中央部、隠し通路奥、巨大樹の中心部。 最上層から根元の更に下まで、幹の中に出来た巨大な筒状の通路がまっすぐに伸びている。 その最深部である真下の地面の更に下では、一体何が起きているのか。 それを特別、知りたいという気持ちがある訳でもなかったその者は、特別力に長けていた訳でも、頭脳が明晰であった訳でもない。 彼女は、鼻が利いた。ただそれだけの事である。近づかずとも、よからぬものに反応が可能であり、匂いの判別さえ理解出来れば、見えざる者にも対処出来る。 「なによ……これは。」 最深部の地面には、前方へと続く小さな穴が開いており、そこをなんとか通り抜けたキキバナは、その大樹の真実を、今正に目の当たりにしている。 ホールのような空洞に広がるその光景を、彼女の知識でどこまで理解出来るのかは定かではないが、とりあえずその者に、生きているという言葉が当てはまるのかどうか、彼女はそれを考えながら、何か言い様の無い気持ちに駆り立てられていた。 全身緑色。両腕に刃こぼれしきってボロボロになってしまった鎌を装着し、かろうじて付いている羽は、最早その原型を留めてはいなかった。 生きているのか死んでいるのか、その判別も付かなくなってしまったように、その者は上空から伸びた無数の根や葉に体中を取り巻かれ、たたずっと、そこにいる。 キキバナにはそれが異様な光景に思えてならない。目の前の存在から伸びている根や葉の中を、緑色の光の粒が上空の大樹に向かって流動しており、それはまるで彼から、残りの命を全て奪い去っているようにも思えてくる。 恐怖して、そこから逃げだす事ならいくらでも出来るが、一方通行となっている後方には……。 「ダーテング様……おじい様は何を、ここで一体、何を……。」 「……見た、な?」 戦慄か衝撃か、後方の声に振り向いたキキバナの顔から、緊張の汗が滴り落ちる。 振り返ると、そこには脇に、先程までキキバナを狙っていた……正確にはキキバナが驚いて、緊張が途切れて手を離した為に落下する事になったのだが、とにかくその、くすんだ煙を放出する人間を、荷物のように脇に抱えたタネボーが、いつもと変わらぬ様子でそこに立っていた。 丸い形状を持つタネボーの体で、一体どうやって人間のような大きな重荷を、脇に抱える事が出来るのかは、キキバナにも判らない。 「貴方……貴方、誰よ。」 「見ての通りの、ただの種坊だよ。」 タネボーの体から、紫色の液状物質が伸びており、それがまるで体を支える四肢の如く、タネボーの体に、半透明で紫色の手足を付加させている。 「貴方は誰と聞いているの……おじい様、それとも、本当に別人なの?」 彼女の鼻が、それを感知している。 紛れもなく、目の前の異様な者から漂っている懐かし香りは、彼の知っている森の長、ダーテングそのものに間違い無いのだが、その自らの能力を、彼女は今、自分で疑っている。 「そうだよキキバナ、僕があのダーテングさ。ははっ……久々の再開で、ちょっと口調と姿が変わるなんて、この森にしてみればよくある事だよ。」 気さくであるとか、軽い感じであるとか、そういうものではない。 彼女の生きてきた上で、頼りにしてきた感覚を疑ってまで感じる、異様なものがそこにあるのだ。 彼女はその異様さに腹を立てている。 尊敬していた者が、役に立とうとしていた者が、自分の感知出来ない所でよからぬ者に変貌してしまった事を、彼女は自らの責務として感じており、そうなってしまった事実と、それを止める事の出来なかった自分に腹を立てている。 「私の役目は……貴方から、真実を聞く事。それならば教えて下さいダーテング様……これは、この朽ち果てた者が一体、森の何を意味するのですか。」 天狗と変わらぬ調子で、種坊が答える。 「三つ首の伝承は、知っているかな?」 キキバナの顔が、引きつった。 自らと、その大事な者を襲った悪夢。その名前が何故、今になって出てくるのか。 「三つ首かどうかは判りませんが……伝承と似たような者に、私は会いました。」 「そうか、なら話は早い。」 種坊はその事を、森で起きている事実を、とうに知っているらしい。 伝承によると、ダーテングは三つ首と戦い、その力をこの森に封じたのだという。 その封じた場所というのが、このホールだと、そういう事なのだろうか。 「三つ首はゴーストのようなものでね。この森に人間が近づいてくると、それに呼応して体内から抜け出して、この大樹の器官の中を、生命エネルギーと共に徘徊する。いわば、大樹にいる限り、三つ首からは逃れられない運命にある訳だよ。」 難しい話は、キキバナにはよく判らなかったが、中央の者が三つ首であり、上空に向かって伸びているツタや根の部分から、彼はその意識を、大樹全体に巡らせているらしい事が理解出来た。 理解出来て、キキバナはなにか、そのボロボロになった者が、大樹そのものであるように思えて、なんだか少しそれが、暖かい者に思えてきた。 「……じゃ……じゃあ大樹が長年生き永らえているのって……この三つ首のおかげなんでしょうか。」 「ふふふふ……違うよキキバナ。」 ぞっとするような無表情な笑みと共に、彼から伸びている流動体がうねり始め、脇に抱えていた人間が地に落ちる。 「大樹を支えているのはこの僕だよ。そいつの憎しみを永劫殺さず、妬んだ感情のままに保存し、この大樹を守っている。勘違いしないで欲しいな。はははっ!あはははは!」 地面を踏み付けるジャリという音が聞こえて、キキバナは自分の足に、力が入っている事に気付く。 この者は、天狗であるらしい。そして同時に、種坊であるらしい。 キキバナはまだ、疑っていた。自分はまだ、真実に辿り着けていないのではないかと、そう思っているのだ。 「……この者に、そのような強大な力が備わっているというのですか。大樹一つを生き永らえさせるような、そんな力が。」 「君にはまだ話していなかったね……僕の側近がいるだろう。うさんくさいヤツが。あいつは人間から体を変質させた事もあってか、その手の事には詳しいらしくて、その技術を上手く使わせて貰っているんだよ。」 三つ首の事だけでも頭が一杯だったのに、更に人間が化けている者がいると聞かされてしまったキキバナは、少々混乱していたが、なんとか冷静を保っていた。 「大樹はとうに寿命を超えているが、今その生命を絶つ訳にはいかない。三つ首にもそろそろ限界が近づいている。君の見た三つ首の影は、彼の生命が残り少ない事を表すなによりの証。つまり、こういう事だよ。」 突如、タネボーから伸びた紫色の液状物質が、キキバナに向かって伸びてくるが、キキバナが足を蹴るタイミングの方が少し早い。 後方に飛んだキキバナの後ろに、三つ首と呼ばれた朽ちた体が立っている。 「どうやら気付いたみたいだな。そうだよ、君の役目は選手交代だよ。そこに立っている消耗品よりかは、マトモな品種改良が出来る事を期待しようか。」 キキバナは畜生と吐き捨て、舌打ちをするも、その悔しさ故の歯軋りが、一度二度涙を噛んだくらいでは止まらない。 自分の信じていた懐かしい香りが近づくごとに、彼女の中で憎しみが広がっていく。 ――誰かを、憎んでいるのであろう。 「……!?」 後方から声が聞こえてくる。とうに朽ち果てた体の中から、その声は呻くようにして頭に入ってきた。 ――憎んで今、その為にお前はあるのだろう。 「………。」 ――憎しみがお前を生かしている。その事実、受け入れるのか。 「……………。」 ――死に往く一歩手前、私とお前は、今や同じ運命を辿る者。さぁ今、憎しみを力に。 「いちいちいちいち……鼻に付いてくるんじゃないよ!」 ――!? 声に応じて、上空に伸びた根全体が、脈動しているようにも見て取れるように、中央部の者が、キキバナの声に気圧されたようになっていた。 前方から品定めをしていたタネボーに、それらがどう写ったのか、タネボーは今も涼しい顔で、わざと驚いたような表情をとって、呑気に構えている。 「へぇ……やっぱり僕は、人間じゃないらしいな。人間への憎しみに付け込んで、本人を動かす原動力を乗っ取る力故に、彼女は操れないのかな。」 だがキキバナには、これ以上の手が残されていなかった。 目の前の者を殴りたいという気持ちも、沸き出る力にも、彼女には無かった。 彼女に出来る事は、今も昔もただ一つ、それしかない。 その彼女の感覚が、自ら、そしてタネボー、そして今は地に落ちた人間が入ってきた、ホール入口を捕らえていた。 「こんな近くにいながら、ロクに洗脳も出来ないなんて。落ちたもんだね三つ首。でも、今代わりが行く所だから、もう少し待っていろよ。」 感覚は更に先、玉座へと向かう、筒状の経路に漂っている。 先刻起きたであろう戦いの影響か、そこには何かが焦げたような匂いが漂っており、その匂いを上手く探知する事が出来ない。 何かが近づいていた。目の前の居様なものとは別の、懐かしい香りが。 |