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翌朝、エアは思い切ってルアに昨日から言おうと、胸のうちに秘めていた質問を投げかけることにした。
二人は宿をチェッ クアウトして外へと出た。時刻は午前十時を少しすぎたところで、この季節ならこの時刻は少し肌寒いと感じる時間帯である。しかも空はどんよりと灰色の雲に 覆われて、暖かさを地上に与える太陽光を厚い壁で遮っていたのだ。そのせいで少しばかり薄暗い感があった。しかし雨は降っておらず、地面にはまだぬれたよ うな跡は少しも見受けられなかった。人々はこれから仕事場へ向かうために街の中心の方へ向かって歩き、辻馬車やオートモービルが時折石畳の通りを過ぎ去っ ていく姿があった。

ルアは左肩のクレフに目をやりながら、右手で雨が降っているかどうかを確かめるように掌を広げて空に向ける。
この若い旅人は今までどのような生き方をしてきたのだろうかと、ふとエアは考えた。旅人の眼差しは何者にも不思議な魅力に似た雰囲気を与えているようで、まるでこの世のすべてのことに通じているように思われるのだった。
それに対してエアは自分自身のことを振り返ってみた。様々な迷いや悩みのようなものがまとわりついているようで、時折モヤモヤしたような感覚に陥るのだ。まるで常に周りが霧に覆われているかのように。
そんなことを考えている折りに、ルアが話しかけてきた。

「さてと、きみはこれからどうするつもりです?」

エアはしばらく考えた後にこう返す。

「まだ……よく決めてないんです。ただ、住んでいたところに戻ることはできません」
「そうですか。私はもう少しこの街にとどまるつもりです。雨も降りそうですしね」

そしてルアは何か思いついたように、右手人差し指をピンと立てる、エアの方に顔を向けた。

「なんなら、もう少し一緒にいませんか。私はまだここにいるつもりですし、君はこれからのこと決めていないんでしょう」

そのルアの提案はエアにとっても都合の良いことであった。エアは旅人に思い切ってラコンの異変のことを訪ねる決意はしたものの、その問いをいつ切り出そう かそのタイミングに迷っていたところだった。もしこのまま何もせず、この機知に富んでいるように見える旅人と別れることになってしまうことになればという ことを大いに恐れていたのである。しかし少なくとも今はその心配も消え失せる結果となるだろう。
エアはすぐにその提案に承諾した。

二人はとりあえず、どこか身を落ち着かせることの出来るような場所を探すことにした。
歩きながらエアは旅人に対していろいろと質問をした。

「ルアさんは今までどういったところを旅をしてきたんですか」
「そうですね。北方のトムリア国のゴルトーとか西のクトネリカやゲシュトバッハとかに行きましたね」

クトネリカやゲシュトバッハという地名にエアは聞き覚えはなかったが、ゴルトーというところに関しては、毎年の冬の前に北方から渡ってくる鳥型のラコンから教えてもらったことがある。
いくつもの山や河、平野、荒れ地などを越えた先にある寒さの厳しい地域で、雲よりもはるかに高くそびえるゴルトー山がその地にどっしりと腰を据えているとのことだった。
何百年か昔までは巨大な氷河――その氷河という言葉は知っているが、実際にどのようなものなのか、エアには分からなかった――があったらしいが、今は消えてしまっているとのことだった。
エアは思わず感嘆の声をあげた。

「そんな遠くまで……すごい……」
「そ んなにすごいことじゃありませんよ。最近は機械技術が急速に発達を始めて、このルゼックから一番近い街でウィーネというのがあるんですけど、そこからゲ シュトバッハへは鉄道というもので繋がっていますし、馬車もよく利用しますしね。実を言うとここに来るのもその鉄道を使ってウィーネに向かって、それから このルゼックへ来たんです」
「ゴルトーへはやはり徒歩で?」
「さすがにゴルトーへ行くのは骨が折れましたよ。まず国境を越えなければならないでしょう。そして隣国へ入ってからまず困るのは言語の違いです。やっぱり駄目ですね、意思の疎通が出来ないって。道も険しかったですし、本当に苦労しました」

時々に笑いを交えながら語るその様子は本当に楽しそうに見えた。
そのとき、ルアの目に一つの教会が目にとまり、彼は中にはいるよう提案し、二人は教会へと入っていった。
ちょうど入ると同時にパラパラと雨が降り始めた。

教会にはいるとすぐに広大な礼拝堂になっていた。奥行きの長さは三十メートル前後はあり、横に長いベンチ型の椅子が幾つも、整然と並べられている。収容で きる人数はだいたい二百人強といったところだろうか。堂内は必要最小限の灯りと、外からの光だけが光源であるせいか少々薄暗く、朝の礼拝もとっくに終わっ ているため、今入ってきたエアとルアの他には誰もいない。神父さえも庫裏へと引き下がっていると見える。
堂内へと入ってまず目を惹く物は、出入 り口と正反対側の壁、一番奥へ設置されている巨大なパイプオルガンである。ミサのたびに使われているのだろう。世界で最も巨大な楽器といわれるパイプオル ガン。このオルガンが演奏されるときの様は、さぞ壮観であることだろう。一本一本の鉛や錫などの合金で作られているパイプは、端の物ほど長く、真ん中の物 ほど短くなっており、見事な逆放物線形の谷を描いている。そしてちょうどその谷の部分には、両手で杖を高々と掲げ、堂々とした様相でその場に立っている、 幾重もの絹のような柔らかな布をまとった女神像が祀られていた。

二人は入ってすぐそばにある椅子へと腰掛けた。エアは目の前にそびえ立つパイプオルガンと女神像に不思議な感動を覚え、思わず嘆息した。
ふと、エアは例の質問のことを思い出し、誰もいないこの場ならうってつけだろうと思い、ルアの方へと顔を向けた。

「もう一つ聞きたいことがあるんです」
「なんでしょう?」

ルアはまるでどんな質問がこようとも、的確に応対できますよと言わんばかりに常にその顔に微笑を浮かべていた。

「ラコンのことについてですけど」
「かまいません」
「ラコンが正気を失うなんて事あるでしょうか」

サッと風が過ぎ去ったようにルアの表情は不可思議なことを耳にしたように転じた。
それからエアは、森で起こったエアームドの暴走のことを言い聞かせた。もっとも、「森」ではなく「住んでいた場所」ということに変更したのだが。やはり今のエアは自分の正体がカイリューであることを人間に教えると言うことは憚られたのである。

「なるほどですね」

そしてルアはクレフをなでながら、考え込むような表情を見せた。しばらくの間意味ありげな沈黙が流れる。
雨足が強くなってきたらしく、天井に雨粒があたる音が堂内に響き、まるで巨大な何かが吼えるように泣いているかのようだった。
クレフは相変わらず刺すように鋭く、猛々しい眼差しを注いでおり、ルアから撫でられてもほとんど石像のように動かなかった。もし、このほとんど動作を見せ ない隼が、何かのきっかけで突如飛び立つような所を誰かが目の当たりにしたら、ガーゴイルでも現れたかと思うかもしれない。

「旅先で聞いた話ですが、ここの所ラコンの様子がおかしくなり始めているらしいんです」

ルアの声はそれまでに比べて幾分低い響きがあった。
エアは「本当ですか?」と返し、思わず身を乗り出した。

「ええ、ラコンは非常に頭が良い種族です。場合によっては私たち人間よりもね。人間は人間で、ラコンはラコンでそれぞれ秩序を有しています。だから滅多なことがない限り、人間たちの住む場所に近寄るなんてことはないんですよ」

エアの住む森も確かにそうであることを思い出した。森の長たるグレゴールはいつも人間の住む土地へ行ってはならないと皆に教えていた。他のラコンたちももとより人間には興味も関心もほとんど無く、進んで人界へ赴こうとは考えてはいなかった。

「しかしですが、最近ラコンの方でその秩序が崩れつつあるようなんです」

ルアの語る声は、この教会という礼拝堂の特徴に加え、二人以外誰も以内という状況も手伝っていちいち反響した。

「それってつまり……?」
「そう、ここ数年の間にラコンが人界に現れるということが多くなっているようなんです。ただ現れるだけなら問題はないんですが、時には人を襲ったり、ついには死なせてしまうようなことまで起こってるんです。それも一部の地域でなく、各地でね」
「ど……どうしてそんなことが……?」
「原 因はまだ分かっていないそうです。この前この国の首都ハプスブルクから来たって人に旅先でお会いしたんですが、あれだけの人口を誇るハプスブルクにもラコ ンが姿を見せたり、襲ってきたりする事件が、ここ半年で二十件以上もあったとか。……実を言いますと、私もここ数ヶ月の内に何度か襲われたことがありまし た」
「そのとき……どうしました?!」

思わずエアは早口になり、声も大きくなってしまった。声は堂内にぶつかり合い、数秒間反響をする。

「殺してしまいましたね……本当はやりたくなかったんですが」

ルアは諦めのような感情のこもった声で静かにそう言った。瞼を薄く閉じて、頭を垂れながら。
エアは思った。この異変の原因は何なのか、そしてそれは止めることが出来るのか。少しずつその波は各地へ押し寄せ、世界中を飲み込んでしまうのだろうか。止めることが出来るのならば、自分に出来ることがあるのならば、どんなことをしてでもそうしたい。
そしてこうも思った。このままではいつかあの森の皆も心を失ってしまうのだろうか、自分も再びあのエアームドたちと一緒になってしまうのだろうか、と。


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