Page 29 : 遺跡

「おいアラン、ラーナーは一体どうしたんだ?」
 ガストンは怪訝な顔つきで店の机に突っ伏すラーナーを指差す。
 開店したものの朝はまだ客は居ない。薬屋の客など少ない方が良いことに越したことはないが、朝はいつもこうである。近所の病院も開いた頃から、処方箋を手にやってくる客がどっと増える。
 誰も座っていない椅子に座ってラーナーは必死に眠ろうとしているようだった。目を閉じ心を落ち着かせようとするが、やはりクロの言葉を振り払うことはできず目ははっきりと覚めたまま。
 奥の部屋からゆっくりと顔を出したアランはラーナーの姿を見ると顔を引きつらせた。何が原因かアランには不明だが心当たりがあるからこそのリアクションだろう。
 どう声をかけたらいいのか分からない男二人は彼女の姿をじっと見つめる。
「師匠、こういった場合どうすればいいんですか」
 アランはカウンターに背を向けてひそり声でガストンに尋ねる。つられるようにガストンも身体を百八十度回転する。
「どうすればいいかなんて分かるわけがないだろう。今実際困ってるんだから」
「おばさんを射止めた師匠なんですから、女性の気持ちは俺より分かるんじゃないんですかっ」
「馬鹿言え、エリアとラーナーを一緒にするな。ラーナーの方がずっと繊細だろう」
「た、確かに……」
「アラン、お前はバイト先でこういうのには慣れっこじゃないのか」
「何を言うんですか。確かに接客業ですけどあそこに来る人であんなに落ち込んでる人が来るなんて滅多にないっすよ」
 巨体のガストンがひそひそと話す様はいつになく動揺しているのが分かる。小さな会話が進められていく中で、来客が現れたことを示すドアの鈴の音が鳴った。
 慌てて男性二人は背筋を伸ばすと、客に向かって朝の挨拶を行う。中年の女性と五歳ぐらいの幼い男の子が手を繋いで店内に入った。具合が悪いのは男の子の方のようで、マスクの下で苦しげな咳を繰り返し鼻をすする音も聞こえる。
「アラン、カウンターの方を頼む」
 ガストンはアランに耳打ちしてカウンターを任せると自分は奥の部屋へと入っていく。
「これ、お願いします」
 女性はカウンターに対峙すると鞄からさっと一枚の小さな紙を渡した。近所の医者の処方した薬の内容が書かれている。
「分かりました。ではそちらの椅子にかけてお待ちください」
 アランは処方箋を受け取ると左手で女性を促す。女性は軽く礼をすると椅子へと向かう。
 その時勿論ラーナーの存在にも気付き、思わず顔をひそめたが見て見ぬふりをして少し遠くの椅子にかけた。
 が、男の子はじっとラーナーを見つめたまま視線を動かさない。彼の咳の音が部屋中に何度も何度も響く。
 その音に起こされるようにラーナーはゆっくりと身体を起こす。アランはガストンに処方箋を渡してから彼女が起き上がったのに気付いたが、その表情を見て思わず呆然とする。
 涙が伝ったような薄らとした跡が頬に残り、既に疲労困憊といったような酷い顔になっていた。ラーナーは男の子の存在に気付くと薄く笑って少しだけ手を振ってみせた。男の子は首を傾げ漸くラーナーから目を逸らす。
 様子を瞬きもさほどせずに傍観していたアランは唇を噛みしめる。
 と、その時オーバン家の生活間と繋がっているドアが開きアランは顔をぱっとそちらに向けた。エリアがエプロンを外しながら入ってくる。
「おばさん、カウンターお願いしますっていうか今日は一日休みをください! ちょっと野暮用が」
「はあ?」
 突然の頼みにエリアは眉をひそめた。が、その返事を聞く前にアランはばたばたと奥の部屋に入り同じことをガストンに願い出る。ガストンも突然の事に戸惑い手元に持っていたものを落としそうになる。
「すいません師匠、明日からまた頑張るのでお願いします! では!」
「お、おいアラン」
 アランは鼠のように素早く逃げ去る。カウンターに置いてあった自分の物が様々に入ったリュックを持つと、カウンターから跳び出し、ラーナーの元にやってきてその腕を掴んだ。思わずラーナーは身体を大きく震わせた。
「アランくん?」
「ラナちゃん、ちょっと来て」
 半ば無理矢理引っ張ってラーナーを立たせると、乱暴に店の入り口から直接外に出た。普段はこの出入り口を使わないため珍しい。それほどに急いでいるようだった。
 呆気にとられたエリアはぽかんと口を開け、その場に立ちつくす。部屋からオーバンも出てきてドアを見つめた。いつもより大きめの鈴の音が未だに響く。
 客の女性も何が起こったのか理解できず入口を見つめる。
 急に静かになって取り残された部屋に、男の子の咳がまた一つこだました。

 

 

 ラーナーには何が起こっているんだかさっぱり分からなかった。手を引かれるままに行動し、今現在はバスの中に身を置いている。
 バスの中は混んでおり、座ることが出来ずに立っている人もいた。ラーナーとアランは一番後ろの席に腰を下ろし、ひとまず落ち着く。アランは額に光る汗をリュックから取り出したタオルで拭く。
 大きく揺れるバス。今はトレアスの市街地の中心を走っていて、窓から外の景色を覗けば多くの人が歩き車が走っている。トレアスは坂に面した町で、この市街地以外は基本的に厳しい坂が続いている上、住宅が寄せ合うように立っている為道も狭い。だから自転車はほとんど見かけず人々は車、特にバスを重用する。市街地はオーバン家の周りと違って車線がいくつもあり、趣のある淡い色の石でできた背の高い建物が立ち並ぶ。
 途中ゆっくりとバスは停車し、待ってましたと言わんばかりにバスの中の殆どの人々がそのバス停で降りていく。通勤や通学目的の人が多いのだろう。
 一気にバスの中はがらんとして、窮屈だった空気も軽くなる。ほっとラーナーは一息ついて背中を丸めた。
「ね、アランくん。どうしたの突然」
 小さな声でラーナーはアランに尋ねる。
「ちょっとな。あまりに酷い顔をしていたもんだからちょっと見ていられなくなったっていうやつだ」
「酷い顔ってひどーい」
「そう思うんだったらまず鏡を見てみたらどうだい。まあ泣き顔も可愛いっちゃ可愛いけど、男の目の保養はやっぱり女の子の笑顔ってやつ。今笑えてないじゃん」
 言い返せないラーナーは押し黙り、何となく自分の膝に視線を落とした。
 バスは大きくカーブして少し細い道に入っていく。
 しばらく沈黙が続き、その間に二人ほどバスから出ていく。今バスの中にいるのは彼等二人を含めて四人。流石に殺風景である。
「クロに何言われたんだ」
 アランは呟くように問う。その瞬間にラーナーは驚いたように目を見開き、次に軽く笑った。ああやっぱり、そういうことか、心の中で哀しくあざ笑う。
 その表情を見たアランは目を細める。
「ここに、トレアスに残れって」
「……ほうほう」
「ここに居たほうがあたしもクロも良いからって。なんか、言われた時はショックでどうしようもなかったけど、落ち着いてみると……そうした方が、いいのかな」
 相変わらず下を向いたままぼそぼそと話すラーナー。口を少し尖らせてアランは大きな息を吐き、腕を組んだ。
 また沈黙が続き、途中で何人かバスに乗り込んではまた降りていく。人が入れ替わる中、ラーナーとアランだけは変わらず残る。坂は更に急になり、バスはトレアスをどんどん上がった。
 ラーナーは行先を知らない為バス停が過ぎるたびに不安が積っていく。
「どこで降りるの?」
「トレアス名物の坂の一番てっぺん、カミスラ遺跡前のバス停だ。世界的にも有名な遺跡でけっこう綺麗なんだぜ」
 ふーん、とラーナーは首を少し傾げる。あまりウォルタの外を知らないラーナーには、世界で有名であっても聞き覚えの無いものであることに変わりは無い。
 どうしてそこに突然行くことになったのか、ラーナーは思わず尋ねたくなったがやめた。もうここまで来たらただ流されるままにアランについていくことにする。それより他に仕方がないのだから。

 


 最後の会話から二十分ほどバスに揺らされ、ようやく目的地にたどり着く。財布どころが荷物を一つも持ち合わせていないラーナーがバス代を払える筈も無く、アランが二人分を一気に払う。申し訳なさそうに謝罪するラーナーをアランは気さくな笑顔でかわした。
 バスは近くのバスの止まる駐車場へと向かう。どうやらここが終点のようだった。それを見送った後、ラーナーは改めて顔を上げ遺跡の姿と対面した。
 カスミラ遺跡。
 大きく開けた青空を背景に、豊かな緑の中に古い褐色の建物が並ぶ風景は壮大である。かつてここにあった王宮の跡、それがカスミラ遺跡。風化などが原因で荒廃し崩れている塀や建物もあるが、今もなお原型をとどめているものも多く見える。以前は栄えていたのだろう、今は自然に覆われているような有様だがそれこそがこの遺跡の美。重々しく荘厳な歴史そのもの。そしてメインは坂の半ばにある宮殿だ。ラーナー達の居る場所から少し左側に見え、大きな木に囲まれながらも何よりも高く、堂々としている。
 頂上は遠く首を大きく曲げてようやく正面に見えた。あそこまで行くのだろうかと思うとラーナーは少し狼狽する。平坦な道ならまだしも急な上り坂だ。体力の消費は激しいだろう。
「ラナちゃん、勿論観光はしてもらいたいんだけど、今日の目的はそれじゃないんだ」
 遺跡に見惚れていたラーナーはその言葉ではっと我にかえった。遅れてその言葉の意味を噛み砕き、首を捻る。
 それからアランは遺跡の入り口へと先導するように身体をひるがえし、ラーナーも慌てて後を追う。淡い石でできた道が遺跡の世界へと誘い、それを少しずつ辿っていく。
「ラナちゃん、クロのことどう思ってる?」
 アランはラーナーを隣に来るよう手で招いてから問う。思いがけない質問にラーナーは困惑した。どう思っているか。それは自分でもよく分からなかった。彼は自分の命の恩人であり、共に旅をしている仲間。友達という言葉とは違う。仲間の方がしっくりと落ち着く。そんな存在。けれど結局はよく分からない。分からないのだ。自分でも。
「分からない」
 結局言葉を濁してしまうラーナーは、自分のことが何故だか惨めに思えた。
「よく分からないよ」
「そっか。そうだと思う。俺も未だによく分かんないし、あいつのこと」
「え、でも、アランくんはずっと前からクロのことを知っているんでしょ?」
「あいつはまだまだ俺にも沢山隠しごとしてるよ。基本的にポーカーフェイスだし、その上言葉少なに語るから説明になってねえし、ぎょっとするような無茶を何の苦もなくやったりするし、まじ分かんねえ意味分かんねえどうしようもない」
「……」
「俺が初めてクロと会ったあたりはもっと酷かった。一カ月一言も喋らなかったし物も殆ど食わなかったしずっと無表情だったしまじ酷いもんだった。今はまだ柔らかいって思える。まあそんな比較をしたところでラナちゃんにはしょうがないんだけどさ」
 ひび割れた石の道。風に揺れる花々。周辺にあるのは砕けた塀ばかりで、視界が非常に開けている。
 なだらかな坂だったのが石の階段へと途中から変わった。上を見上げれば階段は緩いカーブを描きながらずっと上まで続いている。三人ほどの観光客がカメラで風景を撮影している隣をそっと通り過ぎた。
 階段の道はラーナーの想像以上に身体に疲れを与える。対してアランは体力があるのかまだ十分余裕という風に見える。
「クロは変わっているようで、やっぱり変わっていないんだ」
 アランは少し疲れて遅くなってきたラーナーの歩行スピードに合わせる。
「表面は変わったというか、ね。根っこの部分はずっと冷たいままだ。俺と師匠とおばさんはそのクロの心を開きたいと思いながらずっとあいつと付き合ってるけど、結局あいつは本当に心を開こうとしない。笑うようになっても、こっちを本当に信頼してるわけじゃないのかな。俺達はもうあいつのこと信じてやれるのに、一方的だよ」
 ラーナーはそっと頷いた。その言葉は彼女が強く共感できるものだった。まさにその通りである。ラーナーだってクロのことを信じている。冷たいながらも自分の事を守ってくれる彼の存在はラーナーにとって大きなもので、弟のセルドを失ってからは彼女の心の大黒柱のようなものである。けれど、クロにとってはどうだろうか。先程の言動からして、クロがラーナーを信頼しているとはとても思えない。ラーナーもこの件のおかげでクロへの信頼は欠けてしまった。支柱を失った彼女の心は脆く崩れ、今に至る。
「だけど俺も師匠もおばさんも今までで一番びっくりしたのが、ラナちゃんをクロが連れてきたことだよ」
「え」
「まあ最初に来たときはどっちかっていうとラナちゃんがクロを連れてきたって感じだけど。どっちでもいいや。とにかく、あいつとにかく他人とつるむのはほんとだめだから、しかも女の子だし、ほんとびっくりした。ありえねえって思った。だけどなんかさ、こういうと変だけどさ、クロが変わってきている象徴なのかもしんないとか思ったりしてさ」
「象徴って、大袈裟な」
「まじめな話さ。お茶飲む?」
「あ、うん」
 アランは歩きながらリュックを回し中から一つ麦茶の入ったペットボトルを取り出す。バスに乗り込む前に付近で購入したものだ。暑さに加え運動するのだから汗をかき水分はみるみる消費されていくと分かっていたのだろう。ラーナーはそれを受け取りぐんぐん飲む。アランももう一つ買っていたもので喉を潤す。
 途端に疲れが和らいだような気になり、二人の歩く速さが心なしか速くなる。
 少し周りを見渡せば、意外と高い位置まで来ていた。頂上までの道のりはまだまだ遠いが、トレアスの趣のある風景を一望することができる。思わずラーナーは感嘆した。
 連なるような塀と屋根の無いものが多い建物は、物寂しさを残しながらもその静寂が一層遺跡の崇高な美を漂わせる。
「ずっと昔、ここに人が住んでいたんだよね」
 ぽつりとラーナーは呟く。
「……そうだな。ここに沢山の人がいて、色んな話して。きっと今とそう変わらない雰囲気で」
「今とは違うんじゃない?」
「そうでもないさ。根本的な部分は人間なんてずっと変わっちゃいねえって、きっと。友達作って恋もして、誰かと結婚したりして。ああ、もしかしたら今よりもっとポケモンは沢山いたかもな」
「推測だね」
「大昔の話だぜ。俺の専門外だし。ま、全然分かんねえけどロマンは感じるよ」

 それからしばらく無言で、ただ時々ぽつぽつと会話を交わしながら、二人はひたすらに歩を進めていく。
 まだ、と聞くといつもアランはもう少しと言って言葉を濁す。さっきもそんなこと言ったじゃんと言い返すと気のせい気のせいと言ってかわす。時々お茶を飲みつつも疲労は重くのしかかりラーナーの足は棒のようだ。身体だけが勝手に動いているように作業風に上っていく。

「着いた」
 そう言ってアランは足を止めた。合わせてラーナーも歩を止め、辺りを見回し何か声をあげようとするとアランは口の前で指を立てる。静かに、というサインだ。ラーナーは息を止め、アランの視線の向こうを見る。

 百メートルほど向こう、二メートル程の高さの城壁の上に器用に座っている人間の姿があった。ラーナーは目を見開いた。帽子を脱いで風になびく深緑の髪、まさしく藤波黒だった。壁の傍にはポニータも佇んでいる。
 彼はずっと向こうを見つめていた。カスミラ遺跡、トレアスの町、町の向こうにあるなだらかな山々、そして上に広がる青く雄大な空。自然と人間の文化、全てを受け入れようと全てを見つめている。
 全てを。

 

「何か思うことがあると、いつもあいつはここに来るんだ」
 ぼそりとアランは言う。
「あいつが倒れる前、何かもの思いに浸っているようなこと、無かったか?」
「あ……うん。バハロに向かっている途中で」
 旅が始まった日に突然クロは何かが切れたように立ち止まり、黙り込んで虚ろになったことがあった。
「それは一種のあいつのサインなんだ。俺達もよく分かってねえけど、身体が限界に近くなった時やいっぺん倒れてから数日は精神が不安定になるんだ」
「そう、なんだ」
「うん。異様に気持ちが激昂したり、かと思えば突然静かになったり、めんどくさいんだ。だけど本人もそれを自覚してて、しょっちゅう後悔してる。安定しない心を落ちつかせるために、ここに来るんだ」
 ラーナーはクロを見つめた。こちらに気付いている様子はまるでない。全身を遺跡の自然に同化させているように静かで落ち着きがある。朝の彼とはまるで正反対だ。
 大きな風が吹く。しかしクロは全く動じることはない。
 ポニータは待っている。彼が気持ちを整理して満足しまた地に立つことを、ただ待っている。それまでポニータはずっと彼の傍についているだろう。
 胸の奥がしんと静まっていくのをラーナーは感じた。言葉にならないものが身体の中を巡り、口からは何も出てこない。

「ラナちゃん、明日のトレアスの市場で朝市があるんだけど、クロと一緒に行ってくれないか」
「……え?」
 唐突な提案にラーナーは聞き返す。
「本当は毎朝俺が行くんだけど。そこで仲直りしてほしいんだ。クロには俺から言っておくから」
「そんな、あたし、うまく話せる自信ないよ」
「大丈夫だよ。クロだって分かってる筈だ」
 ラーナーは黙り込み、もう一度クロの姿に目をやる。彼は遠い存在だった。今実際に物理的に離れている距離以上に、心の距離は一層離れてしまった。これを縮めるかそのままか。答えは決まっている。けれど勇気を出すことは怖いことだった。また突き放されてしまいそうな気がするのだ。けれどこのままでいいのかと問われればラーナーはそれはだめだと即答できる。今はそういう状況だった。
 傍にあった遺跡の塀にラーナーは触ろうとしながらも少し躊躇し、けれどそっと触れる。ざらざらとしていて、かたく冷たい。

「……うん」
 唇を噛みしめて彼女は頷いた。


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