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「研究の予算が降りない?! 教授、なぜです!?」

二メートル四方ほどの広さに、扉のある部分を除けば四方とも にギッシリと中身の詰まった本棚に囲まれ、中央にこれまたたくさんの本が山積みにされている机のある部屋で、若干紺色のかかった長い髪の毛を後頭部のあた りでまとめてお下げにしているが前髪だけは額を隠すように垂らしている女性が、机のいすに座っている初老の少しやせた男性に言い寄っていた。
男性の方は両肘を机上に置き、両手をくんでその上にあごを乗せている。数年前まではまだ黒かったであろうふさふさした髪の毛は、今ではすっかり白くなっている。眉毛もまた然り。男は女性に対して本当に申し訳なさそうに、縮こまっているように見える。

「教授だって私の論文を見て『研究する価値がある』っておっしゃってくれたじゃありませんか!? それが何で今になって?」

女性の方は怒りで顔を真っ赤にしていた。すっきりしたラインの顔の輪郭に、彫りの深い顔立ち。笑ったらさぞかし男性を惹きつけるであろうその顔は、今は怒りで歪んで眉がつり上がっていた。
服装は緑色の下着の上に、ブラウン色のジャケットを身につけ、膝のあたりまで隠れる黒のスカートを履いている。一応目上の者と話すからには、失礼のない服装を選んできたのだろう。

「アリアくん。本当に済まないと思っている。私だって君があの論文を提出してきたときには、目が皿になるような思いだったよ」

男性はようやくゆっくりとした口調で声を出し始めた。それはアリアと呼ばれた女性に話しかけているよりも、むしろ自分自身に言い聞かせているように思えた。

「だったら、なぜ……」
「勝手ながら先日、学会で君の論文を紹介させてもらった。だが連中の反応は至って冷ややかだった。私もこの業界ではそれなりの権威を持っているつもりだ。だが物事には限界というものもある」

アリアが言おうとしたことを先取りしたような内容だった。実際アリアは前に座っている教授の権威を少しばかり借りてでもこの研究を進めるつもりでいた。だがその教授に「限界がある」とまで言われては、ぐうの音も出ない。

「私も非常に残念に思う。この研究はあきらめるか、私費を投じてでも進めたまえ。出来れば協力したいところだが、表だった行動に出れば一人の学生を贔屓しているように見られてしまうからな。私のような地位まで来てしまえば」

それだけ言うと、教授は机の一番大きな引き出しを開けると、そこからなめした皮で出来た口を紐で止めてある袋を取り出し、机上に置いた。

「これはお詫びだ。これからも君の活躍に期待するよ。どうか黙って受け取ってほしい」

何だろうかと不思議そうにアリアは右手でそれを取り上げると、ズシリとした重みが腕全体に伝わってくる。中身がなんであるか悟った彼女は一瞬何か言おうとしたが、教授が今の言葉を思い出させるように、その威厳あるまなざしで睨み付けたので結局何も言えなかった。

「失礼しました」

彼女は頭を下げると、扉を開けて部屋から出ていった。残された教授は大きくため息をつき、目を細めて机の上にあるコーヒーカップを右手で取り、そっと口元へと運ぶ。すっかりぬるくなっていた。
部屋を出たアリアはゆっくりと深呼吸をする。天井がアーチ型になっている煉瓦造りの薄暗い回廊はどこまでも続いているかのようだった。一定の間隔に取り付 けられている燭台は、暗くなり始めるこの時間でもよく見えるようにと思って設けたのだろうが、それがかえってこの何とも言えない不気味な薄暗さに拍車をか けているように思える。
彼女は出口に向かって歩き出す。あまり好きではないヒールの妙に高い響きが、この回廊に木霊する。それはあたかも複数人の人間が、後ろから付いてきてくるようだった。
外に出ると西に向かって沈みゆく太陽が見える。それによって空は赤く染まり、一日がまもなく終わろうとしていることを告げていた。
もうすぐ太陽が西の山の向こうへ行ってしまうのを見て、彼女は足を速めた。そして先ほど教授からもらい受けた袋をポケットに入れる。同時に入れた手に懐中時計が触ったのでついでに取り出して今何時かを確認した。
午後五時三十分あたりを指している。この分では帰るときにはあたりはすっかり暗くなっているかもしれない。カンテラを持ってこなかったことを彼女は幾分後悔した。そして彼女は小走りで家路を急ぐ。ヒールを履いているので下手をしたらバランスを崩しそうだ。
このルゼックの街はこのくらいの時間になると、真っ赤に燃え出す。すなわち、夕日に照らされた煉瓦造りの建物たちがあたかも燃えているかのように赤々と染まるのだ。通りには彼女と同じように家路を急ぐ人で幾分賑やかになり、馬車が通る頻度も上がる。
石畳を敷き詰めた通りを抜けると、やがて中央に噴水のある広場にさしかかった。帰るときには必ず通ることとなるナヤンセ広場。人が多くて、少々ごみごみし ているとも言えるルゼックの街でこの場所だけは少し異質である。ほかの場所と同じようにここも人通りは多いのだが、なぜかこの場所だけは静けさというか、 どこか落ち着いた部分があるのだ。しぶきを上げている噴水のみずみずしさかもしれない。あるいはほかの場所とは違う、この開放的な空間のせいかもしれな い。何にしても、彼女はここを通るときだけ、ほかの煩わしさからは逃れているような気分になるのだった。
と、そのときだった。彼女は噴水を囲む ように配置されているベンチの一つに、一人の自分より少し年下ほどに見える青年が座っているのを目にした。男はおそらく自然の色であろう茶色い長くはない が、少し普通よりも伸びた髪の毛を持っている。全体的に色白だが不健康そうな様子はあまり見られない。目の色は遠くてよく分からなかったが、少なくとは黒 くはないようである。
なぜそのとき、その男に少しばかりの関心が湧いたのか、自分でも分からなかった。ただ、少しだけ他とは違うものが感じられるとしか彼女には言いようがないだろう。
そのとき、前からやってきた中年の男性にぶつかったとき、ハッと我に返り、「すみません」と頭を下げると、もう日没まで時間がないことも思い出し、そのまま広場を走り抜けた。
なんであの男の子が目にとまったんだろうと不思議に思いながら、彼女は走る。走りながらヒールのある靴なんてもう二度とはかないと心に誓った。
街の外壁の門まで差し掛かったときには太陽は間もなく山の向こうへと去っていくところだった。街の門を出ればうってかわって歩いている者は誰一人といない。ゴミゴミとした煩わしさも、一気に消えてなくなる。
そのとき、アリアは門を出てすぐの外壁に誰かが背中からもたれ掛かって立っているのに気づいた。

「まったく。もう日が暮れるから迎えに来たんですよ」

と、呆れているようにため息混じりに言ったその者は人間の姿をしていなかった。背はアリアよりも遙かに高く、頭一つと半分ほど彼のほうが上である。体の色 は見事に赤と少し赤みのかかった黄色のツートンカラーとなっており、それぞれ腹の部分と両足の膝のあたりで分かれている。細いが決して華奢ではない両腕 に、三本に分かれた爪のとがった指。俗にバシャーモと呼ばれる者だった。

「日が傾き始める頃には帰るって言ったじゃないですか?」

狼狽したようなそのバシャーモの顔を見て、苛立って無意識のうちに顰めさせていた顔をほころばせる。

「ごめんねシェイド。私の前の面会に来てる人が、一時間ぐらい話しててね。入ったときにはもう五時を回ってたんだから。って迎えに来るなら門の中まで入ればいいのに」
「だって、僕とアリアが話しているところを他の人間に見られたらいろいろとまずいでしょう?」
「いいのよ。人に見られようが見られまいが」
「なんだか機嫌悪そうですね。今日の面会でいやなことでもあったんですか?」

シェイドと呼ばれたそのバシャーモはアリアの鞄を受け取りながら問いかけた。

「はあ……それがね。あたしの研究は学会で評価されなかったんだって。それだけで研究中止って言われちゃったんだから」
「ええ? 教授の方も気に入ってるって言ってたのに? 人間の世界って本当に分からないですね」
「人間ってそんなもんよ。ただラコンと話が出来るってだけで気味悪がるような世界なんだから」

そして二人は既に日が沈んで闇がその影を落とした平原の小道を歩いていった。

「そうそう、今日の献立は何?」
「マッシュポテトにカルボナーラ、それにオニオンスープです」


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