−5− 彼がナヤンセ広場に来たとき、日は正午の位置より少しばかり西へと傾いて、噴水のそばに建ててある時計は午後三時を指していた。 どうしてまたここに来ることになったのかは分からない。単にこの場所がちょうど良さそうだったためか、そんなことはどうでもよかっただが。 ここに来てから何時間たっただろうか。ずっと彼は噴水のそばにあるベンチに座っている。 自分はここに来て何をしたいのか、何も考えていなかった。行き交う人々が、まるで蜃気楼(ミラージュ)のようにぼんやり映っては消えていく。 過ぎ去っていく時間。徐々に静みゆく太陽。ほこりっぽい町並み。忙しなく行き交う人々。 彼がこの街に来た理由は、単に一番最初に目にとまった街だったからというだけであった。自分が持つ力によってこのような場所にいても、誰の目を気にする必要もない。 そうしているうちに、いつしか太陽は西にそびえる山の向こうへと消えていった。気が付くと人の往来は既にほとんどなく、広場の周りの建物の窓にぼんやりと明かりがともる。 さきほどまで人通りが激しく、忙しげな雰囲気だった広場は今はうってかわって閑散としている。まだ人の往来は続いてはいたが、その数もぐっと減少している。 噴水は相変わらずしぶきを上げていたが、何となく昼間とは違い、今は自己主張を抑えているように見える。 「風邪を引くよ、君」 その言葉は突如そこらから湧いてきたように、彼に降りかかってきた。我に返ったように彼は顔を上げると、そこには背の高い、座っていることもあるが大きいと感じるような男がじっと彼の方に視線を向けていた。 膝ほどまで隠れるほどの長いベージュでフード付きのコートを身につけており、両手には黒い手袋をつけている。 落ち着いたような柔らかい雰囲気を持った目に、整った輪郭。首が少し隠れるほどの髪の毛は黒く、特に整えもせずに、あるがままの状態だった。 そしてこの男で最も目を惹くものと言ったら、右肩に乗っている一羽の鳥だった。 鳥は翼と頭部が黒い羽毛に覆われ、胸のあたりは白い。全体的にがっしりとした体躯で、トゲのような足の爪と嘴を持っている。爪と嘴いずれも黄色いが先端は黒い。 そして足の付け根部分から胸の下のあたり、そして翼の内側にかけて鮮やかな黒白の縞模様が描かれている。隼という種の鳥であることを彼は思いだした。 「もう夜ですよ。家に帰ったらどうです?」 男の視線とともに、隼の眼もまた彼へと注がれてゆく。 男の発した言葉の意味が一瞬理解できず、彼は一瞬どもるように狼狽した声を漏らした。 「いいんです。今は帰りたくないんです」 ようやく彼は言いたいことを掴み、それを言葉に表した。 男の方は、しばらく黙っていたが彼の言葉の真意をくみ取ったのか、にこりと笑みを浮かべると手袋で覆った手をそっと彼の腕に近づけた。 「だったら。私の泊まる宿に一緒にいきませんか。もう一人分の宿代くらい出せますよ」 「え?」 あまりに突拍子もない申し出だった。彼はこのあとどうしようか何も考えていなかったが、誰かからそのような申し出を受けることは全く想定していなかった。 「帰りたくのないのなら、どこに泊まるっていうんです? それとも他に断る理由がありますか?」 「え? でも……迷惑はかけられません」 「いいんですよ。旅は道連れ世は情けって言葉があるんですよ。今のあなたは帰る場所に帰りたくない、でも今日泊まる場所がなくて困っている。困っている人を助けるのが旅をする醍醐味でもあるんですよ」 「旅の方……ですか」 「失礼、自己紹介が遅れましたね。私はルアという者です」 男は一歩下がって改まったように頭を下げ、そう名乗った。 「で、どうするんです?」 ベンチに座っている彼は右手の親指の爪を噛んだ。考え込むときの仕草なのかもしれない。 そしてしばらくそうして考えたあげく、ようやく彼は答えを出した。 「分かりました。お願いします」 頭を垂れて彼はそう答えた。そしてルアと呼ばれた方は、にこりと鮮やかとも言える笑みを浮かべる。 そして彼はベンチからようやく立ち上がり、軽く衣服をはたいた。彼が顔を上げると、目の前にいきなり隼の指すような鋭い眼差しが現れる。 「この子はクレフって言います。ちょっとした縁でこうやって私に付いてきてくれるんですよ」 ルアは左手の人差し指を、クレフと呼ばれた隼の嘴の先に差し出す。隼の方は少しも表情を変えずに、差し出された人差し指をじっと見つめる。 「さて、私たちも名乗ったことですし、君の名前を教えてくれますか?」 男の笑顔はまるで泉がわき出るようなものだった。そして彼の方も知らず知らずのうちにその笑顔に引き込まれるように、その名を名乗った。 「僕は……エアっていいます」 彼はそう言ったのだった。 ルアという旅人が借りた宿の部屋はちょうど二人部屋だった。ルゼックの街の南の外れにある宿だった。木造の二階建てでそれほど目立った装飾は施されていな いが、入り口には木彫りのレリーフがつり下げられていた。馬の上に誰か男の人が乗って、その両者を二枚の花びらが包み込んでいる様子を表している。 借りた部屋は三メートル四方の間に、向かって左端に二段ベッドが備え付けられている。壁には白の壁紙が貼ってあるが、貼られて少なからず時間が経っている のか、少し黄ばんでいた。右側には、二人が向かい合って座ることの出来るテーブルと椅子がある。四脚のテーブルは丁寧に角が丸く削られており、渋いマルー ン色に染まっている。入り口と反対側の壁には広めで外側に両開きできるタイプの出窓が設置されており、張り出した棚状部分には磁器製の花瓶に生けられた紅 色のバラがこの閑散とした雰囲気の部屋に対して、まるで自己主張をしているかのようだった。テーブルがある側の壁の天井付近には既に火のともった石油ラン プが設置され、テーブルのない余っているスペースの部分には両開きの扉が備えられている。おそらくクローゼットだろう。 行商人など、旅を生業にする者が使う宿なのでさほど高級な雰囲気は微塵にも感じられないが、掃除などの最低限の管理はちゃんと行き届いているようだった。 「さあ、遠慮はいりませんよ」 ルアは外の廊下でまだ立ち止まっているエアに目を向けて振った。エアの方はというと、やはり気兼ねしているらしく、扉の前に立ち止まり中にはいるのをどうしても躊躇してしまう様子だった。右手の人差し指で右の頬を軽く掻く仕草を見せる。 ルアはそのような様子を見せるエアを見て、一度窓に近づくと、その両開きの扉を開け放った。同時に外から風が吹き込み、エアの麦色の髪がなびく。 「それとも、もっと高めの宿の方が良かったですか?」 ルアがそんなことを言うので、エアは慌てて首を振ってそれを否定する。 「いえ、……そんなことありません。十分ですよ……」 途端にエアの中に申し訳なさが生まれた。自分のために自分の分の宿代まで出してくれたのに、このまま入らないでいたらルアの親切を踏みにじることになるということに気づいたからだ。 そして意を決してエアは、廊下と部屋の境目である扉の敷居をまたいだ。そして中へ入ってしまうと、そっと音を立てるのを憚るように扉を閉めた。 エアは照れくさそうに顔を上げると、その途端視線はルアの顔よりもその横に載っている隼のクレフの指すような表情に向けられた。 「さて、ベッドは上にします? それとも下がいいですか?」 「どちらでもいいですけど」 それから、エアが上の段、ルアが下の段でそれぞれ眠ることとなった。クレフはルアが眠っている間はいつも散歩させるらしく、少し前にルアが外へと出した。 上の段は言うまでもなく天井が近い。エアはなんとなく手を伸ばしてみると、すぐに手のひらが天井の板に触れる。 いつも滝の裏の湿った空気の洞窟で眠るエアにとって、ベッドで布団をかぶって眠るというのは妙な感じだった。暗くなった部屋。 エアは数日前のことを思い出す…… 「ここを出ていく?」 滝の裏の洞窟に訪れたルインは、さきほどエアから渡された言葉を受けてそう返す。 「うん。理由は言わなくても分かるだろ?」 エアはルインに対して背を向ける格好で座っている。大きな背中はわずかに上下して呼吸していることが分かる。 ルインは真っ黒な前足を一歩寄せてエアに近づく。 「だが、あの場合はああするしかなかっただろう」 「でも君は気を失わせて、なんとかとらえただけだった。僕の場合は……殺してしまった」 「捕まえたやつも、いずれは殺すことになるかもしれない。どのみち同じさ」 「そんなこと……。そんなこと、何の気休めにもならないよ!」 エアは次第に語調を強める。大きな山吹色の背中の上下が激しくなる。滝の轟音が彼の声と共鳴するように洞窟中を木霊していた。 思わず激しい口調となったエアに気圧されて、一瞬ルインは言葉を詰まらせる。 「それに、ここにいると……なんだか辛いんだ……特にグレゴールさんが」 ルインは何かを言おうと口を開きかけたが、思い直してエアに言わせるままにしておくことにした。 「ア イリスは僕のせいで死んでしまった……だけどグレゴールさんはそんな僕を許してくれた。僕と会うときも昔と同じような笑顔を見せてくれる。けど……なんだ かその笑顔の奥に何かがあるんじゃないか。本当に言いたいことをその笑顔で隠しているんじゃないかって気がして、正直……もう限界だよ」 一言一言話すたびに、その声は次第に悲壮感に染まっていくように感じられた。そしてエアは初めてルインの方へ振り向き、その表情を露わにした。エアは泣い てはいない、それを我慢をしている様子もなかったが、なぜかルインは一瞬エアが大粒の涙を流して声を立てて泣いているように見えた。 そしてルインはなるほどな、と心の中でつぶやく。 心なしか洞窟の入り口で轟音をたてている滝の音が少し静まったように感じられた。その代わりか、空気が洞窟に入り込むときのあの叫び声にもうめき声にも似た音が、壁面を振動させている。 「それと……もう一つあるんだ。理由が」 「言って見ろよ」 しかしエアはすぐには話さず、沈黙がその場に影を落とす。エアは視線をルインから地面に落とし、話すのを躊躇しているように見えた。というよりも単に照れくさそうにしているとルインは感じた。 ルインは業を煮やして、わざとらしくエアの耳に届くようにため息をつく。それからエアもようやく意を決したように話し始めた。 「ここにいると辛いって言ったけど……でも僕はこの森が好きだから……」 「だから?」 「だから、何が起きているのか、知りたいと思う。なんでラコンが心を失くしはじめたのか。もし出来ることなら、それを止めたいとも思ってる」 だんだん早口になりながらも、エアはその言葉をすべて言いきった。そして最後に小声でこう付け加える。 「それに、もう誰も死なせたくないから……」 ルインは最後に発せられたその言葉に様々な感情が渦巻いていることを感じ取った。それはエアの正直な思いだったのだろう。同時に彼の決意でもある。 ルインはそっとエアの前に歩み寄った。そしてエアもまた、視線を上げてルインの眼に向ける。ルインはすべてお見通しと言わんばかりの笑みを浮かべていた。 「また行っちまうんだな」 「そうだね」 「アイリスのおかげだな」 エアはそれには答えず、立ち上がり轟音の溢れる洞窟の入り口へと歩き始めた。ルインは後ろを付いてく。 入り口が近づくにつれて、滝の音は大きくなっていく。 「二つくらい言っておきたいことがある」 翼を広げ始め、まもなく飛び立とうとしているエアに向かってルインは前に立ち、エアの眼をまっすぐと見据えながら言った。 「グレ爺はお前を恨んじゃいないさ。これだけは確かだ」 そのあと、どんな顔をしてルインに別れを告げたのかよく憶えていなかった。しかし彼の耳には、最後にルインが言った言葉がしっかりと焼き付いて、離れなかった。 「何年かかってもかまわねえが、必ず帰ってこいよ。少なくとも俺は待ち続けるからな」 約束が増えてしまったと彼は思った。どんなことがあっても必ず森へと帰る。そしてもう一つは……アイリスとの約束。 それを考えると、エアは胸がいっぱいになるような気持ちになった。実際にこの旅を決意させたのもアイリスとの約束からであったからだ。 エアは何となく窓から外を見下ろした。 窓からは表通りを眺め下ろすことが出来るが、今のこの時間では、周りの建物の灯りもほとんど消えてしまってすっかり闇に覆われていた。 ラコンであるはずの自分が、今は人間の姿になって人間のお世話になっている。どうして自分がこんな力を持っているのかは全く知らなかった。 下の段で横になっているルアはもう眠っているのか、それともまだ起きているのか、ルアには分からない。話しかけようと思ったが、初対面の人間にそんなことする気にはならなかった。 いろいろ訊いてみたいこともあったのだが、今はどうしてもそんな気分にはなれない。明日日が昇ったら、何かを訊いて、それから別れようと考えた。旅人と名乗っていたから、何かを知っていることもあるかもしれないと思ったからだ。 すると、エアの中に巣くう眠気は次第にその大きさを増していき、いつしか彼の意識は眠りの海の中に流されていった。 |