NO.5

 無慈悲に迫る死神達が、とてもゆっくり見えた。
しかし、彼女の体は全く命令を聞かない。
逃げなければ、と心のどこかで思っていても、それは全く実感を伴わない。
要するに、彼女は半ば諦めていた。もう逃げられないのだ。
そんなドロリとしたスローモーションの世界に、異質な存在が入ってくる。
それに違和感を感じ始めた途端に、世界は動き出した。

刹那、刺客の姿が一瞬にして消える。
急に速度を増した異質な存在ががそいつを直撃し、一瞬にして飲み込んでしまったのである。
少年が腰にくくりつけていた赤と白の玉だった。

「行くぞ馬鹿ねずみ!」

驚愕。否、それを驚愕と理解する頃には、既に全身を腕の束縛と浮遊感が支配していた。
連中と、その遥か上空に見える蒼い月が、九カンマ八の加速度で遠ざかる。
もがこうとしても、少年の腕は彼女を放さなかった。

「暴れるなよ! うまくすりゃ逃げ切れるぞ!」

落下の感覚は、先ほど木から落とされたときと同じ。
ただし、着地の衝撃はない。
下に向かうベクトルの速度がゼロになり、誰かの短い呻き声が聞こえた。
上からは、しつこい連中がまだ襲ってくる。

グルンと、視界が回転した。月が消え、緑色の大地を通り過ぎて再び月が現れる。
先ほどまで少年が呻いていた地点に、猛毒の針が突き刺さった。

「ヒュー、危ない」

彼女を抱えたまま、一歩踏み外せば死が待ち構えているというこの状況で、泥だらけの少年は軽口をたたいた。
脇に抱えられた彼女は、身動きが取れない、と言うよりも、逃げることを忘れてしまったかのようだった。
少年は間違いなく虚勢を張っている。そうしていなければ自分を保つことが出来ないのだろう。
激しく伝わってくる彼の鼓動と共に、少年の心が流れ込んでくる気がした。
こうして逃げ続けながら、必死に虚勢を張って生き延びようとする姿が自分と重なる。

――何故? 何故、人間が私を助けた?
待て、私を助けて彼に何の得がある?
そもそも、彼が私を追ってきたのは何故?
そうだ、彼はトレーナー。きっと逃げ切っても、すぐに私を捨てるだろう。
もしくは、連中に襲われたことを恨まれて*されるかもしれない。
逃げなきゃ。逃げなきゃ……っ!!

人を軽々しく信じてはいけない。
どんなに優しい顔をしていたって、彼らはいつだって自分を捨て、殺そうとしてきたのだ。
そう考えると、彼女は一刻も早くこの場から逃れなければならないような気がしてきた。
このまま少年に連れて行かれれば、またこれまでと同じ。もしくは、そこで全てが終わり。

腕の中で必死にもがいた。優しい顔と言葉で今までどれだけ騙されたことか。
逃げなければならない。そうしなければ、自分はこの温もりに溺れてしまう。
溺れて、身動きが取れなくなったところでこれまでのように投げ捨てられるのだ。

「だあ! こら、暴れんな!
せっかく助けてやったんだから、もう少しその命を大事にしろ!」

乱暴な言葉遣い。やはり少年は自分を*すつもりなのだ。
一瞬だけ、心臓が大きく動いた気がした。

ドロリ。

再び彼女の頭に、冷たい感覚が広がっていく。
ビリビリと、全身が痺れるのがわかった。

――今なら、やれる。


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