Page 23 : 討ち合い
 ブレットは細い息を歯の間に通して吐きだした。こうすると自然と頭が引き締まっていく。
 研ぎ澄まされていく神経。本当に集中すれば今流れている川の音も風の音も、そして揺れる草原の音も全て吸いこまれるように聞こえなくなる。無音の世界に自分を溶け込ませることができる。
 けれど今はそこまで集中させるような余裕は彼に無い。ブレット自身の精神的にもそうだし、きっと相手も与えてはくれないだろう。
 バジルはブレットのように明らかに臨戦体勢に入っているように見えない。が、ピリピリとした空気はバジルから発せられていた。ただ立っているだけなのに隙が見えない。二人の間の距離は五メートルほど。
 強くなりだしてきた風、今にも雨を落としそうな雲。重くなってきた空気の中、ブレットは口の中が乾燥しているのが分かった。
 その時、沈黙を弾き飛ばしたのはバジルだ。
 先手必勝か、一気に間合いを詰めると足を回す。ブレットは警戒していたおかげで上に跳んでそれを避ける。大きなジャンプだ。高いが、加えて距離もとった。
 それを眼で追うバジル。ブレットは空中で一回転して着地する。バジルとブレットの位置が変わった。地面に着いたその瞬間、ブレットは走りだす。方向はバジルとは正反対の林へと。それに驚いたようにバジルは目を丸くする。
「疾風、逃げるつもりか!」
 挑発の意を含めてそう叫んだバジルだったがブレットは足を止めない。その様子を見るとバジルは舌打ちをしてその後を追う。
 ブレットは軽く後方を向いて、相手が追ってきているのを確認した。何とか自分が思った通りに事は進んでいる。
 少しでもがクロが安全になれるように時間稼ぎをする、それがブレットの狙いだ。それに隠れ場所が無い広い草原よりも、木々が茂る林の中の方がブレットは得意だった。
 林の中に跳び込む。それと同時に地面を強く蹴り空中に跳び上がるブレット。一つの太い枝に手をかけると一気にその枝に足を乗せた。
 休む暇は無い。軽い足取りでどんどん木から木へとジャンプして移動していく。
 すぐ後にバジルも林の中に入り上を見上げた。木の葉がざわめいている。大きく枝が揺れていてそれがほぼ直線状に同じように続いていた。ブレットの通った形跡だと確信する。
 バジルはブレットが向かう方向へと足を走らせる。木々の間を抜けながら追った。しかし段々と離れていく二人の間の距離。流石の速さにバジルは脱帽せざるを得ない。
 と、その途中でバジルは急ブレーキをかける。急に空気が静まり、バジルは辺りを見回す。五感を研ぎ澄ませるが、求めるものは無い。ブレットの気配が突如として消えた。走っているような音もしない。一歩ずつ静かに歩を進めながら様子をうかがう。
「気配を消したか……まだ近くにいるはずだ」
 ぼそりと呟く。真上に目をやると背の高い木々の間から厚い雲が顔をのぞかせる。
 バジルは下に視線を向け、そっと目を閉じて地面に右手をつける。細い呼吸をして、集中する。風が彼の髪を揺らした。
 その様子をブレットは少し遠目ながら観察していた。人が手をつけない故に上へとひたすら伸び続ける木に身を寄せて。
 全神経を集中させて無の静寂を創り出す。息は細々としていて決して音は立たせない。身動き一つしない。瞬きさえもなるべくしないようにと心がける。
 金髪である故に普段目立つが、高さに加えて青々しい木の葉がブレットの身を隠している。
 ブレットは唇を噛んだ。こうして何もしていなければ動かない。あっちが何をしてくるか分からない。――そう、分からないのだ。
 幾度となくブレットはバジルに任務を任されて信頼を得てきたものの、ブレットはバジルについて何も知らなかった。
 彼が持っている潜在の力、それがどれほどでどんなものなのか、ブレットは知らない。あれほど近くにいたのに。けれど、少なくとも自身より上なのは確かだ。黒の団においては一部を除き戦闘の実力順に優劣がつけられる。ブレットはバジルよりもずっと下の層。バジルの地位は少し特殊なものでもあるが。
 どうであれ迂闊に戦えば危険だ。バジルはブレットの立場とは逆にブレットの事をよく知っている。
 今バジルのしている行動もブレットにとっては何をしているのかさっぱりだ。どんな意味があってやっているのか全く当てが無い。が、意味のない行動である筈がない。
 クロに出逢った時のようにナイフを投げるか、いや、そうすればきっと避けられる。そしてこちらの居場所が突き止められる。
 思わずブレットは溜息を吐きたくなってしまう。それでも結局自分には足しかないのだ。どんなに考えようとやれることは随分と限られている。自分の力のことなど自分が一番よく知っている。この戦いだって勝ち目が無いだろうという諦めは薄々とついていた。
 それでも、ブレットは自分がやるべきことを貫く他無い。戻ることができないのなら進むしか無いのだ。
 バジルが今ブレットの位置を把握していないのは分かっている。枝を蹴り一気に跳び下りる。引力も助けてスピードは更に乗るだろう。
 一気に決める。
 強風に煽られる木の葉のいくつもの音。すっと息を吸い込むブレット。
 相変わらずの姿勢のままで、バジルは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。乾いた唇を無意識に舌で舐める。
 右手を地面から離れさせる。
 それを見届けたブレットは足が小刻みに震えているのを感じた。頭の中が一瞬ふらついて、が、すぐにそれを押さえようと確かな意識を保つ。
 獣に似た瞳が光る。枝に両手を当てて、顔を俯かせた。今にも跳び出してしまいそうであった。見開かれた眼の瞳孔が少し縦に伸びる。
 両手の指先の力が強くなり、爪が変形する。一気に五センチほど伸びて先が鋭く尖り更に硬化する。ぴりぴりとした痺れのような痛みが一瞬で全身に行き渡る。
「グ……」
 思わず若干零れ落ちた声。低い声だった。震えながらゆっくりとバジルを見下ろす。視線の先、一直線上に彼はいる。
 ブレットは一気に息を吸い込んだ、その直後、枝を思いっきり蹴った。電光石火の如く恐るべきスピードだ。
 バジルはそれに気がついて弾かれるように上を見た。が、上を見上げたと同時にブレットはバジルのすぐ傍にいた。息をつかせる暇もない。瞬間移動でやってきたかのようだった。身体をひるがえすバジル。ブレットは逃さまいと言わんばかりに目で追う。バジルの動きは手に取る様にブレットには分かった。ブレットの方が速いのだ。手を振り上げた、そしてすぐにそれを一気に下ろす。尖った爪が立ち、バジルの身体、左肩から下へと引き裂く。叫び声をあげるブレット。その声は今までとはまるで別人のようだった。
 バジルは鋭い痛みに顔を歪ませる。が、歯を食いしばって後退すると、着用していた黒い上着を剥がすように脱ぐと、それをブレットに向かって投げつける。一瞬視界が黒くなったブレットだが、咄嗟に避けた。バジルは右手で肩を押さえながらも眼だけはブレットを追う。灰色の無地の長袖のVネック、一番ダメージが大きかった左肩からは赤い血が吹き出ていた。
 右の袖からブレスレットが覗く。黒いものだ。バジルは右手に力を込める。
 ブレットは再びバジルに近付こうと足を動かした――が。
「!?」
 ブレットは眼を見開く。前に倒れ込む。足は動かない、いや動けないのだ。必死に動こうと身体をねじるブレット。その様子を見たバジルが思わず口元を上げる。
 掴むようにブレットの足元に巻きついているものがあるのだ。それは、近くの木から伸びた太い根であった。
 荒かった呼吸が少しずつ落ち着いてくるブレット。飛んでいた自制が戻ってきて、急速に心が冷えていく。爪も瞳も元のように戻る。
 倒れ込んだままブレットは動けない。根が巻きついているせいでうまく起き上がることさえできない。体内を流れる血を止める勢いで根は更に引き締めを強くする。
 ブレットはそれにするどい痛みを感じ、抜けようと必死に足掻いた。
「一瞬でも本物の獣になり下がるとは、堕ちたものだな。疾風」
 その声に顔をあげるブレット。うつ伏せで倒れているブレットを見下すバジルは、嘲笑するように身体を震わせる。
「所詮お前は出来損ないだ。足さえ封じてしまえばこちらのもの」
 ブレットは地面が僅かに揺れているのを感じた。が、それを察知したのも束の間、地下から手元に木の根が顔を出し、一気にブレットの両手の手首に巻きつく。
 強く締めつけられ、痛みが襲う。手首と足首を封じられたブレットは、身動きを完全に取れなくなった。
 ぽつり、と一筋の水が真上から落ちてくる。ゆっくりと雨は降り始めて、少しずつその量は多くなっていく。二人の身体が急速に冷えていった。
 バジルの服の左肩の部分は彼の血で染まっていた。
「死に急いだな」
 ブレットは雨の音が耳に痛く感じられた。夏故に暑い筈なのに、だんだんと寒くなってくる。
 量の多い金髪が濡れてしなり、顔に張り付く。頭についている包帯も濡れる。熱くなっていた頭の中がふらふらとしている。
 バジルは一歩ブレットに近付いて、じっと見つめる。
「これが、あなたの力ですか」
 ブレットは震えた声で問う。バジルは少し間を置いてから軽く頷く。
「そうだな」
「初めて見ました」
「初めて見せたからな。少しはその身で分かっただろう」
「そう、ですね」
 ブレットは足に違和感を感じた。痛みが激しかったが急にそれが消えて、何も感じなくなった。足という存在が消えたのではないかと疑うくらいに、感覚が消えた。
 ゆっくりとしゃがみ込むバジル。視線が絡み合い、バジルは溜息をつく。その音は雨で掻き消された。
「何もかもお前は中途半端だ。これを使えば、一瞬で終わっただろうに」
 そう言うと、バジルはブレットの首元に手を運び、ソレを引っ張る。細い細いチェーンのペンダントだ。丁度引っ張った所には加工された石のようなものがついている。
 ブレットはそれを持たれた途端に心臓が大きく高鳴るのを感じた。金髪の下の顔が引きつる。バジルはそれから手を離して、またブレットに向き合う。
「本気で俺を殺そうと思えなかったんだろう。その中途半端な気持ちで俺に勝てるとでも思ったのか。お前は気持ちまで出来損ないだとは思わなかったけどな」
「く……」
 激しく罵倒されるブレットは反撃をしたかったが自身は動けないし、返す言葉も見つからない。
 確実に強まっていく雨。水が地上に叩きつけられる音はブレットの鼓膜を引っ掻くように響く。
 どうしてあんなことをしたんだ。
 バジルは声にもならないような呟きを零す。勿論それはブレットには聞こえていない。ただ口が動くのだけはブレットにも分かり、少し首を傾げる。
 唇を噛みしめるバジル。両手を震えるほどに強く握りしめるとその身をひるがえした。
「毒を入れた」
 ブレットの耳に届くように言い放つバジル。
「すぐに身体を回る。そう長くない。……一人で、誰にも見られず死ぬんだな」
 濡れた草原を踏みしめる音が始まる。雨の中少し遅いテンポで僅かに辺りにこだまして、そしてブレットから遠ざかっていく。
 雨の霞の中に溶けていくバジル。その姿を呆然とブレットは見つめる。
 ひとり、ブレットはその場に取り残された。
 手足の木は緩む気配なく、その場にブレットを縛り付ける。けれどそれがもしも解かれたとしてもブレットは動くことは叶わないだろう。足の感覚が全くないのだ。
 恐らく毒を入れられたのは足。木の先にでも付いてブレットの足を突き、直接体内に流れ込んだのだろう。
 戦闘の疲れと毒とで体力と気力を完全に失ったブレットの視界は、もやがかかり始めていた。
 彼の耳に流れて込んでくるのは雨の音だけ。
 冷えていく身体。遠くなっていく意識の中で近づいてくる自分の最期に、ブレットは瞼を少し閉じた。
 だけど、これで終わりにできる。
 心の中でぼんやりと光る思い。瞼が重くなる。急激に眠気が襲いかかってきたのだ。疲労が身体中に重く圧し掛かる。
 片隅で思い出される少年の姿。小さくなっていく背中、その後に映るのはクロの姿だった。ブレットが長い間求めていた瞳と同じ瞳を持った少年。
 雨は絶えず彼を叩く。
 その音もブレットから離れていく。
 彼は瞼をそっと閉じた。
 眠気に任せて沈んでみると、とても心地よい感覚が彼を包んだ。


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