NO.4

 突如、腹部への鈍い衝撃。痛覚がそれを大脳に伝える頃には、既に体が浮いていた。
足が木の枝から離れ、視界には自分を見下ろす同族が九カンマ八の加速度で遠ざかる姿。
弱者への冷たい嘲笑が突き刺さる。自分は、痺れを切らせたそいつに蹴飛ばされるなり何なりしたのだろう。

「ッ!!」
「ん……?」

悔しい、と思う間もなく背中から地面に叩き付けられる。
幸い、草が衝撃を吸収してくれたものの、先ほどの少年には気づかれてしまった。

――ここから逃げよう。とにかく、急いで、今すぐに。
捕まれば命の保障はない。それはさっきも確認したこと。
捕まってなどやるものか。私は生き延びるんだ。

器用に全身をバネのようにして起き上がり、彼女は走り出した。
暗闇でも目立つ色の体毛を、今日ほど呪ったことはなかった。

「おーい、待ってくれー」

――何で? どうして追いかけてくる?
そんなに私を殺したい? 私は生きていてはいけない存在?

絶望がのしかかる。涙は出ないし、声も出ない。
ただ悔しくて、彼女は走り続けた。

――死んでなどやるものか。世界が私を拒んでも、私は生き延びてみせる。
世界が私を殺そうとしても、私はこうして逃げ続けよう。
それが、私を拒んだ世界に対する、私のささやかな反抗。

どこまで走っても、少年は追いかけてきた。
彼女も、なりふりかまわず必死で逃げた。
迷宮のような木々のあちこちに体をぶつけた。石ころにもつまづいた。
ヤブに飛び込んで全身傷だらけになっても、あの蜂どもに襲われたときに比べればくすぐったいくらいだった。

――……あれ?

その光景と、「蜂ども」という言葉が妙に重なる。
ヤブから飛び出した彼女は大木を見ながら数秒固まった。
その無数に分かれた枝から吊るされているのは、間違いない。
黄土色の悪魔とも言うべき、サナギの集団。

まずい! と思ったときには、既に遅かった。
無数の黒い視線が降り注ぐ。バリバリと、縁起の悪い音があちこちから響いてくる。
後ろに引き返せば少年が、このまま直進すれば蜂どもの大群が、この場にとどまればその両方が。
どれを選んだとしても殺される。ならば、逃げるしかない。

「いたいた! って、こら!」

突っ込んできた少年を避けて、少年が元来た方向へ走る。

バリ

「え……?」

不吉な音。少年が見上げたのは、やはりこの世のものとは思えない絶望的な光景。
黄土色の殻を破って出てくる、危険の代名詞。
数多の黒いまなざしが彼を捉え、少年は血の気が引いていくのを感じていた。

「冗談じゃねー!!」

言うまでもない。体の向きを百八十度回転し、猛ダッシュ。
深夜の森で繰り広げられる、壮絶なチェイス。
あわよくば、少年に連中の足止めをさせようと考えていた彼女だったが、少年がまた自分を追ってくるとは予想だにしていなかった。

「おいこらっ、なんてことしてくれんだよ!」

危機感たっぷりの引きつった顔で、それでもどこか余裕を隠した物言い。
それが癇に障ったのか、彼女は走る速度を上げた。

――うるさい。あんたが私を*そうとするからいけないんだ。
そのままくたびれて、蜂どもに*されてしまえ。それで私は生き延びる!

連中はもちろん、少年も速度を緩めなかった。
速度を緩めれば、そこが彼の墓になってしまうのだから、当然と言えば当然のことである。

どれだけ逃げ続けただろう。蜂の大群はどこまでも、執拗に追いかけてきた。
やがて、前方の大地が消える。ギリギリの端まで近づかなければ見えないような、あまりに急な斜面。
俯角は大体七十度、高さは目測で十メートルはある。ここを転がり落ちれば、タダでは済むまい。

躊躇う間に、少年はすぐ隣に、連中も後から次々にやってくる。

「冗談じゃない。死んでたまるか」

――それは私の台詞だ。

心の中では強がっていても、躊躇うことなく襲い来る蜂の大群を相手に、彼女の足はとうとう動かなくなった。
あまりにも強烈な、恐怖と疲労のダブルパンチ。死神とも言うべき連中が迫るに連れて、徐々に全身の感覚が抜けていく。
諦念が脳裏を掠め、ついに一匹目の刺客が目前に迫った。


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