迷彩服のデザインをしたジャケットは泥と灰にまみれて茶色に変色し、異臭を放っていた。
背丈は170前後、亜麻色のようなボサボサの髪は後頭部側でポニーテールの様に束ねられている。
一息つき、コンパスを探る。痺れているのか、赤い針がふらふらと震えて一つの方向を向こうとしない。
その様子に彼はチッと舌打ちした。苛立ちを覚えても彼の目線は気だるげな半眼に変りはないが。

―― コイツはまるで、俺みたいだ 

ふと、そこで水の流れる音が遥か遠くから聞こえてくるのが分かる。ハッと彼は森の奥を見やった。
今彼の渇きを癒せる自然の産物の水。その音を聞いただけでも重かった足取りが一気に軽くなってくれた。
疲れた心を照らすように雲に隠れていた太陽が覗き込む。 

「助かった!」

彼は泥まみれの荷物を捨て、澄みきった河に飛び込む。清涼で冷ややかな水の冷たさが一瞬で彼を包む。
大きな水しぶきの下で、川底を悠々と泳いでいたコイキングやメノクラゲらの影が四分五裂に逃げ出した。
彼は川の中で一回前転し、碧く輝く水面めがけて上っていく。肺の中に溜め込んだ息吹を一気に吐き出した。

―― ついに辿り着いたぜ、母さん…!

燦々と輝く太陽と仁王立ちする積乱雲の下で、彼は亡き母に心の言葉で語りかける。
現在彼が居るのはヒマワキの北西部にあたる場所にいる。ちょうどホウエンの西と東をわかつ河の中にいた。
水の流れで少し乱れた髪を正し、河の上流を見る。轟々と流れ続ける滝を見つけた。

―― 丁度いい、汚れた服を洗濯してくるか

彼はそう思い、荷物を捨てた川原へとあがっていった。十年も使い続け、継ぎ接ぎだらけのリュックを探り、
泥まみれのシャツを2,3着ほど引っ張り出して滝へと彼は歩いていく。
半裸の彼は今日止まる宿屋を探そうと思ったが、滝の轟音に耳が慣れ始め次第に子守唄のように聞こえてくる。
惹かれるように痒い頭をかき毟り、岩の上に寝転がってすぐに眠りの世界へ落ちていった。


【6】


いつも町でみる玩具屋も駄菓子屋も構っている場合じゃない。亜麻色の髪の少年は息を切らしながら走る。
彼の手を繋ぐ女の手は彼より痩せこけて、血管が薄く浮き出ている。

「おい!居たぞ!!あそこだ!!」

不意に後ろから聞き覚えのある男の大声がした。…お母さんが家の扉の前でいつも怒られていたっけ、
お金が全然無くて…『しゃっきん』が溜まって…大家さんが「訴えてやる!」とよく怒鳴られていたんだ。

「見つけた!!おいこっちだ!!」
「居たな金づる女が!!覚悟しとけ!!」

またもホーリィの後ろで複数の男が叫びたくった。
息を切らしながら彼は後ろを時々振り返っては確認する。

間違いないや、あいつらは『すかいだん』とかいう『やみきん』のやつらだ。
お母さんが『やみきん』なんかに手を貸すからこんな目にあっちゃんたんだ。

「ホーリィ!急ぎなさい!!早く!!」

お母さんの顔を見てみると、すっかり痩せこけている。
毎日毎日…ごはんもろくに食べずに、お金の足しにするって仕事ばっかりで、
いつも『心配しないで』って無理に悲しく笑うんだ…。

僕らは町外れの渓谷にさしかかった。『やみきん』の連中も…すぐ後ろだ…。

「止まれ!!」

母親はホーリィをかばうように前に歩み出て、言った。
「この子にだけは、手を出さないでください…。」

闇金の連中はさらに高ぶった声であざ笑った。
「ハッ、金ほしさに身を売った貧乏人が今更何をほざいてやがる?」
「スカイ団に金入れをしたのがそもそもの間違いだったんだよ!」

そういって男は、隣の大蛇に指示を出した。
「放て!」

無数の毒矢が飛び交った。一瞬だったので分からなかったが、明らかに狙いはホーリィの方向だった。

「あ…」
「ホーリィッ!!」

少年に母親が庇うように飛び込む…。指すような叩くような嫌な音がいつまでも耳に響く…。
その直後…ホーリィと呼ばれた幼い少年は、目も当てられない狂気に満ちた光景を目の当たりにする。



「!!」

目覚めた時にはもう既に空は淡い茜色に染まり、ヤミガラスの群れが空を迂回していた。
河の流れも真昼の時よりは幾らかおだやかになっていて、虫の鳴き声も昼の時とは違う。蜩か。
あれからほぼ5時間ここで眠っていた。寝起きの息は荒く、汗が全身に滲み出ている。

―― 情けねー…またあの悪夢でうなされてたのか…

上半身裸の彼は自嘲気味に笑い、急いで服を着て荷物をまとめ、森の草木を掻き分けながら入っていった。
もうこの位置からはヒマワキは近い。ライトを使う必要性もないだろう、と考えている間にもう建物が目に入った。
白く剥がれかけたペンキ立てのコンクリート仕立て、北の方をぐるいと周ってみると百葉箱があった。

なるほど、と彼は17歳の青年に似つかわない無精ひげの生えきった顎をなでる。ここは民間の学校に違いない。
夢で見た幼い自分の姿を思い浮かべた。悪夢があそこで終わってて助かった…。
しばらくぼんやりと俯いているとあっという間に芝生は暗く色彩を失った。彼は一番星を見上げる。

「……母さん…
……っ!」

独り言を言ったと同時に身構えた。普段の眠そうで気だるげな彼なのに、身の危険を感じるといつもこうだ。
尖った眼光の先、数メートル先にある茂み。今さっきそこの草木が風ではない力で動いた。
彼の脈拍はあまり高ぶらなかった。よほど洗練されているのか、あるいは落ち着いているのか…
…こそこそ隠れて様子を見ている私では分からなかった。次第に隠れている自分が情けなくなってくる。

「おい、誰だよ?」

「…ごめんなさい」

私はおずおずと泥やゴミで汚れた姿を見せた。電灯に照らされた私を見て彼の表情が険しくなる。
足元の手荷物は刃物で切り刻まれ、顔や服はチョークの粉と汚水で汚れている。よく見れば頬には縦に流れた
涙の跡も見えた。彼は私の無様な姿を見るなり、全てを悟ったような悲しい表情に変っていた。

「…どうしたんだ?もう学生だろうが夜の7時だぜ」

「考え事が…あって……」

「……ふーん、そうか」


しばらく二人は黙っている。間が持たないと、若干焦ったように彼は頭をかく。 いつものクセがでた。

「ま、とにかく帰った方がいい 俺も旅の途中で、ヒマワキに泊まる予定なんで」

「……そうなの…」

「お前、名前は?」

彼の質問に一度だけ顔の目の辺りを手で拭う。少し間を置き、正面を向いた。

「雪原 椎羅です…」

「シィラ…さんか。 俺は…

ホーリィ・ガイダンスっていうんだ。 よろしくな」
.

玄関で父親が険しい表情でかれこれ30分も正座している。いつもならお気に入りのクラシックのラジオ番組を
食卓で聴いているはずだったがここ最近娘の帰宅があまりに遅く、苛々も頂点に達していたのは言うまでもない。
口にくわえた煙草は無情に煙をたたえ、天井に溜まっていく。不意に蔓の階段を登っていく軋むような音が聞こえてきた。
やっと帰ってきたか、と扉が開いたと同時に

「遅いぞシィラ!何をやって…」

だがそこで言葉は止まる。そこに最初に現れたのは泥まみれの迷彩服を着た容姿の青年。
目はどこか気だるげに細く、疲れているのか生気というものに欠けたイメージをしている。父は開いた口が塞がらない。
外にいるホーホーの鳴き声がここまで突き抜けになる中、思わずこぼした煙草が脚に落ちて火傷してしまった。
そしてその青年の後ろに身を隠している私に父はやっと気付いた。それでも父がホーリィを見る目からしてまだ警戒しているようだった。

「すみません、ちょっとこの子…」

ホーリィが説明しようとするが、私を急に思い返したのか言葉に詰まってしまった。父は ――なんだ?、とホーリィに問う。
――この子は虐めにあって夜までこんな姿で泣いていました、なんて明らかに言うべき言葉でない。
ならそれ以外に何て言い訳すればいい? …くそっ
とその時俯き加減のホーリィの脇目の視界に私の姿を通す。えっ、と思わず彼が顔を上げる。
その汚れきったて異臭を放っている娘に父は愕然とする。近くから覗いて様子を見ていた母が震えていた。
ホーホーの鳴き声がまた一層大きくなる。 

「な…シィラ、その姿は」

「ごめんなさいお父さん。服…汚しちゃって…」

「そんな事は聞いてない!何があったんだ!?」

「ちょっと、やられちゃった…あはは…」  

私は必死にテレ笑いをするがその目で笑う事はできなかった。父はしばらく驚愕の出来事に立ち尽くしていたが、
やがて私の肩を優しく撫でた。帰宅時間が遅くなった理由ももう聞きだす気は微塵もなくなっていた。
私は無意識に流した涙を隠すように伏せていて、すぐにでも逃げ出したい気分に駆られていたが、
父の ――風呂にでも入ったらどうだ? の言葉に救われた。泥まみれの靴を履く嫌な感触から解放された。

「では俺もこれで…あの、このヒマワキで宿屋はありますか?」

「ほう、お前旅人か?」

父の表情が幾らか和やかに収まっている。とりあえずホッと息をついて質問に答えた。

「はぁ、フエンから来ました」

「フエン! …遥々ようこそ、折角だからウチに泊まっていったらどうだ?

「え…いいんすか?」

「ふっ、せめてものお礼だ。あの子を送ってくれて…ありがとう。
悩みだしたらずっと独りで抱え込む性格だからね。下手すりゃ朝まで帰ってこなかったかもな」

父に促され、ホーリィは少しすまなそうな表情と低い腰で敷居をくぐり家の中に入る。
廊下やタンスの上等、至る所に飾られている額縁の全部の写真が彼目線で微笑んでいる。彼は思わず目を逸らした。
これは羨望というべきだろうか?家の至る所が一家の愛情で満ちているようだ。
――俺が暮らした所は、風呂もないボロアパートだったもんなぁ…
湯気が隙間から漏れているバスルームを見ながらホーリィは思う。


.


ヒマワキの町外れ、とは言ってもシィラたちの居る気の上の家と大分近いがそこに蠢く影が幾つもある。
夜の色調に合わせたマントで全身を覆い、その存在をも隠している。影の数はおおよそ4,5といった所か。
皮製の靴を履いた一人が足音を掻き消しながら、体長と思しき違う色のマント男に歩み寄ってくる。

「ハルス部隊長…準備が整いました……」

声は低く細く、辺りをバタバタと羽ばたいているドクケイルの音でさえも掻き消されそうだ。

「よし、順調だな…作戦"M"に入れ。範囲はこのヒマワキ全域でやれよ?」

「町の人間はどうしましょう?」

「ふん…構わん、皆殺しにしもいいぞ?」

「は…はい」

その人影の後ろ、そこにいるのはポケモンではあるが目が赤く異様な光をたたえていた。
人の手で手折られた角、無数の傷跡、首には"S"の紋章が刻まれた首輪、彼らはそれで自由を奪われ束縛されている。
大地の化身、サイドン…彼らにとって望まぬ暗い陰謀の手が伸び始めていた…。

そして刹那、ヒマワキの大惨事の幕が起こる。


戻る                                                       >>7へ

 

inserted by FC2 system