【1】

私、雪原椎羅にとってあの大雨の日が私にとって人生の分岐点だったかもしれない。
あの日を転機に私の中にある運命の歯車は動き出した。そして私にとって掛け替えのない出会いだった。

その日は午前中まで太陽が燦々と輝き、母に連れられて久しぶりに一緒に買い物に出かけた。
しかし南の町キンセツにて、夕飯のカレーの材料を一通り買い揃えた時、天候は急変した。

「通り雨だから…傘抜きでも大丈夫よ。きっと」

「本当?母さん」

だが母の予想はまったく外れていた。河を抜け、ヒマワキに走っているうちに身を打つ雨は一気に強まる。
雨よけに使っていた買い物包みが意味を成さなくなった。

「シィラ、急いで!」

「う、うん!」

背丈ほどの高い草が生い茂る中を潜り抜け、母と私の眼前には木造建築の天気研究所が立ちはだかった。
14歳のシィラにとって今ではたいした大きさではない、そんな程度の存在だったが
幼い頃、小さな体躯だった私にとってそれは『とてつもなくでかい化け物』に見えたのか、とても怖かった。
そこを通る度にビクビクと目を逸らして、それを見た兄がヨワムシと馬鹿にされた記憶があった。

いつも目を瞑りながら天気研究所を左手に横切り、すぐ近くの丸太橋まで駆け抜けた。
橋を駆け抜ける時の木の乾いた足音が聞こえなくなるまでが彼女にとっての目印だったが、転んだ回数も少なくない。

そして橋を抜けた先にある狭い川原でいつも友達と遊んで…

「あれ?」 

「どうしたのシィラ?」

私の先、その川原の岸に何かがいる。強い雨でよく見えないが…魚の形をしているのは確かだった。
――私はそれを見た瞬間、何か運命的なものに引きつけられる錯覚にとらわれた――
手に持っている買い物包みをぬかるんだ地面に置き、シィラはそこへ駆けつける。

「だめよ!河の方は増水していて危ないわ!」

だが私は本性が言うままにもうそこに一目散で走っていた。母が後ろで頭を抱えながらため息をついていたが。
私は『それ』を抱き上げて母の元へ戻ってきた。母が覗き込むが、刹那汚いものでも見るような目つきで顔を戻した。

「きったない魚ね、捨てちゃいなさい」 

「嫌よ」

私が抱いているその魚は鰭もボロボロで光沢もなく、呼吸もか細く乱れていて…死にかけの状態だった。

「母さん、お願い。この子、ウチで看病させて」

「……でも」

「大丈夫、水から離しても生きてられるから…きっとポケモンだと思うの」

「……しょうがないわね、けど一晩だけよ?」

「うん!」

母にとって、普段大人しいシィラが何故急にこんなに強情になったのか…その理由は分らなかった。
普通の女の子なら魚ポケモンなんて見るだけでも抵抗感あるのに、よく平気で掴めるもんだ。
ただそのみすぼらしい魚を抱いている彼女は、とても嬉しそうでこの上なく幸せそうな顔をしている。

――もし万が一、その魚をパートナーにすると言い出したら…――

でもまぁ、流石にそんな事はないかと二人分の手荷物を持った母はそう思い、ついに二人はヒマワキの民家に着く。
この町は屋久島の杉を超える大きさの大木でにぎわい、旅の者はこの絶景に圧倒する。
そしてここの町の人々は樹の蔓で結わえた手製の階段を上り、木の上で生活している。
この様な辺境の土地は訪ねる者を驚かせる要素で溢れているが、三日も滞在すればすぐに慣れてしまう。

今、私と母は雨に濡れた蔓の階段に足を取られないよう気取りながらヒマワキの一番端にある古木の家に向かっていた。

「ただいまモラロ」

「ああ母さん、お帰り」

家に入ると同時に声かけた男は私の兄。年はシィラの3つ上で、柄も結構大きく肌もすこし黒い。
湯気が幾らか出ていて、タオルで頭を拭きながら出てきたところをみると、シャワーでも浴びたんだろう。
――急に降ってきたわね。――あの天気予報当てにできないな。 という会話をよそに私は抱えた魚と共に家の物置に向かう。

倉庫の奥で眠っている水槽を引っ張り出す。ポケモンの類だが水に入れておけば休養ぐらいは取れるだろう。

「おいシィラ、お前も母さんと風呂に入れよ。風邪ひくぞ。

……何やってるんだ? 水槽なんか出して」

「あ、お兄ちゃん」

湯気だったモラロがソーダ水を飲みながら水槽をじっと眺めている私に後ろから声掛ける。
モラロは水槽の中を覗き込む。その魚はまだ弱っているのか身体を水平に保てず、まだ横になったままだった。

「お前…まさかこの魚を飼う気か?」

「ううん、少しだけ看病して川に返すの」

「だろうな…まさかお前がトレーナーになれるとは思えないし…」

モラロはそう言って部屋を出た。シィラのきょとんとした顔をよそに、部屋の窓はまたがたがたと風雨にさらされて鳴り響いた。
もう一度私は弱っている魚の方を見やるが、風呂場の母の――早くいらっしゃい 、という言葉にやむを得ず従った。

「じゃ、またね」

と魚にそう言い、バスルームに駆けていく。


ホウエン地方、この土地には水と緑に恵まれ様々な地方が大陸の至る所に点在する。
火山の町、火口の町、科学の街、古い伝統の街…それを巡って旅をする者もこの大陸には多かった。
しかし、ここには陸と海二つの均衡の上で成り立った『秩序』を崩した者もホウエンの歴史上存在する。
とは言っても、シィラ達がいる現在のこのタイムテーブルから見て、その事件はまだ30年ばかり未来の出来事だが。

それにいくら科学の街や天気研究所があってもまだ大陸全体からしてさほど発達した時代ではない。
まだテレビも高価な代物ゆえに、強いトレーナーの情報はテレビで報道されることはない。唯一の情報源はジャーナリストの雑誌だけだ。
ポケモン図鑑は有るには有るがまだ小型電子機器もなく、紙製の辞書に白黒で印刷されているだけのものだった。

……と、まぁこの時代はまだ不便なものが多い。実質この家には買い替えのラジオだけが居間に置かれているだけだった。
夕飯にいつも家族で食卓を囲みながらラジオに耳を傾ける。父がいるときは半ば強制的にクラシック音楽番組に変えられた。
だがその日はいつもと違って少し静けさがあった。せっかくのカレーもあまり美味しく感じられなかった。

「ごめん、窓開けるわ」

と言い、私は居間の空気を喚起した。この居間には魚の異臭がここまで広がっていたのだ。
モラロは死臭じゃないのか?とシィラを茶化す。だが、ご飯前に一度確認した時はその魚はまだちゃんと生きていた。

「で?お前はあの魚をどうする気だい?」

父が言う。シィラは少し沈みがちにさじを置いた。カレーに入っている豚肉だけが残っていた。

「あ、うん…元気になったら元のところで放してあげるつもり…」

「そうしてあげなさい。そうすればあのお魚さんも喜ぶわ。」

「ま、妥当だな」

兄も母の尻馬に乗っていた。――多分全員があの魚を飼う事に反対している。もはや飼って良い?なんて尋ねる程
彼女は空気の読めない子ではない。ラジオの口やかましいレポーターの妙に甲高い声だけが居間に無意味にこだました。

『……えー、『ルネの守人 ファルツ』様でした。皆さん盛大なる拍手を!!
さて次のゲストを紹介します、その名も!若手の水の使い手、アダン様………』

とそこで口やかましいレポーターは沈黙し、クラシック音楽が奏でられた。父が勝手にラジオの曲を変えたのだ。
アダンというトレーナーに大ファンの母が――ちょっと変えないでよ といきり立った。   
静かな食卓にようやくいつも通りの賑やかさが戻ったことに思わず苦笑してしまう。
私は食後家にある紙の辞書系ポケモン図鑑をめくり、あの魚の名前だけでも確認しようと思った。
使い慣れていない埃かぶった分厚い本を捲って…ようやく見つかった。

―― ヒンバス ――

その概要について読んでみたが、読むごとに私の気分は鉛10トンをのせられたように重くなった。
あまりにみすぼらしい容姿の為か、育てるトレーナーはマニアな釣り師を除いて殆どいないと明記されている。
最初にあの大雨で出会ったヒンバスに対する情をその辞書によって奪われてしまったような気がする。

調べないほうがよかった…。

大木に絡まる丸い露が光り始め、ヒマワキに朝日が差し込む。スバメの鳴き声でシィラは目が覚めた。
寝ぼけた顔で木の部屋を出、螺旋階段を降りて居間に入る。この家は大木の上に作られたため、どちらかというと
横というより縦に長い家が結構多かった。だから螺旋階段のある家も実質少なくない。

「母さん、朝ごはん食べたら…河原に行ってくるね」

「あ、あのお魚さんね。けど昨日の雨で滑りやすくなっているから気をつけてね」

「うん……お兄ちゃんは?」

「ジョギングに行ったよ」

食事を済ませるとヒンバスを湿った布でくるみ、家を出た。玄関先にある雨で濡れたスノコは私の足を阻み、
あたかも『行くな』と言っているかのようである。河原までの距離がやけに遠かった。それでもやっとのことで川辺についた。

「…ヒンバスちゃん。もう絶対川辺なんかに打ち上げられないでね、約束よ?」

腰を下ろしてヒンバスに念を押すシィラの声は明らかに涙声だった。
もう一度だけヒンバスの…綺麗とはいえないヒレを優しくなでた後、帰ろうと立ち上がろうとした。
一度空を見上げると、朝やけで綺麗だったはずの青空にまたどす黒い雲が覆いかぶさっている。――また一雨くるわ

走って帰ろう。そう思い、もう一度ヒンバスに話す。

「じゃあね…」

だがその時、バケツをひっくり返したかのような大雨がシィラを打ち付ける。
空を見渡す。どす黒い雲はすべての空を覆い、時間が逆転して再び夜になったかのような不気味な光景だった。

早く帰らなきゃ…とシィラが、上を見上げる。ふとそこにジーンズを着た人影が息を切らしながら走っている。
一日に何度も顔を合わせていて、大柄な体躯…シィラはすぐに人影がモラロだとすぐに悟った。

「あ、お兄ちゃん!」

人影もすぐにこちらに気づいた。フードを外し、驚きの表情でモラロはこっちに走ってくる。

「シィラ!?馬鹿っ…お前こんな雨の中で何を……」  

その一瞬だった。河の上流から凄まじい量の水が轟音と共に一気に流れ込んでくる。急などしゃぶりに河が決壊したのだ。
モラロが次の言葉を出す間もなく、ヒンバスとシィラ諸共…

…急流に呑み込まれた。次に河の水が引いたときにモラロの目に飛び込んだのは、跡形もなく消し飛ばされた河原だけだった。

「くそっ……!シィラァ!!」

 


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