NO.3

――誰も来ない。大丈夫。今なら行ける。

わずか十メートルかそこらの距離。木々に遮られずに自らの姿を晒すのはそれだけの距離だった。

――長い。息が切れる。でも立ち止まれない。

ようやく木の根元に到達し、そのまま勢いを殺さずに一気に駆け上った。
頭の中で重たい鐘が鳴っているような感覚。喉が渇く。心臓の鼓動がまるで耳元から聞こえるようだ。
何のことはない。ただ木を登るだけの単純な動作。
虚弱な彼女にさえ朝飯前と言うほど当たり前の技能として、脈々と受け継がれてきたこの行為でさえも、今の彼女を疲弊させるには充分だった。
全身に感じる凄まじい重圧。自分がこれほどまでに人間を恐れていたとは思わなかった。
目の奥がチリチリする。頭が重い。息が苦しい。
その場に留まって休んでいたが、一向に回復する気配がない。
それどころか、汗が滲み始め、目の前の光景が霞みさえした。

「おろ? また迷ったかな」

ビクン!

全身の毛が逆立ち、ギザギザの尻尾は中に鉄の棒でも差し込まれたかのように上を向いた。
朦朧としかけていた意識が一瞬にして明瞭になり、全身の感覚が無理やり引き戻される。
間違いない。人間の声だ。
気づかれるはずはない。自分は木の上で、うまく葉に隠れているはずだ。
頭では理解していても、体は不安を拭い切れなかった。
音を立てないようにそっと、木の葉の間から様子を伺う。幸い、自分に声は無い。
一度、体外に出た汗がそのまま引っ込んでしまうような、生温い不快感。
たった一人、人間の少年がいるだけで、両脇を石の壁に挟まれているような強烈な圧迫感を感じる。
それは、いつか蜂どもの群れを巻いたときの感覚に似ていた。

今時の若者らしき少年がキョロキョロと、暗い森の道を見回している。
腰には当然のように、上半分が赤で下半分が白の球体がくくりつけられている。

――早く、早くどこかへ行ってしまえ。

そう彼女が念じ続けている間も、彼は地図を見ながらその場で唸っている。

ガサ……

再び心臓が跳ね上がる。自分は動いていないはずなのに、何故。
息の詰まるような長い時間の中で、彼女はもう一度その物音を聞いた。
そいつはいた。確実に彼女の近くに。

どれくらい前からいたのだろう。そういえば、先ほどからの圧迫感はあの少年によるものだけではない気がする。
ぴったりと背後にくっついて。吐息も足音も、気配すら自分と同調させる何者かが。
それは確かにいるのだ。ずっと自分を監視している。いったい何故、何のために?
その物音は、いつまでも硬直している自分への何かの催促のように思われた。

出来るだけ音を立てないようにして、体の向きをπラジアンだけ回転させる。
小さな自分を見下ろすのは、黄色い体をした同族の誰か。ただ、冷たい瞳を向けて、そこに立っていた。

「そんなところで何をしている。さっさと退け。
何とか言ったらどうだ?」

そんな声が、音も無しに伝わってくるような、無言の圧力。
この辺りの同族を牛耳っている者だろう。どうやら、知らないうちに縄張りに入り込んでいたらしい。
蜂どもの脅威がなく、木の実が豊富。考えてもみれば、これほど恵まれた環境が未開の地のはずはなかった。

動けない。
心のどこかで、同族だけは自分の味方なのだと甘えていたのだ。
その同族を以って、この冷徹な眼差し。
自分は天涯孤独に、独りで生き延びなければならない、という事実を突きつけられた気がして、悔しかった。

――落ち着け。元よりそのつもりだったじゃないか。
彼は縄張りに勝手に入られて気が立っているだけ。私がさっさと立ち去れば何も文句はないはずだ。
ここは諦めよう。そして、どこか別の場所で木の実を探そう。

――……どこか別の場所? さっさと立ち去る?

そうしてようやく、彼女は自分の置かれた絶望的な状況に気づかされた。
立ち去ろうとすれば人間の少年に見つかり、立ち去らなければこの同族に追い立てられる。
八方塞。生き延びるためにはどうしたらいい?


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