――誰かを憎んだ事はあるか。お前は今、誰かを憎んでいるのか。

頭の片隅から声がするものの、視界はぼやけていて、しかも私の手は相手を掴む程に長くはないので、その声の力になる事が出来ない。
ぼうっとして、声を出すのにも躊躇っている程静かな世界が広がっているが、その声だけはその中で、引っ掛かるようにして聞こえてくる。

「……。」

アリエッタは、自分を踏み台にして前に進んでいったようにも思える。
彼女なりの決断があってこその事なのだろう、とは思うが。考えてみれば理不尽な話である。
道中であれだけ送り届けよと命令しておいて、挙句の結果がこういうものになってしまうと、心底裏切られたという気持ちに自分は陥っているのかもしれない。

――誰かを憎んでいるのであろう。

これはではそう、なんと言うか、ただ自動的に、こういうものだというルールに従うままに生きてきた。
ここには階級があり、その群れの中で暮らしていく身として、自分は今あるべき位置に位置していて、それに疑問は無いと。
そして来るべき時が来た時に、自分は成長し、進化し、歳をとっていくのだろうと。
要するに、生きる目的というものが無かった。
なんとなくそれを持っていると、余計な口を出したり、恥をかいたりするような事が多いような気がしていたのだ。

――憎んで、その為に今、お前はあるのだろう。

だがそのルールが何か、ここ最近になって破られていたような気がしていた。
アリエッタという存在によって、何かその、道に外れた場所へ導かれているような、そんな気分になっていた。
その時の自分が目的としているのは、アリエッタそのものであり、そのアリエッタに、自分は裏切られた……のか?
だとしたら今、自分が生きている目的というのは……。

「………」
――憎しみがお前を生かしている。その事実、受け入れるのか。

何か大きな力を使ったような気がしている。
それでも自分の意識がなおここに有るという事は、自分は何らかの強い未練が、この地にはあったという事になるのであろうか。

「今から私が目を覚ましたら、貴方は目の前から消えてくれるの?」
――これは現実だ。憎しみで息を吹き返す、新たな現実の始まりだ。
「」
――事実を、受け入れるのか。
「私は……。」

私は――。



ラグラージが崖下の存在に気付いたその直後、彼は自分の背の荷物が、意識を取り戻した事に気付いた。

「おお、やっと目覚ましやがったか……」
「………火は…。」
「安心しな、一つ残らず消し飛ばしてやった。完全な鎮火にはまだちょいと時間がかかるが、ま、あいつらが悪さしねぇように見張ってりゃぁ、今の所は安心って所だ。」
「ネイティさんの帰還は喜ぶべき事ですが、あまり騒ぐと見つかってしまいますよ。」
「おおっと、そうだったな。」

依然、崖下の男は動かない。
遠回りの挙句に崖を登れば済む話であるのに対し、ラグラージ達がここから動こうとしないのには一つ理由があった。

「起きたばっかりで悪ぃんだが、崖上までテレポートの必要があるかもしれねぇんだ。この人数だが、運べそうか?」

ネイティはラグラージの物言いを無茶な命令を聞きながら、彼の下についている者の辛さを同情すると同時に、一つの疑問を加える。

「………回り道って考えは無いの?」
「んにゃ、なるべくならこの上がいい。奴の痕跡が残っている以上は、何か掴めるモンがあるかもしれん。」

何時の間にかアリエッタを追跡するまでの話になっていたのかとネイティが思う横で、ラグラージが告げる。既に肩からは降り、枝に足をかけていた。

「うんにゃ、追うのは三つ首だ。嬢ちゃんは所構わず被害を撒き散らすとは思えねえが、奴に関しては俺も保障が効かん。」

足をかけていたネイティはこの時「?」と言うような顔でラグラージの方を眺めていたが。アリアドスは危うく幹から落ちそうになる寸前にまで動揺していた。

「ら……らら、ラグラージさん!?」
「いいじゃねえかアリアドス。アイツをどうにかしねえうちには、多分だが、あの嬢ちゃんも見つかりっこねえ。それ所か、この上は奴の通り道にもなった場所なんだからな。」
「通り道って……それなら奴は今、下層部にいる筈では。」
「いや、どういう訳か、ノクタスを見付けて迎撃した途端、奴は自分の来た方向とは逆の方角に向かって行ったらしい。何かしら目的があるんだとすりゃあ、まぁ一番怪しいのは中央になるわな。」
「えええ……!じゃあ中央に向かったアリエッタさんも……。」
「可能性はある……が、まだ判らん。それに、あの嬢ちゃんが去ってからすぐに、三つ首がそこに来たらしいからな。もしかしたら、奴は相当の女好きかもしれねえな。うわはははっ。」
「まっ……またそんな大声出して。今度こそ見つかっちゃいますよ!」

アリアドスが慌てた直後、ネイティが冷静にその、自分が見つからんかと言われてしまいそうな勢いを止める。

「捕まる……?」
「あそこに見えてる影の事ですよ。遠くからじゃよく判りませんけど、あれは絶対、待ち伏せか何かですって。」
「……ああ、そういう事か。無意識にやっているから判らなかった。」

その言葉の意図が読めていないアリアドスと、何やらピンときたような顔で間も無く対象に向かって目線をやるラグラージ。

「……お前、もしかしてあれが見えるって言うのか。」
「………目で見ようとするからいけない。二人とも、立派な器官が付いているのだから、もう少し活用すべき。」

びしりと言われて、今の今迄、髭のレーダーの事についてすっかり忘れていたラグラージは、少し俯き加減でそれを動かし始めた。
アリアドスについては、自分にそういった器官が備わっているという所で驚いている。

「……え……も、もしかしてこの触覚ですか?そんな……これは風さん達の内緒話を盗み聞きするくらいのもので、そんな広範囲察知までに及ぶ程では……。」
「………貴方には複眼に続いて単眼もかなり高度なものが備わっている筈だから、それが無くたって大丈夫なくらいに察知能力は発達している筈。」

半ば腰が引けつつも、言われた通り、普段自分が使っているような範囲ではなく、風の連鎖から、より広い範囲の物体をその身に把握していくアリアドス。
調子が出てきたのか、それに加えて前方の光景をより鮮明なものに映し出そうと、無意識にその閉じられていた眼を見開き始める。

「お…………おお、おおおおお―!すごい、すごすぎますよこれ!」
「……どれどれ、おお、おおおおお!」

先程までの現状維持の状態がガラリと変わり、野鳥観察のような光景が続く中、呆れ半分余り、ネイティは少し、何かに気付き初めていた。
これまで自分自身の為と、雑用代わりに使ってきたこの生まれながらの超予備知識。
自分の為に使うよりも、他の人の為に使った方が、より効率の良い使い道を見出せるのではないのか、と。
自分は知識を持っているばかりで、使い道を全く心得ていなかった、阿呆だったのではないのかと。

「………む。」

無邪気にはしゃいでいるようだが、本人達にしてみれば、新たな力の覚醒である。
最終進化形態の癖して、今まで気付く所の無い能力が、身の内に無数にあるまま、発揮されていなかったのだという事は……。

「……二人とも、なんか上層部の方みたいなんだけど、もしかして常日頃から下層領域を任されているとか……つまりその。」

言う所の、それなのではないかと。

「おお、そうそう、俺たちゃてんで落ちこぼれよ!こっちのアリアドスなんざ、上層部に駆け入るくらいの地位にいる癖して、任せられるのは入口付近の集団包囲の方法ばっかりだ。重要な役目っちゃ役目だが、いまいち毎日がピンとこねえのさ。そうだろ?」
「……そんなにハッキリ言われると、日頃抑えている自信の無さが……それに私、もうなんか帰る場所すら無いし……もう、ぐれちゃおっかな。」
「……え?帰る場所?」

何も躊躇無く自分達の身の上を認めてしまったラグラージよりも、アリアドスのその発言が意味する事を、ネイティはこの時点で始め知る事になった。
自分の起こした一件で、追放者が出てしまっているという事実に。

「……ごめんなさい。私のせいでそんな……全然、えっと、考えてなくて……。」
「ああ、ええと、違うんです。何か勢いで言っちゃいましたけど、これは単に、私が上のやり方に頭きて勝手にやった事ですから……。」
「いいじゃねえかぁ追放でも!言ってみりゃ自由の身よ!それにな……。」

身構えるラグラージ。それはもう、目の前に敵が居るかのような素振りで言う。

「通らなかったんなら、もういっぺん通しにいきゃあいい!なんだかんだ言ってゴリ押し社会だここは!やる気と人望と、知識に見合った力がありゃぁなんともねえさ!」
「ゴリ押しって……もう、相変わらず無鉄砲なんですから……。でもそういう所が、貴方の良い所でしたね。」
「………ゴリ押し。」

あまり笑う事の無いネイティであったが、この時ばかりは少しの笑みを零していた。
最も、あまり表情のつかない顔に生まれてしまったが故に気付かれる事は無かったが、確かにこの時のネイティは、この時間を共有する三者の一つになっていた。

「………貴方達。もう少しだけ、眠っている力を起こしてあげてもいいよ。」
「本当かっ!」
「……是非お願いしたい。今の我々にはなにより、少しでも多くの力が必要なのですから。」
「でも……少し時間を貰う事になる。アリエッタを追うのはその後になるけど、それでもいい?」
「かまわねえさ。だがどうせなら、崖の上に登ってからにしたいんだが……。」

言ってラグラージは、崖上でそれを行うにはもしかしたら危険が伴うのではないかと思い、自分の意見を弁解しようとしていた所、その言葉は返ってきた。

「……それについてなんだけど。」

言うと何か申し訳無さそうな、恥じているような顔になるネイティを見て、てっきり今の自分を咎めるような発言が飛んで来るものだと思っていたラグラージは、その前にあった期待と同時に、その度肝を抜かれた。

「えと……私も、テレポートの練習しなくちゃいけない……から、ね?」

二度目の笑みは、思わぬ形でこぼれる事となった。
己の未熟さを自覚した彼女の、照れ笑いという形で。


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