【7】

湯気が立ち込める浴室で私は曇ったガラスに写る自分の顔を見た。泥は全部流れ落ち、切り傷も塞がったものの、
心が負った傷は癒えず、汚れていたままだった。モノクロに写る私の顔は今にも泣きそうに歪んだ。顔を湯船につけ、涙を清める。
外の暴虐に満ちた世界から隔絶された四角く狭い空間。シャワーから滴り落ちる雫がリズムを刻んでいる。
涙は止め処なく湯の中に溢れ、次第に息苦しくなる。私は耐え切れなくなって―― ぷはぁ、と息をついた。

目を瞑ると網膜の裏に侮辱と嘲笑の渦が鮮明に蘇ってくる…。誰もが目を上向きの弓のように釣り上げ、
口元は魔のように薄笑みを浮かべている。全員が敵に思ったら最後、こんな風に見えてくるらしい。
私の周りを円陣を組んで取り囲み、私目掛けて物を投げかけてくる。―― やめて と言っても誰も聞く者も居ない。
ただヒンバスとキノココの木製モンスターボールを子の様に抱え込む程度の事しか出来なかった。 
考えれば考えるほど憂鬱な感情が増幅して、まださほど膨らみのない胸を押しつぶそうとしている。

―― 諦めたって誰も責めたりしない それはそれであなたにはその先にまた違った道がある ――

ふとメリーの言葉を思い出し、「諦める」という単語を私は何度も復唱していた。
私はヒンバスを手放すべきか…それともこのまま抗い続けるか…、湯船の中でのぼせそうなぐらい、思考に浸かる。
正直な話、諦める事が誘惑のように付きまとう様になっていたと言った方が良い。 ふとモヤの向こうに

父のヒゲ剃り様の剃刀が目に入った。

―― ……っ ――

私は目を細めた。そして直後フン、と踵を返すように湯船からザバリとあがる。まだよからぬ事を考えさせる要素を見て
すぐに拒絶反応がでたとなると、私は恵まれている方だ。急にさっきまでの悩みが嘘のように消えた。
洗面所で髪を旧式のドライヤーで乾かす。電池切れで風力が弱っていて、私は小さく呻いた。また母さん買い忘れてる…
すぐ様、前もって準備した換えの普段着に手を伸ばした。仮にも客が着ている為、バスローブ一枚で出ていくのも流石に危ない。

―― 早く夕御飯食べなきゃ、今夜はトンカツだからちょっと嫌だなぁ… ――

と思った次の瞬間、身体の平衡が取れなくなる。よろめいた私は何とか壁伝いに我が身を支えた。洗面台を見てみると
四本の歯ブラシがコップの中で震えながら踊っている。すぐに地震だと分かった。ヒマワキに地震なんて相当珍しい。
私は稀にみる自然現象を前にしばらく立ち尽くしていたが…その振れ幅はどんどん大きくなっていく。

「え…うそ…」

最初は好奇心だけだったが、揺れに不安感が根付き、恐怖心が募る。私は必死に探るように二つのモンスターボールを手に取る。
そしてその這うようにように洗面台から出た。一気に赤子に逆転したような感覚だ。居間までの廊下がやけに長く見える。
だが、マグニチュードは大方6〜7を越えたように揺れに揺れ、私は怖くて怖くてたまらなかった。
すると突然、追い討ちをかけるように廊下のヒノキが一気に亀裂を作り、裂ける。私は絶叫した。

「父さん!母さんっ!…お兄ちゃんっ!!」

次の瞬間、暖かな我が家は地獄へと化す。崩れた瓦礫(がれき)のなだれに飲み込まれ、私は泣き叫んだ。
ただずっと、手の中にあるヒンバスの温もりをボール越しに感じているだけ…それだけが暖かかった。
それ以外は全身で闇底に墜ちていくような、そんな感覚しか残らなかった。





ざわめきの中で私は目覚めた。毛布一枚を取り去り、私はキョロキョロと辺りを見回す。まず最初に目に入ったのは
看護婦に右腕の怪我を治しててもらっているモラロの姿が、その隣に欠伸をしながら本を呼んでいるホーリィが居た。  
ここは家ではない。ダンボールでマスの目に仕切りを入れられてそれぞれが部屋となっている。床はそこいらにある
青いビニールのマットが大部屋を敷き詰めている。その合間から床が覗き込んでいるが、私はそれを見てここが学校と分った。
すぐにモラロは私に気付いた。

「よっ、シィラ。やっと目が覚めたか。 いてて…」

「動かないでくださいね ガラスで右腕を切った傷口が開きますよ?」

看護婦の言葉で私は一瞬ぞっとした。

「大丈夫ですって。利き腕じゃないから助かりましたよ」

とモラロは返した。―― 何か、前にも見たような光景だなぁ と私はポカンとしているとホーリィが

「運がよかったなシィラさん。たまたま廊下に居たから大地震の時、
瓦礫に挟まれずに済んだし、家が倒壊しても君は殆ど外傷はなかったからね」

「あの…父さんと母さんは…?」

一瞬二人の表情が重くなる。私は顔の血気が引いたような感覚にとらわれた。沈黙が流れ、生唾が口の中に溜まる。  
それを飲み干し、私はどもりながらも二人にさっきと同じ質問を訊ねてみた。それにモラロは気まずそうに、私を見やる。
毛布をつかむ私の手の握力が緊張で強くなった。さっきの風呂場で見た剃刀が跡形もなく脳裏の彼方に消し飛ぶ。

「…意識不明の重体だよ…二人共……」

「……え…」

「医務室代わりとした職員室で包帯巻かれて寝てるよ…」

私の目は藍から真っ黒に変色して光を失っている。モラロはさっきまで表向きに明るく振舞っていただけだったのが分かった。
おにぎり配給に来た係員が3人の重い空気に気おされ、しばらく声かけることができずにいた。
―― 父さんと母さんが、重体…? さっきまであんなに元気だったのに… 
ラジオのクラシック番組とワイドショーでいつも仲良く口喧嘩してた二人が意識不明の重体になっている…。
しかも生まれてずっと暮らしていた家も街も壊滅したという。僅かな時間で異世界に引きずり込まれたような感覚だ。

ホーリィは係員に気付いて、 ――取り合えず食べよう、となだめるように口を割る。
私は親を失ったせいか食欲も失い、鮭も梅も味が分からなかった。本当なら今頃食べたくもないトンカツを食べているのに。
けど何故に突然あんな大地震がこのヒマワキに起こったのか?長らく地面が揺れる事は無縁だったはず
多分それが災いしてヒマワキの住民の被害は大きかった。ましてや木の上の住居だからか倒壊しなかった家はない。
負傷者に死傷者、その被害も大きかった。 

私が呆然としていると、空になったおにぎりの大皿に人影が差し伸べてくる。

3人はそこに立つ人間を見上げる。まずオールバックが目に付く白衣を着た青年。歳は20代後半とみた。
左胸のエムブレムは天気研究所と書かれている。それで大方私はこの人が誰なのか、予想がついた。

「え、何か御用すか?」

「失礼したね。…私はセイン・リー。まだなりたてだけど、天気研究所の局長です。
確かモラロさんといいましたね?レオンから話は聞いてます」

―― やっぱり! 

「ああ、そういう事でしたか」

「…ご両親が意識不明の重体と聞いてきました。心中お察し申し上げます。
何しろ、これだけ大勢の中でも両親共々の被害があったのはあなた方を含めてわずか二家庭だけですからね。
しばらくの避難所暮らしはヒマワキの町内役人の方と私達研究員の保護下に置かれますので、その事を伝えに来ました」

「は、はぁ…どうぞよろしく」

私はモラロの態度にムッとして、セインの目に入らないように注意しながらモラロの尻をつねった。

「いっ、す…すみませんでした! ナニトゾよろしくお願いします!」

「ははは、漫才兄妹ですか。レオンの言ったとおりですね。では…ええと」

セインはモラロ、シィラそして端にいるホーリィを見て調査書らしき書類を手に取り、すぐに―― あれ?と声を出した。

「おや、3人兄妹でしたっけ?住民登録には2人と書かれていますが…あなたは?」

「あぁ、俺は部外者です。たまたまその日ここの家に泊めてもらうことになって。
でもこの分じゃ邪魔にしかならないだろうし…そろそろお暇させてもらうとするかな?」

「いや?俺は構わないぜ、手伝ってくれるならここに居てくれると寧ろ助かるし。なぁシィラ」

「ホーリィさん、ここに居てもらえますか?お礼もしたいし、旅の話も聞いてみたいし」

余計に迷惑をかけるのではないかとホーリィは迷いがちに頭を掻き毟っている。けれど断るのもそれこと無礼だな、と

「んー、そっか。じゃ、ご好意に甘えさせてもらいますか」  





町の様子は私たちが予想していたのより遥かに荒れ果てていた。根からポッキリ折れた大木には永い期間
居座り続けていたかのように暗い翡翠色の苔がびっしりとついている。大木の上で生活していた木造の家は
全て地面に落ち崩れていてどれが自分の家なのかすら私には分からない。広くなった空には夜行性のヤンヤンマが飛んでいて、
ヒマワキの町に木枯らしのような風が吹き付けている。私とモラロはただただ呆然としているだけだった。
壊れた家には小瓶に入れた花が添えてある。私はそれを見る度に顔をしかめた。

「ここが…ヒマワキかよ」

モラロがふと横を見ると、ホーリィが折れて朽ちた大木の裏に回っているのに気づいた。モラロは慌てて彼を追う。

「おいおい、ホーリィ!一体どこへ…
…!」

そこでモラロは言葉と足を止めた。眼前の地面に大きく、深い亀裂がホーリィとモラロの前に立ちふさがっている。
深さは辺りが暗くてよく分からないが、相当深いのは予想できる。全長役20メートル、溝の幅は3〜4メートルほど。
これほど大きな溝を掘るなら、鍬やシャベルを使っても丸一日の労働は必要とする。

「ホーリィ…これもさっきの地震の影響なのか…?」

モラロは尋ねる。が、ホーリィはしばらく地質学者のように辺りを観察し、少し間をおいてから答えた。
丁度私もその時、この大きな溝を前にモラロと同じように唖然としてしまった。肩に乗せたキノココが怯えている。

「んー、地震…っちゃ地震だけどね、ちょっとこれは普通の地震じゃないな」

「どういう事?」

「見てみなよ、あの溝の向こう。こっちはヒマワキの大木が折れているのに、向こうの方はさほど被害がないだろ?」

ホーリィの言うとおりだった。ここから先には森がまた生い茂っている。いや、よく見てみるとこのヒマワキを中心として
ミステリーサークルのように大地震が起こったようにも彼らには見えた。森との境を目で追ってみると円で囲まれているのに
気づいた。どんな自然現象でもこんな狭い範囲のみでこんな大地震を起こせるはずがない。

「これは多分、ポケモンの技の類だぜ。多分これは…」

「…まさか」

「ああ、『禁忌技「地震」』だな。しかもこの規模からして2〜3体は使ったろう」

「よりによって…」

「ね、お兄ちゃん『禁忌技』って何?」

まぁ、トレーナー成り立ての私が知らないのも無理はない。
『禁忌技』とはトレーナー業界で定められたポケモンが覚える技のうち、覚える事も扱う事も禁止とされている技をさす。
主にそれは今ホーリィが言ったような『地震』とか『吹雪』『大文字』『破壊光線』などなど…
扱うにあたって関係のない人間に被害をこうむる可能性がある為である。無論トレーナー界の検定を潜り抜けたもの意外で禁忌技を使えば
その者には無条件トレーナー免停、並びに懲罰が科せられる…。

「…というわけだ。これをやった奴は間違いなく死刑か、無期懲役ってところだな」

私はぽかんと聞いているだけだった。トレーナーになるだけでもこんなに厳しい関門が幾つもあるとは予想だにしなかった。
―― ひとまず避難所に戻って寝ようぜ とモラロが言い出し、歩いていく中私のヒンバスのボールと肩に乗るキノココが
無常に重く感じたのは気のせいだろうか。 でも私はそんな事より、病室で包帯を巻かれた両親を見た時のショックの方が
だんちで大きかったのは言うまでもない。





翌朝、朝日が照らす中で私は一人で河に向かって歩いていた。いつも楽しみにしていた木漏れ日と木陰は今日からもうない。
空のポリタンクを片手にそう侘しい思いに浸っている。私は今、避難所のお使いで河に水を汲むよう言われて出てきたのだ。
荒れた町と林道を降りて、ようやく河の流れる音が聞こえるようになってきた。あの川原で汲もうと思った時、

「……っ!?」

私の背筋に凍るような冷たい悪寒が走る。川原には先客が2人、それもあれは…クラスメートのユキとセフィだった。
そこにたたずんで何をやっているのかは私としてはどうでもいい事。本能が「逃げろ!!」と叫びたくっていた。
幸いあの3人組のうちの2人しかいない。足音を忍ばせてすぐに逃げる事にした。だが私はそこで絶望する。

「あらぁ?ゴミシィラじゃん」

もう1人が後背に居た。ケイコだ。しかもその声に気づいた2人もこっちに近づいてくる。

「こんなとこで何してんのよ」

「え、えっと…水を汲みに……」

「水ぅ?あの汚いヒンバスの波乗りで浴びるほど飲めばいいじゃん」

ケイコの言葉に連中は高笑いをした。私の手足が震えだす。しどろもどろしている間に私はもう3人に取り囲まれている。


「丁度いいわ、昨日の大地震で寝るトコなくて苛々してたのよね。 いたぶってやるわ…」


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