れる笑顔で割れんばかりの拍手をして、逆さにした帽子に銀や金のコインを投げた。拍手はやまず、男は手を振りながら自分に向かって首を傾げる。自分が頷くと男は莞然と笑って、また音を奏で始めた。ふと吹いた春風にのって、優しく広場を満たすような歌を。
男はまた拍手とコインをもらって、去っていく人々へ立ち上がって深々と礼をする。人々は手を振りながら笑顔を返しながら、広場へ、その向こうへ散っていった。そのすべてを見送って、男は麻布を畳み帽子を取った。
「キルリア、今日の宿はどうしようかねえ」
帽子の中のコインをチャラと鳴らすと、キラキラと眩しく輝いた。男は自分の頭を撫でて、道行く人に何ごとか尋ねると、自分を手招いて歩き出す。
そんな情景が見える。

 草原に、木を組んだやぐらが見える。人々がそれを囲み、期待と緊張に鼓動を高めている。男はそれから少し離れて、太鼓や楽器を抱えた人間たちと熱心に話し合っている。撥を持った男が自分と目を合わせて、楽しみだな、と親指を立てた。笛や弓を持った男たちも口々に声をかける。最後に男が、また頭を撫でた。
手を二度叩く音が響くと、人間たちの空気が変わった。やぐらの前に立つ老人が杖を高く上げる。重ねて笛の音が高くこだました。老人が儀式めいた所作でやぐらに火をつける。勢いよく火柱が上がり、やぐらに炎が灯った。
「祭りだあ!!」
誰かが大きく声を張り上げた。喜びの声が上がると同時に、男たちが次々と楽器を鳴らし始めた。人々が音楽に合わせて手を叩き踊っている。身体がうずいて、楽器をかき鳴らす男を見ると、彼は「キルリアも行ってこい!」と笑いながら言った。輪に入る背に、男の歌声が重なる。喜びに溢れた男の歌声は、自分を飛び跳ねさせ、人々が見惚れるほどの舞を見せる力になった。
豊穣を祝う喜びの音が聴こえる。人々が笑っている。男が笑っている。いくら舞い踊り跳ねても、動き足りなかった。
そんな情景が見える。

 男と自分が並んで座っているのが見える。
「キルリア……俺はもう、歌えねえんだ」
古く軋むベッドの片隅、男はいつもと同じように自分の頭を撫でて言った。白い髪、白い髭の間に、疲れたような表情が見えた。
男の手を取る。そこかしこに絃の跡がある、皺くちゃになった固い手は、弱々しい。
「そんな顔をしなさんな。俺は楽しかった。これでもかってぐらい、歌ったよ」
男は笑った。笑っていても、自分には分かった。これは悲しみだ。出さぬまいと深く深くうずめた悲しみだ。
ぼたりと頬を伝い落ちるものがある。
「泣くな。お前が泣くのは見たくない」
そう言いながら、男は激しく咳き込む。踊ってくれよ、と言われたが、できるはずがなかった。ただただ涙を流して、男の手にすがることしかできなかった。男は静かにその涙を拭ってくれた。
力のない手の感触が、なぜか思い起こされた。


ふと情景が消えると、ギイと扉を開ける音が殻の中にも小さく響いた。
いくつかの会話が聴こえる。年老いた声と少年の声。ふと宙に浮いたような感覚がして、すぐにまた落ち着くと、次はごとごとと揺れ始めた。目が回りそうな中で、ぬくもりを感じた。てっぺんを撫でている。
「ラルトスかあ。早く孵れよお」
少年の声。そして、少し音程の外れた、歌が聴こえる。

 彼らは自転車に乗り、再び旅に出る日を待っている。


fin.

 



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